【完結】婚約破棄に祝砲を。あら、殿下ったらもうご結婚なさるのね? では、祝辞代わりに花嫁ごと吹き飛ばしに伺いますわ。

猫屋敷 むぎ

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第十七話 お嬢様、揺らいでください

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「……あの、クラウス」

街中での襲撃の後、屋敷に戻ったリシェルは椅子から静かに立ち上がると、窓辺へと歩いた。

西日がカーテン越しに溶け、室内に金のフィルターをかけるように柔らかく漂っている。
それは、静かな午後の残り香のようで――けれど胸の奥には、昼間の緊張がまだ微かに残っていた。

「今日は、本当に……ありがとう。助けてくださって」

背に窓の光を受けたリシェルの影が、床に落ちて揺れる。
クラウスは少しだけ近づいて、一歩引いたところで静かに頭を垂れた。

「当然のことです、お嬢様。貴女は私の――」

しかし、彼の言葉がふと止まる。

「……いえ。今は、“主”などという言い方は、似合わない気がいたします」

「ふふっ……珍しく、歯切れが悪いですわね?」

リシェルはゆるやかに振り返る。
窓辺の逆光がその輪郭を淡く浮かび上がらせ、まるで夢の中の人のように見えた。
柔らかな光の中に、紅茶と薔薇の香りがほのかに混ざり合う。

いたずらっぽく微笑むその顔に、クラウスは一瞬だけ視線を泳がせた。

「私の立場が――少し、形を崩しそうでして」

「じゃあ……崩してくださっても、わたくしはかまいませんわ」

その一言に、クラウスの瞳が静かに見開かれる。
仮面の奥にある、普段決して覗かせない“揺れ”が、ほんの僅かに滲んだ。

「……お嬢様?」

「わたくし、今日……少しだけ、自分が“誰かに守られるのも悪くない”って、思ってしまいました」

リシェルは両手を胸の前にそっと重ねる。
指先に、ほんのかすかに残るクラウスの手の感触。
それが、鼓動とともにじんわりと広がっていく。

「クラウス。貴方が傍にいてくれると、こんなにも安心できるのですね……。不思議です」

「それは――とても、光栄なことです」

銀の仮面の縁が、窓の光を細く弾いた。

クラウスは静かに手袋を外すと、一瞬だけ何かを迷うような間を置き、それから一歩近づく。
手の甲でリシェルの耳元にかかる髪をそっとすくい上げた。

ごく自然な仕草。けれど――
指先が、ふとリシェルの頬をかすめる。
絹のような髪と、肌の温もりがわずかにクラウスの指に残った。

その瞬間――リシェルの世界から、音が消えた。

その一瞬の温度が、彼女の呼吸を止めさせた。

「……あ」

小さな声がこぼれたあと、リシェルは反射的に顔を背けた。
胸の奥が痛いほど跳ねていて、自分でもどうしようもなかった。

カーテンの向こうに逃がした視線は、もう彼を正面から見られないという証だった。
 ……それでも、すぐ隣にある温かな気配が、意識から離れてくれない。

「……ずるいですわ、クラウス。そんなふうに、触れて……優しくして……」

「私は、いつでも。貴女に誠実であると、誓っています」

「でも、こんなにも揺らいでしまうのですよ?」

リシェルの声は、自分でも気づかぬうちに少し震えていた。
それでも……踏み込んでしまう。
彼の前では隠したくない、そう思ってしまったから。

「……ならば、どうか、揺らいでください。
 貴女が私を見てくれているのなら、私もまた――」

そこまで言ったところで、クラウスは口を閉ざした。
呼吸の音だけが、二人の間に落ちた。

それ以上は、言葉にしてはいけない。

それは、口にしてしまえば、もう戻れないと知っているから。
忠義と、それ以外の感情の境界線が曖昧になってはならないことを、彼は痛いほど理解していた。
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