恋は、やさしく

美凪ましろ

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act31. 忘れてください、あたしのこと

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 自分の存在が誰かを傷つけていると感じたことはあるだろうか。

 
 相手への好意は純粋そのもので行動が無自覚。であればあるほど、事態は深刻だ。
 

 彼女は、ようやくしてそのことに思い至った。例えば彼女は。


 生後数ヶ月で母親に捨てられている。


 赤子は母親を求めて泣く。養育者を求めていた。お腹がすいた、おむつを替えてと。その存在こそが、実の母親をおそらく傷めつけていた。

 捨てられた経緯を、誰も詳しく話してくれたことはない。

 誰も知らない。

 推測の範囲でも聞いたことがない。だがおそらくそういうことなのだろう。

 
 母は、自ら離れていった。


 育てることが苦しすぎるあまり。


 子を、捨てた。


 彼女に母の記憶は無い。『母親』というものを想像でしか知らない。だから彼女は、自分が世の中に不必要だと感じたときに。

 自分が『要らない』存在だと感じた思春期の頃に、誰にも相談せず、黙って耐え忍んだ。

 母親のいる子どもならばそっと母親に抱きしめられた場面でも。

 父は、優しかった。だが母親にはなれない。抱きしめてくることなどなく言葉で優しく諭してくれる、あたたかい父親だった。

 父もこのような孤独に黙って耐えたに違いない。


 自分が間違ったことをしたときに。


 誰かを傷つけたときに。


 母は、自ら去った。

 自分がそれ以上傷つかないために、娘をこれ以上傷つけないために。

 蒔田のことを考えてみる。彼は。


『きみのことは部下としてしか見られない』

 彼は既に、自らの意志を表明している。仕事に私情は持ち込めないと。

 そしてそんな彼が、自ら去るとは考えにくい。ならば彼女のとるべき行動は、


 決まっていた。


 * * *


「なーんか紘花ちゃん、久しぶりじゃない。どうよ、元気?」
「ええ、元気です……宗方さん、よかったらどうぞ」
「おおサンキュ。気が利くねぇ」
「いいえ……」


 彼女の所属する第三事業部の面々は飲み会好きだ。

 なんせ部長である宗方が飲み会好きなのだ。典型的な体育会系。お酒は飲むのも飲まれるのも好き。その恩恵に彼女はあやかってきた。

 そしてこんなときも、このチャンスにあやかることにする。

 彼女は、部屋の片隅でウーロンハイをひたすら作ったり、宗方部長の話し相手をしたりしながら、蒔田のことを観察した。どうせ帰りは二人同じ方向だ。話せるチャンスはある。

 でも新橋駅を出る前に、話をつけたかった。

 そして一人で帰るつもりだった。


 * * *

「お疲れさまでしたー」
「お疲れさまでーす」


 第三事業部のほかの面々と、JR新橋駅の改札前で別れる。

 運良く、銀座線に乗るのは蒔田と彼女の二人だけだった。

「行くか」
「あはい。とそのまえに」彼女は、蒔田に向き直った。

「蒔田さん。お話が、あります」

「なんだ改まって」

「あの。その、

 ……ごめんなさい」

 彼女は、いきなり頭を下げた。

 顔を上げると、蒔田が当惑していた。当然だろう。

 いきなりそんな行動に出られても、驚くだけだ。彼女は言葉を繋ぐ。

「いろいろ……蒔田さんの気持ちも考えずに、振り回しちゃって、すみませんでした。

 でももう終わりにします」

 蒔田は、ただ待っている。彼女がなにを言うのかを。

 蒔田のことを見つめられるのも、今日で最後かもしれない。

 そう思い、彼女は決意を言葉にして放った。


「いままで言ったこと全部忘れてください。


 好きって言ったこととか全部全部――」


 鉄仮面。無表情。トーテムポール。


「あたしは、蒔田さんのことを忘れます。もう、仕事に私情は持ち込みません。


 だから蒔田さんも……


 忘れてください、あたしのことを」


 最後の台詞を言うときは涙が出そうだった。

 それでも蒔田は、顔色を変えない。なにを考えているのか掴めない、無表情を貫いている。

 そのことが彼女の胸を痛めた。

 まるで一人相撲だったと。

 決して蒔田の感情を揺さぶることのない存在で、単なる迷惑な他人に過ぎなかったのだと悟った。

 一方的に彼女が喋っていたが、一言だけ蒔田が返す。


「分かった」


 それを聞いたときに、こみあげるものがあった。

 仮に蒔田が彼女のことを好きならば、そんな反応などしないだろう。

 期待していたつもりはなかったが、こころのどこかでまだ希望を捨てきれていなかったことを、彼女は自覚した。


 蒔田は、彼女に関心がない。

 
 絶望的な結末だった。

「そ、それじゃあ」いろんな感情を振り払うようにし、俯き、歯を食いしばった。「お疲れさまでした」涙声にならないよう努力した。顔をあげ、笑顔を作り、「あ。あたし、トイレ行ってから帰るんで、ここで失礼します」


「……お疲れ」


 小さく手を挙げ、蒔田は歩いて行く。

 消えていく。見えなくなっていく。

 そしてこの距離を埋められない永遠のものにしていく。彼女は――


 たまらず反対方向へ走りだした。


 トイレで泣くなんて生まれて初めての経験だった。


 こんなのは最初で最後にしたい、と彼女は思った。

 胸が苦しくて、きりきりと傷んだ。でもこんな痛みは継続しない。……元カレのときに経験したように、いっときのもので

 きっと忘れられる。

 一年後には、ああ、あんな恋もあったな、と笑ってるはず。

 あふれ出る涙を拭いながら、そう願った。


 *
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