恋は、やさしく

美凪ましろ

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閑話休題――彼女のコトなど

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 コーヒー豆のかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。

 こうしてコーヒー豆をフィルターにセットし、豆を蒸らす時間が幸せだ。なにも考えずにいられる。


 なにも余計なことを考えずに。


『いままで言ったこと全部忘れてください。


 好きって言ったこととか全部全部――』


 なにがあったのだろう、と彼は思う。


 だが彼は聞ける立場にない。


『あたしは、蒔田さんのことを忘れます。もう仕事に私情は持ち込みません。


 だから蒔田さんも……


 忘れてください、あたしのことを』


 拒絶されたのだから。


 久々に、一日フルの休日。大好きなコーヒーを飲めるひととき。それを。
 
 仕事のことが頭から離れないのは職業病といっていい。

 因みに、彼女は、配置転換を彼女の上司である柏谷(かしわたに)に申し出ており、間もなく別プロジェクトに配属される予定だ。

 本社ではなく、客先勤務となる。本社勤務の蒔田とは離ればなれになるかたちだ。

 だからどうというわけではない。

 プロジェクトの移動なんてよくある話だ。

 ひととの別れも。

 気がつけば一分を過ぎている。蒔田は、やかんの湯をコーヒーフィルターに注いだ。円を描くようにゆっくりと。

 湯気が立つ。いい匂いがする。そういえば、彼女は。


 コーヒーが好きだった。


 たまに、自分の飲むついでにコーヒーなんか持って行ってやると随分と喜んだ。給茶機の作るコーヒー。蒔田の淹れたものでもなんでもないのに、『美味しい』といって嬉しそうに飲んだ。


『蒔田さんの持ってきてくれるコーヒーが、世界で一番美味しいですっ』


 恥じらいもなく。

 面と向かってそういう台詞を言えるのだ、彼女は。

 そのひたむきさや直情的なところが眩しくもあった。まるで、失った遠い昔の恋を見ているかのように。


「まただ」


 彼は舌打ちをした。

 思考の隙間隙間に決まって彼女が入り込んでくる。キーボードの隙間に積もる埃のように、それは、永久に除去しきれないものなのかもしれない。

 一人分のドリップコーヒーが出来あがった。コーヒーかすの入ったフィルターをごみ箱に捨て、容器を水でさっと洗い、置いてあったカップにコーヒーを注ぐ。

 極上のハンドドリップコーヒーの出来上がりだ。さて。


「おれも忘れよう、彼女のことは……」


 口に出してそう言ってみる。

 そうしないと、決意が崩れそうだった。仮に今後。


 彼女のことを思い出しても、それは恋じゃない。


 彼女が、忘れるように、おれも忘れよう。


『蒔田さん。ねえ、蒔田さんってば。


 眉間にしわ、寄ってますよ』


『そんな怖い顔無理して作らなくても、大丈夫ですって、あっはは』


 ……どういうわけだか、彼女にはポーカーフェイスが通用しないことが多かった。

 周りからは鉄仮面、鉄面皮、無表情と評されるのに。

『なにを考えているか分からない』と言われることもあった。だが。彼女が絶対にそんな台詞を言うはずがない、そんな確信が彼にはあった。


『好きです――蒔田さんのこと。

 部下じゃなくって、ひとりの女性としてあたしのこと見てください』――もし。

 彼女とあんなかたちで出会わなかったら。

 どんな未来が二人には待っていただろう。考えても無駄だ。もう彼女は自分を拒んだのだから。


 とこんなふうに。

 考えないようにすればするほど彼女のことを考えてしまう。それは。


 彼女を傷つけた罪悪感に依るものなのか。


 或いは自分でも気づかないうちに、深く深く彼女を愛してしまった結果なのか。


 前者であることを期待し、蒔田一臣は味のしないコーヒーを飲み干す。


 孤独な休日だった。


 *
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