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第五話 頼れるのは、あなただけ
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“畏怖”。
その一語に、リシェルはわずかに瞳を見開いた。
ゆっくりと瞬きをすると、首筋に――じん、と冷たいものが這い上がってくる。
「……クラウスが“畏怖”を感じるなど……初めて伺いましたわ」
静かに告げながらも、その声音には、言いようのないざわめきがにじむ。
クラウスの仮面に覆われていない唇が、かすかに弧を描いた。
「はい……正体も理由も定かでないまま、ただ、背筋を氷でなぞられるような感覚を――確かに、あの場で覚えました」
「……そう。ならば、わたくしの“直感”も、あながち妄想ではなかったということですわね」
少しだけ、息を吐く。
紅茶の香りがふわりと漂い、妙に現実的で――皮肉なほどに穏やかだった。
「お嬢様」
クラウスは一歩、前へと進む。
「少し、気になることがございます。しばし席を外して、調べて参りたく存じます」
「……無茶は、なさらないでくださいね?」
その言葉に、クラウスの目がわずかに細まった。けれど、口元には穏やかな笑みを湛えていた。
「お嬢様がそう命じられるのなら――命を懸ける前に、必ず戻って参ります」
その声音には、冗談のような軽さと、鋼のような決意が同居していた。
「貴女を侮辱した者への復讐のためではありません。
ただ――あの場には、確かに“違和感”があった。説明のできない、空気の歪みのような……異質さが」
「放置すれば、いずれ――この国全体が、呑まれてしまうかもしれません」
リシェルはそっと頷く。
「……ええ。行ってらして、クラウス」
「必ず、戻って参ります。お嬢様のお側へ――
……亡き公爵ご夫妻に代わり、お嬢様をお守りするのが、わたくしの務めですから」
そしてクラウスは、静かに身を翻すと、音もなく部屋を出ていった。
――ぱたん。
静寂が戻る。
扉の向こうに遠ざかる足音が、やがて完全に消えた。
残されたのは、時計の針の音と、自分の呼吸だけ。
また一人きり、ですわね。
父も、母も、もういない。
あの頃のように、膝にすがって泣くことも、夢を語ることもできない。
だからこそ、この静けさは、いつだって――胸に沁みる。
喉がわずかに乾き――
「もう……わたくしが頼れるのは――あなただけ、ですわね……」
そのときぽつりと零れた言葉に、自分でも少し驚いて。
リシェルはそっと、口元に手を添えた。
窓辺に歩み寄り、静かにカーテンを開ける。
ぼんやりと薄曇りの空が広がり、その下の街が、どこか遠い国の風景のように思えた。
ティーカップを手に、ゆっくりと見つめる。
――あの日、公爵家の印章を引き継いだときも、
こんなふうに、現実が霞んでいた。
あのときも、クラウス――あなただけがそばにいてくださいました。
そして、ふと――あの男の言葉が脳裏によみがえり、まぶたがゆっくりとおりる。
「真実の愛、ですって? 本気で?」
そのままカップを口元へ運び、かすかに微笑んだ。
「……まるで、誰かの筋書きにでもあったような、滑稽な台詞ですわ――殿下。
次の台詞は? この愛は永遠? 世界を敵に回しても構わない?
ふふ……台本の配布はどちらですの?」
……そうね……もう一口。
クラウスが温め直してくれたその紅茶の温度だけが、現実へとリシェルを引き留めていた。
舌の上に残るわずかな熱と渋みが、今だけは確かなものだった。
けれど――婚約破棄も、殿下の言葉も、あの女の笑みも。
どれひとつとして、終わったとは思えない。
……この芝居の台本が、すでに誰かに綴られているとしたら?
そうなら、これは――“芝居”の幕開けに過ぎない……?
――そっと視線を落とせば、湯気がゆらぎ、胸の奥まで染み込んでくるようだった。
何も言わず、ただ温めてくれる――その変わらぬ心遣いが、
夜の静けさよりも深く、心に温もりを置いていった。
「ええ、わたくしが頼れるのは、あなただけ――」
……けれど、その温もりの奥で、
終わっていない何かが、静かに息を潜めている――あの女の笑みのように。
その一語に、リシェルはわずかに瞳を見開いた。
ゆっくりと瞬きをすると、首筋に――じん、と冷たいものが這い上がってくる。
「……クラウスが“畏怖”を感じるなど……初めて伺いましたわ」
静かに告げながらも、その声音には、言いようのないざわめきがにじむ。
クラウスの仮面に覆われていない唇が、かすかに弧を描いた。
「はい……正体も理由も定かでないまま、ただ、背筋を氷でなぞられるような感覚を――確かに、あの場で覚えました」
「……そう。ならば、わたくしの“直感”も、あながち妄想ではなかったということですわね」
少しだけ、息を吐く。
紅茶の香りがふわりと漂い、妙に現実的で――皮肉なほどに穏やかだった。
「お嬢様」
クラウスは一歩、前へと進む。
「少し、気になることがございます。しばし席を外して、調べて参りたく存じます」
「……無茶は、なさらないでくださいね?」
その言葉に、クラウスの目がわずかに細まった。けれど、口元には穏やかな笑みを湛えていた。
「お嬢様がそう命じられるのなら――命を懸ける前に、必ず戻って参ります」
その声音には、冗談のような軽さと、鋼のような決意が同居していた。
「貴女を侮辱した者への復讐のためではありません。
ただ――あの場には、確かに“違和感”があった。説明のできない、空気の歪みのような……異質さが」
「放置すれば、いずれ――この国全体が、呑まれてしまうかもしれません」
リシェルはそっと頷く。
「……ええ。行ってらして、クラウス」
「必ず、戻って参ります。お嬢様のお側へ――
……亡き公爵ご夫妻に代わり、お嬢様をお守りするのが、わたくしの務めですから」
そしてクラウスは、静かに身を翻すと、音もなく部屋を出ていった。
――ぱたん。
静寂が戻る。
扉の向こうに遠ざかる足音が、やがて完全に消えた。
残されたのは、時計の針の音と、自分の呼吸だけ。
また一人きり、ですわね。
父も、母も、もういない。
あの頃のように、膝にすがって泣くことも、夢を語ることもできない。
だからこそ、この静けさは、いつだって――胸に沁みる。
喉がわずかに乾き――
「もう……わたくしが頼れるのは――あなただけ、ですわね……」
そのときぽつりと零れた言葉に、自分でも少し驚いて。
リシェルはそっと、口元に手を添えた。
窓辺に歩み寄り、静かにカーテンを開ける。
ぼんやりと薄曇りの空が広がり、その下の街が、どこか遠い国の風景のように思えた。
ティーカップを手に、ゆっくりと見つめる。
――あの日、公爵家の印章を引き継いだときも、
こんなふうに、現実が霞んでいた。
あのときも、クラウス――あなただけがそばにいてくださいました。
そして、ふと――あの男の言葉が脳裏によみがえり、まぶたがゆっくりとおりる。
「真実の愛、ですって? 本気で?」
そのままカップを口元へ運び、かすかに微笑んだ。
「……まるで、誰かの筋書きにでもあったような、滑稽な台詞ですわ――殿下。
次の台詞は? この愛は永遠? 世界を敵に回しても構わない?
ふふ……台本の配布はどちらですの?」
……そうね……もう一口。
クラウスが温め直してくれたその紅茶の温度だけが、現実へとリシェルを引き留めていた。
舌の上に残るわずかな熱と渋みが、今だけは確かなものだった。
けれど――婚約破棄も、殿下の言葉も、あの女の笑みも。
どれひとつとして、終わったとは思えない。
……この芝居の台本が、すでに誰かに綴られているとしたら?
そうなら、これは――“芝居”の幕開けに過ぎない……?
――そっと視線を落とせば、湯気がゆらぎ、胸の奥まで染み込んでくるようだった。
何も言わず、ただ温めてくれる――その変わらぬ心遣いが、
夜の静けさよりも深く、心に温もりを置いていった。
「ええ、わたくしが頼れるのは、あなただけ――」
……けれど、その温もりの奥で、
終わっていない何かが、静かに息を潜めている――あの女の笑みのように。
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