恋は、やさしく

美凪ましろ

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act56. 転機

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 自分から話題を振るのではなく、彼が重い口を開くのを待とうと思った。

 あれ以降、チャンスがなかったわけではない。しかし、自覚せぬ蒔田に自分から話を振っても、無意味だと思った。彼にも彼女にも考える時間が必要だった。価値観と育ちの違う同士が一緒に過ごす以上。

 彼が『知らない』のならともに時間を過ごして、その楽しさに目覚めさせていけばいい。

 そう、彼女は判断した。


 物事に向き合うには時間がかかる。

 それが、重大な問題であればあるほど。


 電話口で、大事な話がある、と蒔田に呼び出された土曜の午後。

『その話』への予感と……お互い適齢期。

 もしかしたら、という二つの期待とともに、彼女は蒔田と合流した。


「ここ、入ろうか」


 どうやら。

 彼女の期待していたような話ではなく、それでも、大事な話であることには変わりないであろうが、やや拍子抜けしつつ、コーヒーショップに入る蒔田の背を見ながら、彼女は続いたのだった。


「比嘉さんのことを、覚えているか。以前うちの会社に居た……」


 面接のときのように真剣な蒔田の面持ち。続いて、テーブルに組み合わせた彼の大きな手を見ながら彼女は答えた。

「覚えてます、勿論……」かつて同じ会社にいた比嘉の顔を思い浮かべる。美人で、かっこいい上司だった。既に退職して会社を起こしたとも聞いている。「なんか、ベンチャー企業たちあげて社長のお仕事してるんですよね」

「うん。それでな。

 きみに、お誘いがかかった」

 蒔田は、真剣な話をするとき、口調が仕事モードになる。『おまえ』じゃなく『きみ』と呼ぶ。もっとも。エキサイトしたときは、つきあっていない頃から『おまえ』呼ばわりされたが。

 蒔田と勤務地が同じであり、毎日顔を合わせた頃を懐かしみつつ、彼女は蒔田に話の続きを目で促す。

「事業拡大につき、事務職の女性を募集しているとのことだ。

 結婚や出産にも対応。一時的にパートタイムで働いてもらっても構わないとのこと。細かい条件はここにあるとおりだが」

 言って、蒔田は、A4サイズの紙を提示する。募集要項。

 彼女が目を通したのを確認し、蒔田は言う。

「個人的には、悪い話じゃないと思う」

 同じ印象を、彼女も抱いた。

「それと。……きみは、うちの会社での仕事を、一生続けていくのか。そのつもりなら、プログラム経験がないと、厳しいと思う。きみに開発の仕事を任せずテストケースの案件ばかり任せたのは、おれの責任でもあるが。では、――

 本当のところ、おれみたいなPLになりたいと、きみは思っている?」

「ぜんぜん……」大型案件のプロジェクトリーダーやってる自分など想像もつかない。

 秘書的な裏方の仕事が向いている。これは蒔田と仕事をしていて、分かったことだ。

「だとすると、開発者以外の仕事だけやっていくとなると、厳しいだろう。

 残業も多い。となると、違う仕事に就くのも手だと、おれは、思うんだが……」

 じっくりと、彼女の逡巡を確かめながら彼は説明する。

「まあきみの人生だ。きみが決めることだ……」

「はい」彼女は、募集要項をバッグにしまった。

「返事は、来週末までに聞かせてもらえると助かるとのことだ。

 ゆっくり、考えるといい……」

 彼女の目を見据え彼女の結論を優しく促す蒔田の瞳を見ながら、彼女は、頷いた。


 * * *


 土曜日だったが、彼女は、自分のマンションに帰った。考える時間が必要だと、蒔田が考慮してくれた。あの腕に包まれると、ほかのなにも、考えられなくなる。

 そもそもIT系企業に就職したのは、SEを目指してのことだった。これを言うと笑われるかもしれないが、部活時代。みんなでわいわい物事を進めて行くのが好きだったのだ。彼女は、一歩後ろに下がり、周囲を傍観する視点を持ちつつも、進めて行くような参謀兼秘書のような役割が気に入っていた。部活では会計を受け持った。

 SEの仕事を知ったときにみんなでシステムを作りながら社会貢献できるなんて、なんて素敵な仕事だ! と思った。これだ! とひらめくものがあった。

 彼女は、文系だ。そのため入社後の研修ではビリだった。フローチャートの考え方は理解したものの、実践する段階でつまりプログラムを組む段階で、苦労をした。すいすい解いていく理系の面々を尻目に向いていないのかと、深刻に悩んだ。でも一度入った会社だから、簡単に辞めてはならない、と思った。

 研修後さまざまな仕事を受け持ったが確かに、蒔田の言うとおり、花型である『開発』とは無縁の仕事で――いまやっている仕事もシステムテストのテスターだ。試験項目表を作ったり、実施したりと『開発』とは程遠い。

 この先、この業界でやっていけるかと言えば激しく疑問だ。蒔田に言われなくとも、それは感じていた。ではどうやって生き延びていくのか。

 再びアシスタント職につくかといっても、経費削減のため、近年、その手の仕事は派遣社員に任せる傾向にある。

 自分の居場所が、ないに等しいのだ。

 因みに、道林ミカはああ見えても理系。開発職でも、やっていける。

 業界に、自分の居場所がないと感じるものの、寂しくはなかった。

 また新しい道を探ればいいだけの話。だから彼女は――


 * * *


 翌週を待たず。日曜である翌日。彼女は自分から蒔田を呼び出した。場所は昨日と同じコーヒーショップ。


「あたし。受けます」


 引き抜きの話を受諾したのだった。

 *
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