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第十六話 黒燕尾、石畳に舞う
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「きゃあっ!!」
「逃げろ――っ!!」
「走れ! あいつら狂ってるぞ!!」
叫び声と同時に、リシェルの手から滑り落ちた猫の包みをクラウスが片手で優雅にキャッチし、そのまま何事もなかったかのように手元に戻す。
呆気に取られたリシェルに一言。
「最優先で対応いたしました」
「あ……ありがとうございます」
クラウスの鋭い視線の先――人波をかき分け、数人の男たちが獣のような形相で突進してくる。
走る足音、叫ぶ人々、弾けるような破裂音――押し倒された屋台の瓶が割れる音。
そして、その男たちの眼差しは、まっすぐに――リシェルを捉えていた。
まるで最初から、“彼女を狙っていた”かのように。
慌ててショーケースの裏に隠れる店主。
「お嬢様はこちらで動かずにお待ちください」
「クラウス、気をつけて」
リシェルを残してクラウスは表通りへ出た。
瞳孔は開き、焦点だけがリシェルを貫いている。口角は笑っているのに、頬の筋肉がまるで動かない。
「……あれは、酔狂や痴れ者の目ではありませんね」
クラウスが扉の内側のリシェルの前に立ち、静かに手袋を嵌め直す。
その動きには、ひとひらの焦りすらなく、まるで朝の紅茶を入れるかのような優雅さすら漂っていた。
男たちは数人。手には棒やナイフのようなもの。
だが、近づくより早く――
「あいにく取り込み中にて、御用の節は改めていただけますか。
……理性が残っておられるならば、ですが」
クラウスが前に一歩。
男たちが一斉に動いた瞬間、黒燕尾がひと揺れ――
つま先が半歩、肩を崩し、踵で払う。
手首を軽く返し、関節の内側をすっと押し流す。
袖が翻った次の瞬間には、二人目が石畳に沈んでいた。
何をしたのか、誰もわからなかった。
ただ、彼の足が半歩動いたと思えば、もう一人。
袖が翻ったかと思えば、また一人。
あまりにも静かな動きで、一つ所作が生まれるたび――一人、また一人と倒れていく。
見ているだけで、空気が凍りつくようだった。
それでも彼は、舞うように、美しかった。
最後の男が立ち上がろうとしたところへ、クラウスが無表情に指を鳴らす。
「眠りなさい」
男は、糸の切れた操り人形のように――抵抗すらできず、その場に崩れ落ちた。
「残念ながら、理性は残っておられなかったようですね」
黒燕尾の裾は風を孕みつつも、塵ひとつ纏わぬまま――静かに揺れている。
遠くで衛兵笛の音が上がる。ざわめきが波のように押し寄せた。
「まだ終わりではないかもしれません。
……屋敷へ戻りましょう」
リシェルの手を取り、すぐに人混みを抜ける。
貴族街へ通じる道を選び、追跡も振り切る。
馬車へと乗り込んだとき、包みを手にしたリシェルは荒い息のまま尋ねた。
「ク、クラウス……その、今のは……」
「状況は不明ですが――お嬢様が狙われた可能性が高い。理由は定かではありません」
「……あの人たち、目が……正気とは思えませんでした」
「はい。……“催術”の類、あるいはもっと異質な術式の可能性も……。
後ほど、調べてまいります」
「また?」
「ええ。ですが――その前に」
クラウスはリシェルの手を、ふわりと軽く包んだ。
さきほど彼女を導いた時と同じように。
指先に触れた瞬間、微かな冷たさと、静かに刻む脈の鼓動が伝わってくる。
「……お怪我は、ありませんか?」
「……ない、けれど……」
気づけば、自分の心臓が早鐘のように打っていた。
さきほどの恐怖ではない。
目の前の男が、あまりにも“頼りになりすぎて”、心が追いついていないのだ。
彼の手は、少し冷たくて。
でも、安心できる温度だった。
「……ありがとう、クラウス」
「いつまでも、どこまでも。――お嬢様の傍に」
彼は優雅に頭を下げた。
その瞬間――
リシェルは、初めて本当の意味で、
彼に心を預けかけていることに気づいてしまった。
そんなはずじゃなかったのに、と心のどこかで囁く自分がいた。
彼は執事で――わたくしは公女。
それでも――彼の手を、離したくなかった。
……ほんの少しだけなら……この手の温もりに甘えても、罰は当たりませんわよね?
そう思った自分に、胸の奥が静かに熱くなった。
***
その少し前のこと。
「……やはり、あの男は厄介。解放せねば仕留められぬか……」
衛兵の怒号と蹄の音に、誰かの言葉が石畳へ吸い込まれていった。
「逃げろ――っ!!」
「走れ! あいつら狂ってるぞ!!」
叫び声と同時に、リシェルの手から滑り落ちた猫の包みをクラウスが片手で優雅にキャッチし、そのまま何事もなかったかのように手元に戻す。
呆気に取られたリシェルに一言。
「最優先で対応いたしました」
「あ……ありがとうございます」
クラウスの鋭い視線の先――人波をかき分け、数人の男たちが獣のような形相で突進してくる。
走る足音、叫ぶ人々、弾けるような破裂音――押し倒された屋台の瓶が割れる音。
そして、その男たちの眼差しは、まっすぐに――リシェルを捉えていた。
まるで最初から、“彼女を狙っていた”かのように。
慌ててショーケースの裏に隠れる店主。
「お嬢様はこちらで動かずにお待ちください」
「クラウス、気をつけて」
リシェルを残してクラウスは表通りへ出た。
瞳孔は開き、焦点だけがリシェルを貫いている。口角は笑っているのに、頬の筋肉がまるで動かない。
「……あれは、酔狂や痴れ者の目ではありませんね」
クラウスが扉の内側のリシェルの前に立ち、静かに手袋を嵌め直す。
その動きには、ひとひらの焦りすらなく、まるで朝の紅茶を入れるかのような優雅さすら漂っていた。
男たちは数人。手には棒やナイフのようなもの。
だが、近づくより早く――
「あいにく取り込み中にて、御用の節は改めていただけますか。
……理性が残っておられるならば、ですが」
クラウスが前に一歩。
男たちが一斉に動いた瞬間、黒燕尾がひと揺れ――
つま先が半歩、肩を崩し、踵で払う。
手首を軽く返し、関節の内側をすっと押し流す。
袖が翻った次の瞬間には、二人目が石畳に沈んでいた。
何をしたのか、誰もわからなかった。
ただ、彼の足が半歩動いたと思えば、もう一人。
袖が翻ったかと思えば、また一人。
あまりにも静かな動きで、一つ所作が生まれるたび――一人、また一人と倒れていく。
見ているだけで、空気が凍りつくようだった。
それでも彼は、舞うように、美しかった。
最後の男が立ち上がろうとしたところへ、クラウスが無表情に指を鳴らす。
「眠りなさい」
男は、糸の切れた操り人形のように――抵抗すらできず、その場に崩れ落ちた。
「残念ながら、理性は残っておられなかったようですね」
黒燕尾の裾は風を孕みつつも、塵ひとつ纏わぬまま――静かに揺れている。
遠くで衛兵笛の音が上がる。ざわめきが波のように押し寄せた。
「まだ終わりではないかもしれません。
……屋敷へ戻りましょう」
リシェルの手を取り、すぐに人混みを抜ける。
貴族街へ通じる道を選び、追跡も振り切る。
馬車へと乗り込んだとき、包みを手にしたリシェルは荒い息のまま尋ねた。
「ク、クラウス……その、今のは……」
「状況は不明ですが――お嬢様が狙われた可能性が高い。理由は定かではありません」
「……あの人たち、目が……正気とは思えませんでした」
「はい。……“催術”の類、あるいはもっと異質な術式の可能性も……。
後ほど、調べてまいります」
「また?」
「ええ。ですが――その前に」
クラウスはリシェルの手を、ふわりと軽く包んだ。
さきほど彼女を導いた時と同じように。
指先に触れた瞬間、微かな冷たさと、静かに刻む脈の鼓動が伝わってくる。
「……お怪我は、ありませんか?」
「……ない、けれど……」
気づけば、自分の心臓が早鐘のように打っていた。
さきほどの恐怖ではない。
目の前の男が、あまりにも“頼りになりすぎて”、心が追いついていないのだ。
彼の手は、少し冷たくて。
でも、安心できる温度だった。
「……ありがとう、クラウス」
「いつまでも、どこまでも。――お嬢様の傍に」
彼は優雅に頭を下げた。
その瞬間――
リシェルは、初めて本当の意味で、
彼に心を預けかけていることに気づいてしまった。
そんなはずじゃなかったのに、と心のどこかで囁く自分がいた。
彼は執事で――わたくしは公女。
それでも――彼の手を、離したくなかった。
……ほんの少しだけなら……この手の温もりに甘えても、罰は当たりませんわよね?
そう思った自分に、胸の奥が静かに熱くなった。
***
その少し前のこと。
「……やはり、あの男は厄介。解放せねば仕留められぬか……」
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