16 / 37
第十六話 黒燕尾、石畳に舞う
「きゃあっ!!」
「逃げろ――っ!!」
「走れ! あいつら狂ってるぞ!!」
叫び声と同時に、リシェルの手から滑り落ちた猫の包みをクラウスが片手で優雅にキャッチし、そのまま何事もなかったかのように手元に戻す。
呆気に取られたリシェルに一言。
「最優先で対応いたしました」
「あ……ありがとうございます」
クラウスの鋭い視線の先――人波をかき分け、数人の男たちが獣のような形相で突進してくる。
走る足音、叫ぶ人々、弾けるような破裂音――押し倒された屋台の瓶が割れる音。
そして、その男たちの眼差しは、まっすぐに――リシェルを捉えていた。
まるで最初から、“彼女を狙っていた”かのように。
慌ててショーケースの裏に隠れる店主。
「お嬢様はこちらで動かずにお待ちください」
「クラウス、気をつけて」
リシェルを残してクラウスは表通りへ出た。
瞳孔は開き、焦点だけがリシェルを貫いている。口角は笑っているのに、頬の筋肉がまるで動かない。
「……あれは、酔狂や痴れ者の目ではありませんね」
クラウスが扉の内側のリシェルの前に立ち、静かに手袋を嵌め直す。
その動きには、ひとひらの焦りすらなく、まるで朝の紅茶を入れるかのような優雅さすら漂っていた。
男たちは数人。手には棒やナイフのようなもの。
だが、近づくより早く――
「あいにく取り込み中にて、御用の節は改めていただけますか。
……理性が残っておられるならば、ですが」
クラウスが前に一歩。
男たちが一斉に動いた瞬間、黒燕尾がひと揺れ――
つま先が半歩、肩を崩し、踵で払う。
手首を軽く返し、関節の内側をすっと押し流す。
袖が翻った次の瞬間には、二人目が石畳に沈んでいた。
何をしたのか、誰もわからなかった。
ただ、彼の足が半歩動いたと思えば、もう一人。
袖が翻ったかと思えば、また一人。
あまりにも静かな動きで、一つ所作が生まれるたび――一人、また一人と倒れていく。
見ているだけで、空気が凍りつくようだった。
それでも彼は、舞うように、美しかった。
最後の男が立ち上がろうとしたところへ、クラウスが無表情に指を鳴らす。
「眠りなさい」
男は、糸の切れた操り人形のように――抵抗すらできず、その場に崩れ落ちた。
「残念ながら、理性は残っておられなかったようですね」
黒燕尾の裾は風を孕みつつも、塵ひとつ纏わぬまま――静かに揺れている。
遠くで衛兵笛の音が上がる。ざわめきが波のように押し寄せた。
「まだ終わりではないかもしれません。
……屋敷へ戻りましょう」
リシェルの手を取り、すぐに人混みを抜ける。
貴族街へ通じる道を選び、追跡も振り切る。
馬車へと乗り込んだとき、包みを手にしたリシェルは荒い息のまま尋ねた。
「ク、クラウス……その、今のは……」
「状況は不明ですが――お嬢様が狙われた可能性が高い。理由は定かではありません」
「……あの人たち、目が……正気とは思えませんでした」
「はい。……“催術”の類、あるいはもっと異質な術式の可能性も……。
後ほど、調べてまいります」
「また?」
「ええ。ですが――その前に」
クラウスはリシェルの手を、ふわりと軽く包んだ。
さきほど彼女を導いた時と同じように。
指先に触れた瞬間、微かな冷たさと、静かに刻む脈の鼓動が伝わってくる。
「……お怪我は、ありませんか?」
「……ない、けれど……」
気づけば、自分の心臓が早鐘のように打っていた。
さきほどの恐怖ではない。
目の前の男が、あまりにも“頼りになりすぎて”、心が追いついていないのだ。
彼の手は、少し冷たくて。
でも、安心できる温度だった。
「……ありがとう、クラウス」
「いつまでも、どこまでも。――お嬢様の傍に」
彼は優雅に頭を下げた。
その瞬間――
リシェルは、初めて本当の意味で、
彼に心を預けかけていることに気づいてしまった。
そんなはずじゃなかったのに、と心のどこかで囁く自分がいた。
彼は執事で――わたくしは公女。
それでも――彼の手を、離したくなかった。
……ほんの少しだけなら……この手の温もりに甘えても、罰は当たりませんわよね?
そう思った自分に、胸の奥が静かに熱くなった。
***
その少し前のこと。
「……やはり、あの男は厄介。解放せねば仕留められぬか……」
衛兵の怒号と蹄の音に、誰かの言葉が石畳へ吸い込まれていった。
「逃げろ――っ!!」
「走れ! あいつら狂ってるぞ!!」
叫び声と同時に、リシェルの手から滑り落ちた猫の包みをクラウスが片手で優雅にキャッチし、そのまま何事もなかったかのように手元に戻す。
呆気に取られたリシェルに一言。
「最優先で対応いたしました」
「あ……ありがとうございます」
クラウスの鋭い視線の先――人波をかき分け、数人の男たちが獣のような形相で突進してくる。
走る足音、叫ぶ人々、弾けるような破裂音――押し倒された屋台の瓶が割れる音。
そして、その男たちの眼差しは、まっすぐに――リシェルを捉えていた。
まるで最初から、“彼女を狙っていた”かのように。
慌ててショーケースの裏に隠れる店主。
「お嬢様はこちらで動かずにお待ちください」
「クラウス、気をつけて」
リシェルを残してクラウスは表通りへ出た。
瞳孔は開き、焦点だけがリシェルを貫いている。口角は笑っているのに、頬の筋肉がまるで動かない。
「……あれは、酔狂や痴れ者の目ではありませんね」
クラウスが扉の内側のリシェルの前に立ち、静かに手袋を嵌め直す。
その動きには、ひとひらの焦りすらなく、まるで朝の紅茶を入れるかのような優雅さすら漂っていた。
男たちは数人。手には棒やナイフのようなもの。
だが、近づくより早く――
「あいにく取り込み中にて、御用の節は改めていただけますか。
……理性が残っておられるならば、ですが」
クラウスが前に一歩。
男たちが一斉に動いた瞬間、黒燕尾がひと揺れ――
つま先が半歩、肩を崩し、踵で払う。
手首を軽く返し、関節の内側をすっと押し流す。
袖が翻った次の瞬間には、二人目が石畳に沈んでいた。
何をしたのか、誰もわからなかった。
ただ、彼の足が半歩動いたと思えば、もう一人。
袖が翻ったかと思えば、また一人。
あまりにも静かな動きで、一つ所作が生まれるたび――一人、また一人と倒れていく。
見ているだけで、空気が凍りつくようだった。
それでも彼は、舞うように、美しかった。
最後の男が立ち上がろうとしたところへ、クラウスが無表情に指を鳴らす。
「眠りなさい」
男は、糸の切れた操り人形のように――抵抗すらできず、その場に崩れ落ちた。
「残念ながら、理性は残っておられなかったようですね」
黒燕尾の裾は風を孕みつつも、塵ひとつ纏わぬまま――静かに揺れている。
遠くで衛兵笛の音が上がる。ざわめきが波のように押し寄せた。
「まだ終わりではないかもしれません。
……屋敷へ戻りましょう」
リシェルの手を取り、すぐに人混みを抜ける。
貴族街へ通じる道を選び、追跡も振り切る。
馬車へと乗り込んだとき、包みを手にしたリシェルは荒い息のまま尋ねた。
「ク、クラウス……その、今のは……」
「状況は不明ですが――お嬢様が狙われた可能性が高い。理由は定かではありません」
「……あの人たち、目が……正気とは思えませんでした」
「はい。……“催術”の類、あるいはもっと異質な術式の可能性も……。
後ほど、調べてまいります」
「また?」
「ええ。ですが――その前に」
クラウスはリシェルの手を、ふわりと軽く包んだ。
さきほど彼女を導いた時と同じように。
指先に触れた瞬間、微かな冷たさと、静かに刻む脈の鼓動が伝わってくる。
「……お怪我は、ありませんか?」
「……ない、けれど……」
気づけば、自分の心臓が早鐘のように打っていた。
さきほどの恐怖ではない。
目の前の男が、あまりにも“頼りになりすぎて”、心が追いついていないのだ。
彼の手は、少し冷たくて。
でも、安心できる温度だった。
「……ありがとう、クラウス」
「いつまでも、どこまでも。――お嬢様の傍に」
彼は優雅に頭を下げた。
その瞬間――
リシェルは、初めて本当の意味で、
彼に心を預けかけていることに気づいてしまった。
そんなはずじゃなかったのに、と心のどこかで囁く自分がいた。
彼は執事で――わたくしは公女。
それでも――彼の手を、離したくなかった。
……ほんの少しだけなら……この手の温もりに甘えても、罰は当たりませんわよね?
そう思った自分に、胸の奥が静かに熱くなった。
***
その少し前のこと。
「……やはり、あの男は厄介。解放せねば仕留められぬか……」
衛兵の怒号と蹄の音に、誰かの言葉が石畳へ吸い込まれていった。
あなたにおすすめの小説
婚約破棄で、おひとり様になれるはずだったのに!?
パリパリかぷちーの
恋愛
主人公ルシアン・ヴァイオレットは、「悪役令嬢」として振る舞う孤独愛好家の公爵令嬢。念願だった第一王子アランとの婚約破棄を言い渡されると、内心では歓喜し、大都会の喧騒から逃れて森の奥の廃墟同然の別荘へと引きこもる。ルシアンの目的は、誰にも邪魔されない至高の静寂ライフを満喫することだった。
しかし、彼女の理想郷にはすでに先客がいた。それは、無口で無愛想だがハイスペックな謎の男、キース。実は彼は、王国の裏社会を統べる『影の英雄』と呼ばれる辺境伯であり、ルシアンの孤高の姿に心奪われた重度の隠れファンだった。
悪役令嬢と誤解され冷遇されていたのに、目覚めたら夫が豹変して求愛してくるのですが?
いりん
恋愛
初恋の人と結婚できたーー
これから幸せに2人で暮らしていける…そう思ったのに。
「私は夫としての務めを果たすつもりはない。」
「君を好きになることはない。必要以上に話し掛けないでくれ」
冷たく拒絶され、離婚届けを取り寄せた。
あと2週間で届くーーそうしたら、解放してあげよう。
ショックで熱をだし寝込むこと1週間。
目覚めると夫がなぜか豹変していて…!?
「君から話し掛けてくれないのか?」
「もう君が隣にいないのは考えられない」
無口不器用夫×優しい鈍感妻
すれ違いから始まる両片思いストーリー
【完結】男装して会いに行ったら婚約破棄されていたので、近衛として地味に復讐したいと思います。
銀杏鹿
恋愛
次期皇后のアイリスは、婚約者である王に会うついでに驚かせようと、男に変装し近衛として近づく。
しかし、王が自分以外の者と結婚しようとしていると知り、怒りに震えた彼女は、男装を解かないまま、復讐しようと考える。
しかし、男装が完璧過ぎたのか、王の意中の相手やら、王弟殿下やら、その従者に目をつけられてしまい……
◆◆◆◆◆◆◆◆
作品の転載(スクショ含む)を禁止します。
無断の利用は商用、非営利目的を含め利用を禁止します。
作品の加工・再配布・二次創作を禁止します
問い合わせはプロフィールからTwitterのアカウントにDMをお願いします
◆◆◆◆◆◆◆◆
婚約破棄されたので、とりあえず王太子のことは忘れます!
パリパリかぷちーの
恋愛
クライネルト公爵令嬢のリーチュは、王太子ジークフリートから卒業パーティーで大勢の前で婚約破棄を告げられる。しかし、王太子妃教育から解放されることを喜ぶリーチュは全く意に介さず、むしろ祝杯をあげる始末。彼女は領地の離宮に引きこもり、趣味である薬草園作りに没頭する自由な日々を謳歌し始める。
侯爵家のお飾り妻をやめたら、王太子様からの溺愛が始まりました。
二位関りをん
恋愛
子爵令嬢メアリーが侯爵家当主ウィルソンに嫁いで、はや1年。その間挨拶くらいしか会話は無く、夜の営みも無かった。
そんな中ウィルソンから子供が出来たと語る男爵令嬢アンナを愛人として迎えたいと言われたメアリーはショックを受ける。しかもアンナはウィルソンにメアリーを陥れる嘘を付き、ウィルソンはそれを信じていたのだった。
ある日、色々あって職業案内所へ訪れたメアリーは秒速で王宮の女官に合格。結婚生活は1年を過ぎ、離婚成立の条件も整っていたため、メアリーは思い切ってウィルソンに離婚届をつきつけた。
そして王宮の女官になったメアリーは、王太子レアードからある提案を受けて……?
※世界観などゆるゆるです。温かい目で見てください
婚約破棄された令嬢は、“神の寵愛”で皇帝に溺愛される 〜私を笑った全員、ひざまずけ〜
夜桜
恋愛
「お前のような女と結婚するくらいなら、平民の娘を選ぶ!」
婚約者である第一王子・レオンに公衆の面前で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢セレナ。
彼女は涙を見せず、静かに笑った。
──なぜなら、彼女の中には“神の声”が響いていたから。
「そなたに、我が祝福を授けよう」
神より授かった“聖なる加護”によって、セレナは瞬く間に癒しと浄化の力を得る。
だがその力を恐れた王国は、彼女を「魔女」と呼び追放した。
──そして半年後。
隣国の皇帝・ユリウスが病に倒れ、どんな祈りも届かぬ中、
ただ一人セレナの手だけが彼の命を繋ぎ止めた。
「……この命、お前に捧げよう」
「私を嘲った者たちが、どうなるか見ていなさい」
かつて彼女を追放した王国が、今や彼女に跪く。
──これは、“神に選ばれた令嬢”の華麗なるざまぁと、
“氷の皇帝”の甘すぎる寵愛の物語。
王子の片思いに気付いたので、悪役令嬢になって婚約破棄に協力しようとしてるのに、なぜ執着するんですか?
いりん
恋愛
婚約者の王子が好きだったが、
たまたま付き人と、
「婚約者のことが好きなわけじゃないー
王族なんて恋愛して結婚なんてできないだろう」
と話ながら切なそうに聖女を見つめている王子を見て、王子の片思いに気付いた。
私が悪役令嬢になれば、聖女と王子は結婚できるはず!と婚約破棄を目指してたのに…、
「僕と婚約破棄して、あいつと結婚するつもり?許さないよ」
なんで執着するんてすか??
策略家王子×天然令嬢の両片思いストーリー
基本的に悪い人が出てこないほのぼのした話です。
他小説サイトにも投稿しています。
「嫌われ者の公爵令嬢は神の愛し子でした。愛し子を追放したら国が傾いた!? 今更助けてと言われても知りません」連載版
まほりろ
恋愛
公爵令嬢のアデリナ・ブラウフォードの人生は実母の死後大きく変わった。
公爵は妻の葬儀が終わって間をあけず再婚。公爵と後妻の間には、再婚前に作った子供までいた。
アデリナは継母と異母妹に私物を奪われ、「離れ」と名ばかりの小屋に押し込められる。
腹違いの妹はアデリナを悪者に仕立て、周囲はそれを信じた。
本来ならアデリナの味方にならなくてはならない婚約者の王太子も、異母妹の魅力に骨抜きにされ全く頼りにならない。
学園の教師も、生徒も、生徒の保護者も王太子と異母妹の味方だ。
そんなアデリナにも唯一の味方がいる。それはトカゲのクヴェル。クヴェルは美少年に変身し、家事も炊事も裁縫も完璧にこなす不思議な存在だ。
実はクヴェルはこの国の建国に携わる水竜で、アデリナは三百年前に水竜を救った初代女王の生まれ変わりだったのだ。
アデリナを蔑ろにする国に嫌気がさしたクヴェルは、アデリナを連れて旅に出る。
神に去られた国は徐々に荒廃していき……。
一方その頃、祖国の荒廃を知らないアデリナはクヴェルとのグルメ旅を満喫していた。
「ん~~! このアップルパイは絶品! 紅茶も美味しい!!」
・人外×人間、竜×人間。
・短編版は小説家になろう、pixivにもアップしています。
・長編版を小説家になろうにも投稿しています。小説家になろう先行投稿。
「Copyright(C)2025-まほりろ」
※タイトル変更しました(2025/05/06)
✕「卒業パーティーで王太子から婚約破棄された公爵令嬢、親友のトカゲを連れて旅に出る〜私が国を出たあと井戸も湖も枯れたそうですが知りません」
✕「嫌われ者の公爵令嬢は国外追放を言い渡される。私が神の祝福持ちだと王家が気付いた時には国の崩壊が始まっていました」
◯新タイトル「嫌われ者の公爵令嬢は神の愛し子でした。愛し子を追放したら国が傾いた!? 今更助けてと言われても知りません」
・2025年5月16日HOTランキング2位!
ありがとうございます!
※表紙イラストは猫様からお借りしています。