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第三章
16 下戸とザル
しおりを挟む予想通り、宴会が始まってから数時間後には、茶の間は混沌に呑み込まれていた。
「ぅおぉぉい、アイアイ、まだ飲めるかぁあ」
クダを巻きながら藍人に絡んでいるのは、猿の尻のように顔を真っ赤にした伯父だった。その片手には、中身がほぼ空になった一升瓶が握られている。
ローテーブルの上には、食べ散らかされたツマミや空っぽになった酒瓶が両手では数え切れないほど並んでいた。そして、その周りには騒ぐだけ騒いでから爆睡している面々が転がっている。伯父の息子夫婦、保の両親や妹が、畳の上に大の字になって寝こけていた。伯母だけは乳児もいるからということで、赤子を抱いてさっさと帰ってしまったが。
そして、藍人はローテーブルにべったりと突っ伏したまま微動だにしていなかった。最初は愛想良く父や伯父からの杯を受けていたが、途中から口数が極端に少なくなり、最終的には真っ赤になって潰れてしまったのだ。
「伯父さん、藍人さん潰れてんだから、それ以上飲ませようとせんでよ」
保が残った日本酒をちびちびと飲みながら言うと、置物のようだった藍人がピクリと小さく身動いだ。机に顔をつけたまま、その片手が震えながら机の上のおちょこを掴む。
「ま……まだ、飲めます……」
気合いで伯父の杯を受けようとしているらしいが、どう考えても限界を迎えている。
「いや、無理せんでくださいよ」
「むり、じゃない……」
「無理だって」
駄々っ子みたいに言い返してくる藍人に、たしなめるような声をあげる。すると、藍人はおちょこを持った手をガクリと落として、ヴぅぅ、とうめき声を漏らした。ひどく無念そうな様子だ。
そんなやり取りをしている間に、伯父はいつの間にか畳の上に転がっていた。空っぽになった一升瓶を抱いて、ひどく幸せそうな表情で眠っている。その口から、ぐぉおおおぉ、とまるで冬眠中の熊のような盛大ないびきが漏れていた。
自分以外の全員が撃沈した部屋の中で、保は、はぁあ、と深くため息を漏らした。
「この片付け、誰がすんの……?」
食い散らかしの片付けもそうだが、爆睡している連中を布団に引き摺っていくことを考えるだけで、今から眩暈がした。
縁側の掃き出し窓を眺めると、すでに日は暮れかけていた。夕日がほぼ沈んで、オレンジ色に染まっていた空が藍色に浸食されつつある。
現実逃避気味に夏の日暮れを眺めていると、不意に隣から、ヴッ、と鈍い声が聞こえてきた。見やると、藍人が背中をぷるぷると震わせているのが視界に入った。
「藍人さん、大丈夫ですか?」
「きっ……きもち、わるい……」
「えっ、もしかして吐きそうです!?」
藍人にしては珍しく切羽詰まった声に焦る。
「と、とりあえずトイレに行きましょう」
そう促しながら、ぐったりとした藍人の身体を後ろからそっと抱き起こして、トイレに向かう。よろめく藍人に肩を貸しながら、保は横目でその顔をうかがった。
藍人はまだ酩酊(めいてい)状態なのか、耳朶まで真っ赤にして、とろんと溶けた目をしている。体裁を取り繕う余裕もないのか、気取りの消えた表情はいつもよりも幼く見えた。
トイレの前まで来ると、藍人は片手で口元を押さえたままポツリと呟いた。
「いやだ……吐きたく、ない……」
「気持ち悪いなら、吐いた方がいいですよ」
どうぞとばかりにトイレの扉を掌で示すが、藍人は弱々しい動作で首を左右に振った。
「保さんに、格好悪いとこ、見せたくない……」
その台詞に、一瞬笑いそうになった。なんだか好きな女の子の前で格好付けようとする小学生男子みたいな言い分だ。
「酔い潰れてる姿を見せた時点で、もう結構手遅れだと思いますけど」
笑いながらひどいことを告げると、藍人は不貞腐れた目付きで保をねめつけた。そのまま回れ右して、ふらつきながら玄関の方へと向かって歩いて行く。
「どこ行くんですか?」
「そと……外の空気、吸いたい……」
譫言(うわごと)のように言いながら、藍人は玄関で靴を履くと、ふらふらと家の外へと出て行った。サンダルに足を突っ込んで、その背を慌てて追いかける。
家の外に出ると、途端ムワッと夏の蒸し暑い空気が全身にまとわりついてきた。息を吸い込むと、緑と土が入り混じったような青臭い匂いが、肺いっぱいに潜り込んでくる。
「一人で行かないでくださいっ。ふらついて水路に落ちたら死にますよっ」
「うーん……」
保の忠告が聞こえていないのか、藍人は眠たそうに手の甲で目蓋を擦っている。完全に酔っ払っている藍人の様子を見て、保は緩くため息を漏らした。
「藍人さん」
小さく呼びかけると、藍人が眠たそうな目でこちらを見やった。保が無言で右手を差し出すと、藍人はパチリと瞬いた後に、嬉しそうに破顔した。そうして、何も言わずに保の右手を左手で握り締めてくる。
アルコールのせいか、藍人の掌はかすかに湿っていて、じんわりと熾火(おきび)みたいに熱かった。その熱が掌を通して自分にも流れ込んでくるようで、少しだけ指先が戦慄きそうになる。
「この辺、街灯もないから、暗くなると田んぼに落ちちゃうんで」
言い訳するように言いながら、藍人の手を握ったまま歩き出す。すると、咽喉の奥で笑い声を漏らしながら、藍人が保の隣に続いた。
よくよく考えれば、子供みたいに手を繋ぐのではなく、ただ腕を掴めばよかった話なのでは、と自分で思って、余計に恥ずかしくなった。どうして自分は、当たり前のように藍人に手を差し出してしまったんだろう。
すでに日は沈んで、空は藍色に塗り潰されていた。淡く柔らかな月明かりを頼りに、田んぼばかりが広がるあぜ道をゆるゆると進み続ける。遠い暗がりから、蛙と虫の鳴き声が聞こえてきた。
しばらく歩くと少しだけ酔いが抜けてきたのか、藍人が小さな声で呟いた。
「なんで、保さんは酔ってないの?」
「俺、ザルなんで」
隔世遺伝か特異体質か何かなのか、家族の中で保だけが唯一ザルだった。成人してから何度か飲み会があったが、一度も酔っ払った記憶はない。だが、一人だけ酔えないからこそ、いつも惨状の後始末を引き受ける羽目になるのだが。
「というか、藍人さんも下戸(げこ)なら、最初にそう言ってくださいよ」
ため息混じりに言いながら、チラッと藍人を見やる。途端、藍人は拗ねたように唇を引き結んだ。
今まで何度も一緒に食事に行ったが、そういえば藍人が酒を飲む姿は一度も見たことがなかった。翌日に仕事があるからアルコールは控えているんだろうと勝手に思っていたが、今日の姿を見て違うと分かった。父のすすめで日本酒を飲んだ瞬間から、藍人は妙にぽやんとして、型落ちパソコンみたいに反応が遅くなっていたからだ。
藍人がボソボソと小声で呟く。
「下戸なんて言って、保さんのお義父さんに、嫌われたくない」
「そんなことで嫌ったりしないですよ」
「そんなの分からないじゃないか。完璧でいないと、簡単に捨てられる」
最後の台詞は、吐き捨てるような口調だった。どこか盲信(もうしん)を滲ませた声音に、保はとっさに藍人を見やった。
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