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act4. 告白
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「すいません、ちょっと席外します」
と、断りを入れて席を立つ。
周囲の面々は飲酒と会話に夢中になっていて、彼の言葉なんか聞いちゃいない。
彼女を除けば。
「あたし、お手洗いに行ってきます」
「榎原さんてば、どうせタバコっしょ?」
後輩の道林は、榎原が喫煙者であることを知っている。
かっこいいと思ったから。
煙草を吸おうと思ったきっかけはそんなだ。
この業界は男女問わず喫煙者が多い。ストレスが溜まるからだ、と彼女は思っている。
抜け目なく突っ込んだ道林には、しぃっと人差し指を立てて微笑みかけてから、席を離れる。
追いかけてしまうのだ。
彼の背中には、それだけの吸引力がある。
「もしもし。ああ。会社の飲み会だ。あ? 平気だ、すこし席を外すくらい問題ない。みな酔っているからな。ちょっと待て、ここはすこしうるさい」
彼女は足元を見た。一昨日買ったばかりのハイヒールが誰かに蹴っ飛ばされた様子。酔っぱらいの愚行に軽く眉を潜め、聴覚を彼の会話に集中させる。
狭い廊下を颯爽と歩く彼の背中が小さくなる前に、彼女は、ハイヒールを履く。
彼は、がらっと戸を開け、暖簾をかいくぐり、外の世界に飛び込んでから言った。
「なんの用だ。こないだ話したばかりだろうが」
ぞんざいな物言い。
しかし、声色に喜びを隠しきれていなかった。
会社じゃあ、鉄仮面と言われている上司が。
笑いそうになるのを堪え、彼女も戸を開き、外に出た。蒔田の視線。わざと見えるようにシガレットケースから煙草を取り出し、ライターに火を点ける。百円ライターというのが、我ながら様にならないと思うけども。
「うん。ああ。大丈夫だ。和貴は元気にしてるか? そうか。うん。おまえは? 飯は? 食ったのか」親みたいな口調だ。そんな彼は、彼女から新橋界隈を歩くサラリーマンに目を移す。「構わん。時間は気にするな。なんだ? ――」
含み笑いさえ浮かべていた蒔田の表情が、
すっと失われる。
そして、そのかたちのいい唇が動いた。「そうか。おめでとう。で、日取りは」
彼女は、動揺した。
電話の相手は、てっきり、遠くに住む彼女か親しい友人かと思っていた。でも違った。
友達の彼女だ。
彼女はつい二週間前の悪夢と呼ぶべき出来事を思い返す。別れを切りだされた側の悲しみ。
それに近い衝動に、蒔田は一人で、耐えている。
「なに言ってんだ。ああ? タスクの野郎の言うことなんか信じるな。十一月だな? 問題ない」
大嘘つき。
彼女は、内心で蒔田をなじった。十一月は、蒔田の担当しているプロジェクトがリリースを迎える。蒔田曰く「くそ忙しい時期」だ。いまも、休日返上で働いているくらいなのに。
「……結婚するんだからいい加減『都倉(とくら)』じゃまずいな」
と、うえを向いて言ったと思えば、
「いいか、真咲(まさき)。幸せになれよ。おまえの花嫁姿を、心待ちにしている」
気づかなかったら相手の女は、相当の馬鹿だ。
真咲という言葉に含まれた愛情という名の語感。
そしてこのあいだと同じく、和貴によろしくな、と言って蒔田は電話を切った。
彼女は、蒔田が電話をしている間、煙草を吸い続けていたが、ちっとも美味しく感じられなかった。
蒔田が、ふう、とため息をつくのを聞いた。
どうやら、煙草を吸うらしい。こんなときに吸う煙草は、どんな味がするだろう。
失恋の直後に吸う煙草の味。
そういえば、振られたあとに煙草なんて吸わなかったな。
それどころじゃなく。
がらんどうのように、寝ていた。
寝てばっかで過ごした。
寝ていてもなにをしていても涙が止まらず。
なにをするにも集中できず。浮かんでは消える彼氏の面影。
親友の笑顔。
最後の仲睦まじい姿。
慰める相手がいるという羨ましい現実。
妬ましく思う自分の醜さ加減にも嫌気がさし、それでまた涙が出てくる地獄。
ぎざぎざに傷んだこころはいまだ癒えていない。
あれから二人ともに連絡なし。当然だ。でも。いざ、連絡がまったく来ないとなるとそれはそれで寂しいものがある。
自分で望んで伝えたくせに。
(馬鹿みたい)
寂しくなって携帯を開いた。着信ゼロ。女々しいと思うけど、待ち受けがまだ彼氏とのツーショットのままだ。これを撮った頃は、こんな未来が待っているだなんて、夢にも思っちゃいなかった。
結婚するなんていう甘い未来も思い描いていた。
馬鹿みたいじゃなく、
(……馬鹿としか言いようがないや)
相手の現状を直視せず、自分勝手に妄想を膨らませていたのだから。
いつからか、自分の現実と相手の現実とがすれ違っていた。兆候はあったのだ。
会社に入ってからろくろく連絡を取っていなかった。彼氏も忙しかった。
忙しくても互いを想い合うこころがあれば大丈夫、と過信していたのだ。
それを知らず、二人は笑っている。
お互いの未来が繋がっていると、信じきっていた、あの頃。
消そう、消そう、と待ち受けを見るたびに思う、でも、……
消してしまったら、本当に終わってしまう気がするのだ。
嬉しかったことも、楽しかったことも、全部全部。
「携帯見るか煙草吸うかどっちかにしたらどうだ」
はっと現実に意識を戻す。蒔田が目の前に立っていた。
背の高い蒔田がすこしうつむけば、彼女の携帯電話を覗きこむ格好になる。彼女は、駄目です! と叫んで携帯を隠した。
「別に、……覗いちゃねえよ。不慮の事故だ」
「見たんですね……あたしの待ち受け」
「悪かった。ひとの会話を盗み聞きした仕返しだ、それも二回も」
「いっ……!」
気づかれていたのか。
先日のことも。
「まあ、いいさ」と蒔田は右を見やった。人通りの多い路地を歩く酔っぱらいサラリーマンは誰も彼もが似ている。見も知らぬサラリーマンが彼女にぶつかりそうになるのを、片手でそっと蒔田が庇った。
近い。
蒔田に触れられ、彼女は心臓が止まりそうになった。
背の高い男。煙草の香り。
(なに考えてんだか、あたしってば、もう……)
どきどきしちゃうなんて。
恋人に振られて二週間しか経っていない。
振り子のように触れる自分のこころが、嫌になる。
がやがやと騒ぐ酔っぱらいが隣の店に消えてから、蒔田は、彼女から離れた。「いや、悪かった」
「い、え、全然……」
「こんなところでサボるなよ、二年次が」彼は、ご丁寧にも携帯灰皿に煙草をしまった。「あのなかですることがあるだろ、おまえには」
「……わ、かってます」
「泣きたいのか」
ずばり、急所を突かれ、
しかも彼女の目から、反射的に涙がこぼれた。
(うわ。恥、ずかし……)
慌てて彼女は俯き、空いている方の手で涙を拭った。
(子どもじゃあるまいし、いきなり、泣くなんて……)
しかも、止めようとするほどに、止まらない。
ふぅと蒔田がため息をつく。
(呆れられた……)
と思いきや。
ぽんぽん、と彼女の頭を撫でる。
「待っとけ」
と言って蒔田は、なかへと消えていった。
(そういうことされると……)
ますます、止まらなくなるのだ。
想いも、涙も。
* * *
「帰るぞ」
戻ってきた蒔田は、開口一番そう言った。「え。え? なんでですか」
「おまえの荷物はこれで全部か」
「え、あはい、そうですけど」
わざわざ彼女のバッグを蒔田が持ってきてくれていた。
彼女は反射的に足元を見た。よくある居酒屋の下駄ではなく、ハイヒールだ。
蒔田も靴を履いている。いつもの革靴だ。
「みんなには体調が悪いからと言った。おれも帰る。大通り出てタクるぞ」
「え、え。ええっとあたしはでも――」さっき。
二年次だからやることがあると言っていたではないか。
その舌の根も乾かぬうちに、なにを言っているのだ、この男は。
しかし、蒔田は、彼女の言い分など聞かず、しかも彼女の肘を掴み、さっさと歩き出す。
俊足なのだこの男は。
彼女は、走るようにして彼の後ろをついていく。
「あ、え、でもあたしお金が」
「おれが出す」
「いっ……」ここは新橋。家までだと五千円はかかるだろうか。
入社二年目の会社員にとって決して安くはない金額だ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
「待たねえ」
思いのほか子どもっぽい言い方で、いたずらに笑う。
それに見惚れて、彼女は出遅れた。
見惚れている場合ではない。
肘を掴んだまま颯爽と蒔田が歩き出すではないか。
彼女は、引き留めるべく絞りだすように声を張った。
「と。とにかくっ、もうちょっとスピード落としてくださいよっ! あたし蒔田さんとならどこだって行きますからっ!」
金曜日。新橋界隈。
どうにも視線を集めると思ったら、いかがわしい建物の前だった。
咳払いをし、俯き、彼女は、歩こうとする。が、……
「っつ……」
「どうした」
蒔田が振り向いたが、彼女は首を振って答えた。「なんでもないです」
「なんでもないという顔ではない。足が痛むのか。見せろ」
「い、え……」
彼女は、咄嗟に右足を引いたつもりが、ますます痛みが増し顔をしかめた。
「すまない。おれが急かしたせいか」
「いえ、おろしたての靴なんで……」
かかとは見事に皮がむけて、開いた傷口がストッキングに貼りついている有り様。
二万円もしたのに。一回履いてパーだなんて。
「最悪」
「脱げ」
彼女と蒔田が言うのが同時だった。
「え!? えっ、なに言ってんですか、自慢じゃないですけどあたしボディに自信なんかありませんし」
「……すまなかった。とにかく、脱げ、靴を。それじゃあ歩けないだろ」
「あ、……靴。靴ですね。はい」
妙な勘違いをして恥ずかしいじゃないか。
再び咳払いをして靴を履く。
と、なぜだか蒔田がそのハイヒールに指を入れてひょいと持った。
と思うや否や、なんと、彼女は蒔田に抱きかかえられていた。
「うわあああああ!」
彼女は絶叫した。
「……耳元で叫ぶなよ……」と蒔田は眉を寄せる。「着くまでの辛抱だ。耐えろ」
「耐えろっていうかあたし結構重いですよ」
二人分のバッグに女性一人の体重。決して、軽くはない。
「痛むか?」と訊かれるが、
それどころじゃない。
向こうから来る若いリーマン集団なんかすっげーと言ってこっちを指さしてる。見せ物じゃないんだから。
しかし、蒔田といったら眉一つ動かさず淡々と歩くのみ。
「で、でもせめておんぶとかもっと目立たない方法とか……」
ここで、どうしてだか。
蒔田が、俯いた。
「どうしたんですか」
いつも彼女にぽんぽん言い返す彼にしては珍しい。
「……カートが、」
「え?」
「スカートが、ちょっとな……」
あっ、と彼女は声をあげそうになった。
今日の服装は、白いシャツに黒の膝上のタイトスカート。
仮におんぶしちゃったら、スカートがまくれあがっちゃうとかそういうこと気にしているんだろうか……、この上司は。
煮え切らない蒔田の好意に、彼女は、黙って甘んじることとした。
彼女は、近くにある蒔田の顔を覗き見る。
上司の顔。
近くに見ても、陶器のようで美しい……。どんなお手入れしてるんだろう。肌のお手入れなんて無頓着そうなのに。
化粧をしないのがやっぱり肌にいいのか。
そして整った顔。無愛想で無表情が常でも、美しいことには変わりがないのだ。
彼女は、今更ながら、『横抱きながらも抱かれている現実』を認識し、全身がものすごく熱くなった。
逞しい上半身の固さが伝わる。男性のからだが。
(えっと、どうしよう……)
とんでもなく、心地いい。
そして、重いはずなのに文句も言わず黙々と歩く蒔田。なんだか、運ばれてる荷物みたいに自分が思えてきた。というより、意識しているのは自分ただ一人だけだ。
蒔田は、『荷物』を運んでくれてるのだ。
そう思うと、意識しているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
(荷物、荷物……)
と意識せぬよう彼女は念じ続けた。
だが、意識せぬように意識すること自体が無意識からもっとも遠い行為、だった。
* * *
「立てるか」
いいえ駄目です、と本当は答えてみたかった。
蒔田は厳しいように見えて割りと甘えさせてくれる。なんだかんだ言って面倒見がいい。
でもここは自力で立とうと思った。運んで頂いたぶん。
二の足で立つのが変な感覚だった。痛むかかとは浮かせて左に重心をかけて立つ。腕時計を見れば時刻はまだ九時過ぎ。十時前には帰宅できるだろうか。
そもそも、蒔田の家(一人暮らしらしいからマンションだろうが)の場所を彼女は知らない。
そこで訊いてみた。「蒔田さんてどこにお住まいなんですか」
「ちとふな」
「え。隣駅じゃないですか、うちの」
「おまえ、新歓で住んでる駅言ったじゃないか、覚えてないのか」
「だからタクるって言ったんですね……」
「来ないな。珍しい」蒔田は首を振り目でタクシーを探す。「場所を変えるか」
「もうちょっと待ってみましょう」
「そうか……時間は? 平気か」
「平気です。……蒔田さんこそ」
「おれは帰って寝るだけだ」
「勉強とかしないんですか?」
「しない。資格取るなら別だろうがな」
蒔田は、既に、プロジェクトマネジメントやオラクルマスターの資格を持っている。勉強する必要などないだろうが、彼女はちょっとしたからかいごころから訊いてみた。
蒔田は向こうを向いた。
彼女は、無性に寂しくなった。
帰ったらまた、一人きり。
寂しくて空虚な一人暮らしの部屋が、待っている。
それにしてもこうして蒔田と喋るひとときは夢みたいだ。夢みたいに楽しい。
――楽しい?
彼女は、自分でそう感じることに、驚いていた。
「帰りたくないんだろ」
そう思ったとき、ずばり、蒔田に言い当てられていた。
「ない、わけじゃないですけど……」黒い蒔田の瞳が自分を見ている。その瞳に見据えられると、彼女は、嘘がつけなくなる。「ありえないこともないです」
「さっきのじゃ足りねえのか」
「……なんのことですか」
「泣くのが」
「……ええと」
答えづらい。
先生みたいだ、蒔田の聞き方は。そんな風じゃなく。
さっきの女に電話したときみたいに、愉しげに話して欲しいのに。
そんな気持ちが生まれることに、彼女自身が、驚いていた。
(これって蒔田さんに、……)
「恋、してるんです」
言葉が、自然に吐き出された。唐突なものにも関わらず。
「あの。ぐちゃぐちゃのしっちゃかめっちゃかなんですけど、あたし、蒔田さんのことが――」
蒔田の口がすこし開いた。驚きでだろうか。
「好きです」
*
と、断りを入れて席を立つ。
周囲の面々は飲酒と会話に夢中になっていて、彼の言葉なんか聞いちゃいない。
彼女を除けば。
「あたし、お手洗いに行ってきます」
「榎原さんてば、どうせタバコっしょ?」
後輩の道林は、榎原が喫煙者であることを知っている。
かっこいいと思ったから。
煙草を吸おうと思ったきっかけはそんなだ。
この業界は男女問わず喫煙者が多い。ストレスが溜まるからだ、と彼女は思っている。
抜け目なく突っ込んだ道林には、しぃっと人差し指を立てて微笑みかけてから、席を離れる。
追いかけてしまうのだ。
彼の背中には、それだけの吸引力がある。
「もしもし。ああ。会社の飲み会だ。あ? 平気だ、すこし席を外すくらい問題ない。みな酔っているからな。ちょっと待て、ここはすこしうるさい」
彼女は足元を見た。一昨日買ったばかりのハイヒールが誰かに蹴っ飛ばされた様子。酔っぱらいの愚行に軽く眉を潜め、聴覚を彼の会話に集中させる。
狭い廊下を颯爽と歩く彼の背中が小さくなる前に、彼女は、ハイヒールを履く。
彼は、がらっと戸を開け、暖簾をかいくぐり、外の世界に飛び込んでから言った。
「なんの用だ。こないだ話したばかりだろうが」
ぞんざいな物言い。
しかし、声色に喜びを隠しきれていなかった。
会社じゃあ、鉄仮面と言われている上司が。
笑いそうになるのを堪え、彼女も戸を開き、外に出た。蒔田の視線。わざと見えるようにシガレットケースから煙草を取り出し、ライターに火を点ける。百円ライターというのが、我ながら様にならないと思うけども。
「うん。ああ。大丈夫だ。和貴は元気にしてるか? そうか。うん。おまえは? 飯は? 食ったのか」親みたいな口調だ。そんな彼は、彼女から新橋界隈を歩くサラリーマンに目を移す。「構わん。時間は気にするな。なんだ? ――」
含み笑いさえ浮かべていた蒔田の表情が、
すっと失われる。
そして、そのかたちのいい唇が動いた。「そうか。おめでとう。で、日取りは」
彼女は、動揺した。
電話の相手は、てっきり、遠くに住む彼女か親しい友人かと思っていた。でも違った。
友達の彼女だ。
彼女はつい二週間前の悪夢と呼ぶべき出来事を思い返す。別れを切りだされた側の悲しみ。
それに近い衝動に、蒔田は一人で、耐えている。
「なに言ってんだ。ああ? タスクの野郎の言うことなんか信じるな。十一月だな? 問題ない」
大嘘つき。
彼女は、内心で蒔田をなじった。十一月は、蒔田の担当しているプロジェクトがリリースを迎える。蒔田曰く「くそ忙しい時期」だ。いまも、休日返上で働いているくらいなのに。
「……結婚するんだからいい加減『都倉(とくら)』じゃまずいな」
と、うえを向いて言ったと思えば、
「いいか、真咲(まさき)。幸せになれよ。おまえの花嫁姿を、心待ちにしている」
気づかなかったら相手の女は、相当の馬鹿だ。
真咲という言葉に含まれた愛情という名の語感。
そしてこのあいだと同じく、和貴によろしくな、と言って蒔田は電話を切った。
彼女は、蒔田が電話をしている間、煙草を吸い続けていたが、ちっとも美味しく感じられなかった。
蒔田が、ふう、とため息をつくのを聞いた。
どうやら、煙草を吸うらしい。こんなときに吸う煙草は、どんな味がするだろう。
失恋の直後に吸う煙草の味。
そういえば、振られたあとに煙草なんて吸わなかったな。
それどころじゃなく。
がらんどうのように、寝ていた。
寝てばっかで過ごした。
寝ていてもなにをしていても涙が止まらず。
なにをするにも集中できず。浮かんでは消える彼氏の面影。
親友の笑顔。
最後の仲睦まじい姿。
慰める相手がいるという羨ましい現実。
妬ましく思う自分の醜さ加減にも嫌気がさし、それでまた涙が出てくる地獄。
ぎざぎざに傷んだこころはいまだ癒えていない。
あれから二人ともに連絡なし。当然だ。でも。いざ、連絡がまったく来ないとなるとそれはそれで寂しいものがある。
自分で望んで伝えたくせに。
(馬鹿みたい)
寂しくなって携帯を開いた。着信ゼロ。女々しいと思うけど、待ち受けがまだ彼氏とのツーショットのままだ。これを撮った頃は、こんな未来が待っているだなんて、夢にも思っちゃいなかった。
結婚するなんていう甘い未来も思い描いていた。
馬鹿みたいじゃなく、
(……馬鹿としか言いようがないや)
相手の現状を直視せず、自分勝手に妄想を膨らませていたのだから。
いつからか、自分の現実と相手の現実とがすれ違っていた。兆候はあったのだ。
会社に入ってからろくろく連絡を取っていなかった。彼氏も忙しかった。
忙しくても互いを想い合うこころがあれば大丈夫、と過信していたのだ。
それを知らず、二人は笑っている。
お互いの未来が繋がっていると、信じきっていた、あの頃。
消そう、消そう、と待ち受けを見るたびに思う、でも、……
消してしまったら、本当に終わってしまう気がするのだ。
嬉しかったことも、楽しかったことも、全部全部。
「携帯見るか煙草吸うかどっちかにしたらどうだ」
はっと現実に意識を戻す。蒔田が目の前に立っていた。
背の高い蒔田がすこしうつむけば、彼女の携帯電話を覗きこむ格好になる。彼女は、駄目です! と叫んで携帯を隠した。
「別に、……覗いちゃねえよ。不慮の事故だ」
「見たんですね……あたしの待ち受け」
「悪かった。ひとの会話を盗み聞きした仕返しだ、それも二回も」
「いっ……!」
気づかれていたのか。
先日のことも。
「まあ、いいさ」と蒔田は右を見やった。人通りの多い路地を歩く酔っぱらいサラリーマンは誰も彼もが似ている。見も知らぬサラリーマンが彼女にぶつかりそうになるのを、片手でそっと蒔田が庇った。
近い。
蒔田に触れられ、彼女は心臓が止まりそうになった。
背の高い男。煙草の香り。
(なに考えてんだか、あたしってば、もう……)
どきどきしちゃうなんて。
恋人に振られて二週間しか経っていない。
振り子のように触れる自分のこころが、嫌になる。
がやがやと騒ぐ酔っぱらいが隣の店に消えてから、蒔田は、彼女から離れた。「いや、悪かった」
「い、え、全然……」
「こんなところでサボるなよ、二年次が」彼は、ご丁寧にも携帯灰皿に煙草をしまった。「あのなかですることがあるだろ、おまえには」
「……わ、かってます」
「泣きたいのか」
ずばり、急所を突かれ、
しかも彼女の目から、反射的に涙がこぼれた。
(うわ。恥、ずかし……)
慌てて彼女は俯き、空いている方の手で涙を拭った。
(子どもじゃあるまいし、いきなり、泣くなんて……)
しかも、止めようとするほどに、止まらない。
ふぅと蒔田がため息をつく。
(呆れられた……)
と思いきや。
ぽんぽん、と彼女の頭を撫でる。
「待っとけ」
と言って蒔田は、なかへと消えていった。
(そういうことされると……)
ますます、止まらなくなるのだ。
想いも、涙も。
* * *
「帰るぞ」
戻ってきた蒔田は、開口一番そう言った。「え。え? なんでですか」
「おまえの荷物はこれで全部か」
「え、あはい、そうですけど」
わざわざ彼女のバッグを蒔田が持ってきてくれていた。
彼女は反射的に足元を見た。よくある居酒屋の下駄ではなく、ハイヒールだ。
蒔田も靴を履いている。いつもの革靴だ。
「みんなには体調が悪いからと言った。おれも帰る。大通り出てタクるぞ」
「え、え。ええっとあたしはでも――」さっき。
二年次だからやることがあると言っていたではないか。
その舌の根も乾かぬうちに、なにを言っているのだ、この男は。
しかし、蒔田は、彼女の言い分など聞かず、しかも彼女の肘を掴み、さっさと歩き出す。
俊足なのだこの男は。
彼女は、走るようにして彼の後ろをついていく。
「あ、え、でもあたしお金が」
「おれが出す」
「いっ……」ここは新橋。家までだと五千円はかかるだろうか。
入社二年目の会社員にとって決して安くはない金額だ。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」
「待たねえ」
思いのほか子どもっぽい言い方で、いたずらに笑う。
それに見惚れて、彼女は出遅れた。
見惚れている場合ではない。
肘を掴んだまま颯爽と蒔田が歩き出すではないか。
彼女は、引き留めるべく絞りだすように声を張った。
「と。とにかくっ、もうちょっとスピード落としてくださいよっ! あたし蒔田さんとならどこだって行きますからっ!」
金曜日。新橋界隈。
どうにも視線を集めると思ったら、いかがわしい建物の前だった。
咳払いをし、俯き、彼女は、歩こうとする。が、……
「っつ……」
「どうした」
蒔田が振り向いたが、彼女は首を振って答えた。「なんでもないです」
「なんでもないという顔ではない。足が痛むのか。見せろ」
「い、え……」
彼女は、咄嗟に右足を引いたつもりが、ますます痛みが増し顔をしかめた。
「すまない。おれが急かしたせいか」
「いえ、おろしたての靴なんで……」
かかとは見事に皮がむけて、開いた傷口がストッキングに貼りついている有り様。
二万円もしたのに。一回履いてパーだなんて。
「最悪」
「脱げ」
彼女と蒔田が言うのが同時だった。
「え!? えっ、なに言ってんですか、自慢じゃないですけどあたしボディに自信なんかありませんし」
「……すまなかった。とにかく、脱げ、靴を。それじゃあ歩けないだろ」
「あ、……靴。靴ですね。はい」
妙な勘違いをして恥ずかしいじゃないか。
再び咳払いをして靴を履く。
と、なぜだか蒔田がそのハイヒールに指を入れてひょいと持った。
と思うや否や、なんと、彼女は蒔田に抱きかかえられていた。
「うわあああああ!」
彼女は絶叫した。
「……耳元で叫ぶなよ……」と蒔田は眉を寄せる。「着くまでの辛抱だ。耐えろ」
「耐えろっていうかあたし結構重いですよ」
二人分のバッグに女性一人の体重。決して、軽くはない。
「痛むか?」と訊かれるが、
それどころじゃない。
向こうから来る若いリーマン集団なんかすっげーと言ってこっちを指さしてる。見せ物じゃないんだから。
しかし、蒔田といったら眉一つ動かさず淡々と歩くのみ。
「で、でもせめておんぶとかもっと目立たない方法とか……」
ここで、どうしてだか。
蒔田が、俯いた。
「どうしたんですか」
いつも彼女にぽんぽん言い返す彼にしては珍しい。
「……カートが、」
「え?」
「スカートが、ちょっとな……」
あっ、と彼女は声をあげそうになった。
今日の服装は、白いシャツに黒の膝上のタイトスカート。
仮におんぶしちゃったら、スカートがまくれあがっちゃうとかそういうこと気にしているんだろうか……、この上司は。
煮え切らない蒔田の好意に、彼女は、黙って甘んじることとした。
彼女は、近くにある蒔田の顔を覗き見る。
上司の顔。
近くに見ても、陶器のようで美しい……。どんなお手入れしてるんだろう。肌のお手入れなんて無頓着そうなのに。
化粧をしないのがやっぱり肌にいいのか。
そして整った顔。無愛想で無表情が常でも、美しいことには変わりがないのだ。
彼女は、今更ながら、『横抱きながらも抱かれている現実』を認識し、全身がものすごく熱くなった。
逞しい上半身の固さが伝わる。男性のからだが。
(えっと、どうしよう……)
とんでもなく、心地いい。
そして、重いはずなのに文句も言わず黙々と歩く蒔田。なんだか、運ばれてる荷物みたいに自分が思えてきた。というより、意識しているのは自分ただ一人だけだ。
蒔田は、『荷物』を運んでくれてるのだ。
そう思うと、意識しているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
(荷物、荷物……)
と意識せぬよう彼女は念じ続けた。
だが、意識せぬように意識すること自体が無意識からもっとも遠い行為、だった。
* * *
「立てるか」
いいえ駄目です、と本当は答えてみたかった。
蒔田は厳しいように見えて割りと甘えさせてくれる。なんだかんだ言って面倒見がいい。
でもここは自力で立とうと思った。運んで頂いたぶん。
二の足で立つのが変な感覚だった。痛むかかとは浮かせて左に重心をかけて立つ。腕時計を見れば時刻はまだ九時過ぎ。十時前には帰宅できるだろうか。
そもそも、蒔田の家(一人暮らしらしいからマンションだろうが)の場所を彼女は知らない。
そこで訊いてみた。「蒔田さんてどこにお住まいなんですか」
「ちとふな」
「え。隣駅じゃないですか、うちの」
「おまえ、新歓で住んでる駅言ったじゃないか、覚えてないのか」
「だからタクるって言ったんですね……」
「来ないな。珍しい」蒔田は首を振り目でタクシーを探す。「場所を変えるか」
「もうちょっと待ってみましょう」
「そうか……時間は? 平気か」
「平気です。……蒔田さんこそ」
「おれは帰って寝るだけだ」
「勉強とかしないんですか?」
「しない。資格取るなら別だろうがな」
蒔田は、既に、プロジェクトマネジメントやオラクルマスターの資格を持っている。勉強する必要などないだろうが、彼女はちょっとしたからかいごころから訊いてみた。
蒔田は向こうを向いた。
彼女は、無性に寂しくなった。
帰ったらまた、一人きり。
寂しくて空虚な一人暮らしの部屋が、待っている。
それにしてもこうして蒔田と喋るひとときは夢みたいだ。夢みたいに楽しい。
――楽しい?
彼女は、自分でそう感じることに、驚いていた。
「帰りたくないんだろ」
そう思ったとき、ずばり、蒔田に言い当てられていた。
「ない、わけじゃないですけど……」黒い蒔田の瞳が自分を見ている。その瞳に見据えられると、彼女は、嘘がつけなくなる。「ありえないこともないです」
「さっきのじゃ足りねえのか」
「……なんのことですか」
「泣くのが」
「……ええと」
答えづらい。
先生みたいだ、蒔田の聞き方は。そんな風じゃなく。
さっきの女に電話したときみたいに、愉しげに話して欲しいのに。
そんな気持ちが生まれることに、彼女自身が、驚いていた。
(これって蒔田さんに、……)
「恋、してるんです」
言葉が、自然に吐き出された。唐突なものにも関わらず。
「あの。ぐちゃぐちゃのしっちゃかめっちゃかなんですけど、あたし、蒔田さんのことが――」
蒔田の口がすこし開いた。驚きでだろうか。
「好きです」
*
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