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閑話休題――蒔田一臣の苦悩
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「そういうわけで、十一月に帰ることにした。もしかしたら、友人の家に泊まるかもしれない。うん。兄貴? 当分は、無理そうだな。稜子があの状態だから……うん。心配は心配だが病院と先生がついてる。周りにできることなど限られたもんだ。まあ、大丈夫だろう。……母さんも、からだに気をつけて。それじゃあ」
自分から電話を切る。
実家から離れてからのほうが、母親とうまく話せるようになった。
共通の話題が増えた兄とその身重の妻のことなどタイムリーだ。
物理的距離が開いたほうが、人間たちはうまく行くのかもしれない。
けだし、恋人同士を除いて――彼は。
キッチンに進み、おもむろに冷蔵庫からコーヒー豆を取り出し、計量して、コーヒーミルに入れた。作るのは一人分。一人暮らしを始めて八年が経つ。慣れたものだ。
『きみのことは部下としてしか見られない』
我ながら下手くそな断り方だったと思う。
蒔田一臣は、直接告白されたことが少なく(下駄箱に手紙が入っていたことや、「これ、読んでください!」と手渡されて逃げられたことなら数えきれぬほどあるが)、ああいう場合には自分の意志をどう伝えるべきなのか、いまひとつ分からない。
相手を傷つけることを恐れているのではない。それは彼の恐れの要因ではない。
だいたい、『あたしのことを部下としてでなくひとりの人間として、見てください』と言ってきた相手に、『部下としてしか見れない』と返すだなんて、おうむ返し以下だ。袋小路だ。
「……呆れてものが言えんな」それでも手と口は自然と動くのだから人間というものは器用だ。彼女もいまごろ別のことをしているだろう。
コーヒー豆のかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。
一見大きめの漏斗のようなプラスチック製のコーヒーフィルターに専用のフィルターペーパーをセットし、挽いた豆を入れる。豆は、挽く前に計量するのが彼の主義だ。とんとん、とコーヒーフィルターをカウンターに打ちつけて、隆起していたコーヒーの粉を平らにならす。
それにしても、彼女は自分のどこに惚れたのだろう、と思う。
蒔田一臣は自分のことがあまり好きではない。なお、思春期の自己を嫌悪する時分は卒業している。
ときどき無性に、自分のキャラが面倒臭くなるのだ。それは例えば。
いつまでもうじうじと一人の女性を思い続けるしつこさや。
母親の自分に対する処遇を『仕方がない』と割り切れぬ女々しさなど。
ときどき、なにも考えず、ぱぁっと鳥のように飛び立ちたい、と彼は思う。人間は勝手だ。鳥はもっと考えている。
明日食うものや自由のことなど。
煩わしい雑務から、強面でとっつきにくい自分から開放されたらいったいどんな気分だろう。
煩わしくても生涯つき合い続けるのが、自分のことだ。もう諦めるしかない。
「そういえば」
彼女と初めて出会ったとき、彼女は、裸足で階段を駆けあがっていた。正確には、素足ではなくストッキングを履いた足で。エレベーターが来ないから遅刻しそうだと焦って階段をあがっていたらしいが、それにしても靴を脱ぐとは大胆だ。誰に見つかるとも知れないのに。
実際、見つかった。
挙句、遅刻したのだ、新人研修を終え、第三事業部に配属となった初日に。
お腹をくだしたと言って頭を下げたらしいが、なまじっか女性なだけに突っ込みにくい。それでも、きっちり雷を落とした宗方部長は、さすがだった。
やかんに水を入れ、ガスに火を点ける。底が広いタイプだから十分足らずで沸く。待つ間を利用して煙草を吸うことにする。部屋に匂いがつくのを気にして換気扇の下で吸うという行動がなんだかせせこましい。
自由、奔放。
彼女のことは、そんなイメージだ。型破りというわけではない、むしろ常識的な方だが優等生風ながらもどこか型にはまり切らない部分があるのだ。
なんせ、最初に見かけたのが靴を脱いだストッキングで階段を駆けあがる姿だったものだから、それから、急に切り替えられない。……親しげに接しすぎたかもしれない。
後悔しても、遅い。
傷つけたのだから。
失恋したばかりの傷(原因は彼氏の浮気と見た)を癒やすどころか、よりによってまたも失恋の痛手を負わせたのだから。
蒔田一臣の責任は、重い。
『こんなことを余り言いたくはないが。きみは、いま、あまり、精神的に良好な状態ではない。自覚はあると思うが。それで、勘違い、というか、思い違いをしているのではないのか』
『は。勘違い? ですか』
『つまり、弱っているところを優しくされたからふらふらと気持ちが動いたという、現象だ。風邪引いたらお母さんの作ってくれるおかゆが美味しいのと同じだ』
『うちお母さんいないんですけど』
『それは、悪かった』
『謝るところが違うんですけど蒔田さん。優しくしたんですか? あたしに』
『したつもりはないが、いや、無自覚に』どうしてこんなしどろもどろになる。
『いいです、だったら明日っからあたしに冷たくしてください』
どうしてそんな方向に話が進む。
『冷たくされても思い続けられたとしたら、あたしの気持ちが本気だって、分かってくれますか』
強い口調であっても、そんな、どこか脆い、泣きそうな顔をして言われては、NOとは言えなくなる。
勿論、無自覚なのだろう、彼女は。
自覚しているタイプの女に自分は興味を持たない。
「興、味……」
ここでやかんがけたたましく鳴った。頭のなかの警報が鳴る。
これ以上近づいてはいけないと。
これ以上深追いをしてはならないと。
そのさきは未開の森だ。
かつて自分が立ち入ったことのある、出口の見えない奥深き世界。自分を憎んでも他人を想っても得られない結論。
そして不快感。自己嫌悪。憐憫。同情。
蒔田一臣は、煙草の火を消した。ちっとも美味しく感じられない。頭を冷やす必要がある。
気分転換にとコーヒーをと思ったはずが、結局彼女のことしか考えていない……。
せっかくの休日もこんな風に過ぎていく。休日出勤をしたあとの貴重な夕刻のとき。若干空腹を感じるがそんな気分になれない。
チャーハンを作る気分なんて、もっとだ。
「あー、だりー……」
コーヒーフィルターにお湯を注ぐ気分になれず、ソファーに横になる。一人暮らしなのに何故二人がけのソファーを買ったのか。
『ね。かっこいいよねこのソファー』
『そうか?』
『マキのイメージっぽい。こういう革張りの黒……』
彼は舌打ちをした。
「くそ」
自分が都倉真咲を忘れられぬように。
彼女も、自分を断ち切れぬのだ。それも毎日顔を合わせる上司という。
「明日っからどう冷たく接すりゃあいいんだ……」
弱々しき声が煙残るキッチンの天井に届き、そして消えていった。
*
自分から電話を切る。
実家から離れてからのほうが、母親とうまく話せるようになった。
共通の話題が増えた兄とその身重の妻のことなどタイムリーだ。
物理的距離が開いたほうが、人間たちはうまく行くのかもしれない。
けだし、恋人同士を除いて――彼は。
キッチンに進み、おもむろに冷蔵庫からコーヒー豆を取り出し、計量して、コーヒーミルに入れた。作るのは一人分。一人暮らしを始めて八年が経つ。慣れたものだ。
『きみのことは部下としてしか見られない』
我ながら下手くそな断り方だったと思う。
蒔田一臣は、直接告白されたことが少なく(下駄箱に手紙が入っていたことや、「これ、読んでください!」と手渡されて逃げられたことなら数えきれぬほどあるが)、ああいう場合には自分の意志をどう伝えるべきなのか、いまひとつ分からない。
相手を傷つけることを恐れているのではない。それは彼の恐れの要因ではない。
だいたい、『あたしのことを部下としてでなくひとりの人間として、見てください』と言ってきた相手に、『部下としてしか見れない』と返すだなんて、おうむ返し以下だ。袋小路だ。
「……呆れてものが言えんな」それでも手と口は自然と動くのだから人間というものは器用だ。彼女もいまごろ別のことをしているだろう。
コーヒー豆のかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。
一見大きめの漏斗のようなプラスチック製のコーヒーフィルターに専用のフィルターペーパーをセットし、挽いた豆を入れる。豆は、挽く前に計量するのが彼の主義だ。とんとん、とコーヒーフィルターをカウンターに打ちつけて、隆起していたコーヒーの粉を平らにならす。
それにしても、彼女は自分のどこに惚れたのだろう、と思う。
蒔田一臣は自分のことがあまり好きではない。なお、思春期の自己を嫌悪する時分は卒業している。
ときどき無性に、自分のキャラが面倒臭くなるのだ。それは例えば。
いつまでもうじうじと一人の女性を思い続けるしつこさや。
母親の自分に対する処遇を『仕方がない』と割り切れぬ女々しさなど。
ときどき、なにも考えず、ぱぁっと鳥のように飛び立ちたい、と彼は思う。人間は勝手だ。鳥はもっと考えている。
明日食うものや自由のことなど。
煩わしい雑務から、強面でとっつきにくい自分から開放されたらいったいどんな気分だろう。
煩わしくても生涯つき合い続けるのが、自分のことだ。もう諦めるしかない。
「そういえば」
彼女と初めて出会ったとき、彼女は、裸足で階段を駆けあがっていた。正確には、素足ではなくストッキングを履いた足で。エレベーターが来ないから遅刻しそうだと焦って階段をあがっていたらしいが、それにしても靴を脱ぐとは大胆だ。誰に見つかるとも知れないのに。
実際、見つかった。
挙句、遅刻したのだ、新人研修を終え、第三事業部に配属となった初日に。
お腹をくだしたと言って頭を下げたらしいが、なまじっか女性なだけに突っ込みにくい。それでも、きっちり雷を落とした宗方部長は、さすがだった。
やかんに水を入れ、ガスに火を点ける。底が広いタイプだから十分足らずで沸く。待つ間を利用して煙草を吸うことにする。部屋に匂いがつくのを気にして換気扇の下で吸うという行動がなんだかせせこましい。
自由、奔放。
彼女のことは、そんなイメージだ。型破りというわけではない、むしろ常識的な方だが優等生風ながらもどこか型にはまり切らない部分があるのだ。
なんせ、最初に見かけたのが靴を脱いだストッキングで階段を駆けあがる姿だったものだから、それから、急に切り替えられない。……親しげに接しすぎたかもしれない。
後悔しても、遅い。
傷つけたのだから。
失恋したばかりの傷(原因は彼氏の浮気と見た)を癒やすどころか、よりによってまたも失恋の痛手を負わせたのだから。
蒔田一臣の責任は、重い。
『こんなことを余り言いたくはないが。きみは、いま、あまり、精神的に良好な状態ではない。自覚はあると思うが。それで、勘違い、というか、思い違いをしているのではないのか』
『は。勘違い? ですか』
『つまり、弱っているところを優しくされたからふらふらと気持ちが動いたという、現象だ。風邪引いたらお母さんの作ってくれるおかゆが美味しいのと同じだ』
『うちお母さんいないんですけど』
『それは、悪かった』
『謝るところが違うんですけど蒔田さん。優しくしたんですか? あたしに』
『したつもりはないが、いや、無自覚に』どうしてこんなしどろもどろになる。
『いいです、だったら明日っからあたしに冷たくしてください』
どうしてそんな方向に話が進む。
『冷たくされても思い続けられたとしたら、あたしの気持ちが本気だって、分かってくれますか』
強い口調であっても、そんな、どこか脆い、泣きそうな顔をして言われては、NOとは言えなくなる。
勿論、無自覚なのだろう、彼女は。
自覚しているタイプの女に自分は興味を持たない。
「興、味……」
ここでやかんがけたたましく鳴った。頭のなかの警報が鳴る。
これ以上近づいてはいけないと。
これ以上深追いをしてはならないと。
そのさきは未開の森だ。
かつて自分が立ち入ったことのある、出口の見えない奥深き世界。自分を憎んでも他人を想っても得られない結論。
そして不快感。自己嫌悪。憐憫。同情。
蒔田一臣は、煙草の火を消した。ちっとも美味しく感じられない。頭を冷やす必要がある。
気分転換にとコーヒーをと思ったはずが、結局彼女のことしか考えていない……。
せっかくの休日もこんな風に過ぎていく。休日出勤をしたあとの貴重な夕刻のとき。若干空腹を感じるがそんな気分になれない。
チャーハンを作る気分なんて、もっとだ。
「あー、だりー……」
コーヒーフィルターにお湯を注ぐ気分になれず、ソファーに横になる。一人暮らしなのに何故二人がけのソファーを買ったのか。
『ね。かっこいいよねこのソファー』
『そうか?』
『マキのイメージっぽい。こういう革張りの黒……』
彼は舌打ちをした。
「くそ」
自分が都倉真咲を忘れられぬように。
彼女も、自分を断ち切れぬのだ。それも毎日顔を合わせる上司という。
「明日っからどう冷たく接すりゃあいいんだ……」
弱々しき声が煙残るキッチンの天井に届き、そして消えていった。
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