【完結】婚約破棄に祝砲を。あら、殿下ったらもうご結婚なさるのね? では、祝辞代わりに花嫁ごと吹き飛ばしに伺いますわ。

猫屋敷 むぎ

文字の大きさ
5 / 35

第五話 頼れるのは、あなただけ

しおりを挟む
“畏怖”。

その一語に、リシェルはわずかに瞳を見開いた。
ゆっくりと瞬きをすると、首筋に――じん、と冷たいものが這い上がってくる。

「……クラウスが“畏怖”を感じるなど……初めて伺いましたわ」

静かに告げながらも、その声音には、言いようのないざわめきがにじむ。

クラウスの仮面に覆われていない唇が、かすかに弧を描いた。

「はい……正体も理由も定かでないまま、ただ、背筋を氷でなぞられるような感覚を――確かに、あの場で覚えました」

「……そう。ならば、わたくしの“直感”も、あながち妄想ではなかったということですわね」

少しだけ、息を吐く。
紅茶の香りがふわりと漂い、妙に現実的で――皮肉なほどに穏やかだった。

「お嬢様」

クラウスは一歩、前へと進む。

「少し、気になることがございます。しばし席を外して、調べて参りたく存じます」

「……無茶は、なさらないでくださいね?」

その言葉に、クラウスの目がわずかに細まった。けれど、口元には穏やかな笑みを湛えていた。

「お嬢様がそう命じられるのなら――命を懸ける前に、必ず戻って参ります」

その声音には、冗談のような軽さと、鋼のような決意が同居していた。

「貴女を侮辱した者への復讐のためではありません。
 ただ――あの場には、確かに“違和感”があった。説明のできない、空気の歪みのような……異質さが」

「放置すれば、いずれ――この国全体が、呑まれてしまうかもしれません」

リシェルはそっと頷く。

「……ええ。行ってらして、クラウス」

「必ず、戻って参ります。お嬢様のお側へ――
 ……亡き公爵ご夫妻に代わり、お嬢様をお守りするのが、わたくしの務めですから」

そしてクラウスは、静かに身を翻すと、音もなく部屋を出ていった。

――ぱたん。

静寂が戻る。

扉の向こうに遠ざかる足音が、やがて完全に消えた。
残されたのは、時計の針の音と、自分の呼吸だけ。

また一人きり、ですわね。

父も、母も、もういない。
あの頃のように、膝にすがって泣くことも、夢を語ることもできない。

だからこそ、この静けさは、いつだって――胸に沁みる。

喉がわずかに乾き――

「もう……わたくしが頼れるのは――あなただけ、ですわね……」

そのときぽつりと零れた言葉に、自分でも少し驚いて。
リシェルはそっと、口元に手を添えた。

窓辺に歩み寄り、静かにカーテンを開ける。
ぼんやりと薄曇りの空が広がり、その下の街が、どこか遠い国の風景のように思えた。

ティーカップを手に、ゆっくりと見つめる。

――あの日、公爵家の印章を引き継いだときも、
こんなふうに、現実が霞んでいた。

あのときも、クラウス――あなただけがそばにいてくださいました。

そして、ふと――あの男の言葉が脳裏によみがえり、まぶたがゆっくりとおりる。

「真実の愛、ですって? 本気で?」

そのままカップを口元へ運び、かすかに微笑んだ。

「……まるで、誰かの筋書きにでもあったような、滑稽な台詞ですわ――殿下。
 次の台詞は? この愛は永遠? 世界を敵に回しても構わない?
 ふふ……台本の配布はどちらですの?」

……そうね……もう一口。

クラウスが温め直してくれたその紅茶の温度だけが、現実へとリシェルを引き留めていた。
舌の上に残るわずかな熱と渋みが、今だけは確かなものだった。

けれど――婚約破棄も、殿下の言葉も、あの女の笑みも。
どれひとつとして、終わったとは思えない。

……この芝居の台本が、すでに誰かに綴られているとしたら?

そうなら、これは――“芝居”の幕開けに過ぎない……?

――そっと視線を落とせば、湯気がゆらぎ、胸の奥まで染み込んでくるようだった。

何も言わず、ただ温めてくれる――その変わらぬ心遣いが、
夜の静けさよりも深く、心に温もりを置いていった。

「ええ、わたくしが頼れるのは、あなただけ――」

……けれど、その温もりの奥で、
終わっていない何かが、静かに息を潜めている――あの女の笑みのように。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

私がいなくなっても構わないと言ったのは、あなたの方ですよ?

睡蓮
恋愛
セレスとクレイは婚約関係にあった。しかし、セレスよりも他の女性に目移りしてしまったクレイは、ためらうこともなくセレスの事を婚約破棄の上で追放してしまう。お前などいてもいなくても構わないと別れの言葉を告げたクレイであったものの、後に全く同じ言葉をセレスから返されることとなることを、彼は知らないままであった…。 ※全6話完結です。

王子の片思いに気付いたので、悪役令嬢になって婚約破棄に協力しようとしてるのに、なぜ執着するんですか?

いりん
恋愛
婚約者の王子が好きだったが、 たまたま付き人と、 「婚約者のことが好きなわけじゃないー 王族なんて恋愛して結婚なんてできないだろう」 と話ながら切なそうに聖女を見つめている王子を見て、王子の片思いに気付いた。 私が悪役令嬢になれば、聖女と王子は結婚できるはず!と婚約破棄を目指してたのに…、 「僕と婚約破棄して、あいつと結婚するつもり?許さないよ」 なんで執着するんてすか?? 策略家王子×天然令嬢の両片思いストーリー 基本的に悪い人が出てこないほのぼのした話です。 他小説サイトにも投稿しています。

愚か者が自滅するのを、近くで見ていただけですから

越智屋ノマ
恋愛
宮中舞踏会の最中、侯爵令嬢ルクレツィアは王太子グレゴリオから一方的に婚約破棄を宣告される。新たな婚約者は、平民出身で才女と名高い女官ピア・スミス。 新たな時代の象徴を気取る王太子夫妻の華やかな振る舞いは、やがて国中の不満を集め、王家は静かに綻び始めていく。 一方、表舞台から退いたはずのルクレツィアは、親友である王女アリアンヌと再会する。――崩れゆく王家を前に、それぞれの役割を選び取った『親友』たちの結末は?

婚約破棄された地味伯爵令嬢は、隠れ錬金術師でした~追放された辺境でスローライフを始めたら、隣国の冷徹魔導公爵に溺愛されて最強です~

ふわふわ
恋愛
地味で目立たない伯爵令嬢・エルカミーノは、王太子カイロンとの政略婚約を強いられていた。 しかし、転生聖女ソルスティスに心を奪われたカイロンは、公開の舞踏会で婚約破棄を宣言。「地味でお前は不要!」と嘲笑う。 周囲から「悪役令嬢」の烙印を押され、辺境追放を言い渡されたエルカミーノ。 だが内心では「やったー! これで自由!」と大喜び。 実は彼女は前世の記憶を持つ天才錬金術師で、希少素材ゼロで最強ポーションを作れるチート級の才能を隠していたのだ。 追放先の辺境で、忠実なメイド・セシルと共に薬草園を開き、のんびりスローライフを始めるエルカミーノ。 作ったポーションが村人を救い、次第に評判が広がっていく。 そんな中、隣国から視察に来た冷徹で美麗な魔導公爵・ラクティスが、エルカミーノの才能に一目惚れ(?)。 「君の錬金術は国宝級だ。僕の国へ来ないか?」とスカウトし、腹黒ながらエルカミーノにだけ甘々溺愛モード全開に! 一方、王都ではソルスティスの聖魔法が効かず魔瘴病が流行。 エルカミーノのポーションなしでは国が危機に陥り、カイロンとソルスティスは後悔の渦へ……。 公開土下座、聖女の暴走と転生者バレ、国際的な陰謀…… さまざまな試練をラクティスの守護と溺愛で乗り越え、エルカミーノは大陸の救済者となり、幸せな結婚へ! **婚約破棄ざまぁ×隠れチート錬金術×辺境スローライフ×冷徹公爵の甘々溺愛** 胸キュン&スカッと満載の異世界ファンタジー、全32話完結!

婚約破棄され泣きながら帰宅している途中で落命してしまったのですが、待ち受けていた運命は思いもよらぬもので……?

四季
恋愛
理不尽に婚約破棄された"私"は、泣きながら家へ帰ろうとしていたところ、通りすがりの謎のおじさんに刃物で刺され、死亡した。 そうして訪れた死後の世界で対面したのは女神。 女神から思いもよらぬことを告げられた"私"は、そこから、終わりの見えないの旅に出ることとなる。 長い旅の先に待つものは……??

傷付いた騎士なんて要らないと妹は言った~残念ながら、変わってしまった関係は元には戻りません~

キョウキョウ
恋愛
ディアヌ・モリエールの妹であるエレーヌ・モリエールは、とてもワガママな性格だった。 両親もエレーヌの意見や行動を第一に優先して、姉であるディアヌのことは雑に扱った。 ある日、エレーヌの婚約者だったジョセフ・ラングロワという騎士が仕事中に大怪我を負った。 全身を包帯で巻き、1人では歩けないほどの重症だという。 エレーヌは婚約者であるジョセフのことを少しも心配せず、要らなくなったと姉のディアヌに看病を押し付けた。 ついでに、婚約関係まで押し付けようと両親に頼み込む。 こうして、出会うことになったディアヌとジョセフの物語。

不愛想な婚約者のメガネをこっそりかけたら

柳葉うら
恋愛
男爵令嬢のアダリーシアは、婚約者で伯爵家の令息のエディングと上手くいっていない。ある日、エディングに会いに行ったアダリーシアは、エディングが置いていったメガネを出来心でかけてみることに。そんなアダリーシアの姿を見たエディングは――。 「か・わ・い・い~っ!!」 これまでの態度から一変して、アダリーシアのギャップにメロメロになるのだった。 出来心でメガネをかけたヒロインのギャップに、本当は溺愛しているのに不器用であるがゆえにぶっきらぼうに接してしまったヒーローがノックアウトされるお話。

「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」と蔑んだ元婚約者へ。今、私は氷帝陛下の隣で大陸一の幸せを掴んでいます。

椎名シナ
恋愛
「エリアーナ? ああ、あの穀潰しか」 ーーかつて私、エリアーナ・フォン・クライネルは、婚約者であったクラウヴェルト王国第一王子アルフォンスにそう蔑まれ、偽りの聖女マリアベルの奸計によって全てを奪われ、追放されましたわ。ええ、ええ、あの時の絶望と屈辱、今でも鮮明に覚えていますとも。 ですが、ご心配なく。そんな私を拾い上げ、その凍てつくような瞳の奥に熱い情熱を秘めた隣国ヴァルエンデ帝国の若き皇帝、カイザー陛下が「お前こそが、我が探し求めた唯一無二の宝だ」と、それはもう、息もできないほどの熱烈な求愛と、とろけるような溺愛で私を包み込んでくださっているのですもの。 今ではヴァルエンデ帝国の皇后として、かつて「無能」と罵られた私の知識と才能は大陸全土を驚かせ、帝国にかつてない繁栄をもたらしていますのよ。あら、風の噂では、私を捨てたクラウヴェルト王国は、偽聖女の力が消え失せ、今や滅亡寸前だとか? 「エリアーナさえいれば」ですって? これは、どん底に突き落とされた令嬢が、絶対的な権力と愛を手に入れ、かつて自分を見下した愚か者たちに華麗なる鉄槌を下し、大陸一の幸せを掴み取る、痛快極まりない逆転ざまぁ&極甘溺愛ストーリー。 さあ、元婚約者のアルフォンス様? 私の「穀潰し」ぶりが、どれほどのものだったか、その目でとくとご覧にいれますわ。もっとも、今のあなたに、その資格があるのかしら? ――え? ヴァルエンデ帝国からの公式声明? 「エリアーナ皇女殿下のご生誕を祝福し、クラウヴェルト王国には『適切な対応』を求める」ですって……?

処理中です...