別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

佐倉 蘭

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武家の妻女〈壱〉

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 大通りの目立つたなでは具合が悪いと思っていたら、又十蔵の奥方が指定してきたのは往来から少し入ったところにあるこじんまりとした水茶屋であった。

 奥まった水茶屋は、大通りにある賑やかな店とは違って、落ち着いたたたずまいをしていた。先ほどから数人すれ違っただけで、人通りもまばらだ。

 さりとて、与岐は手にしていた黒縮緬ちりめんの袖頭巾を被る。誰に顔を見られるかしれやしないゆえだ。
 武家の妻女が町家の者たちに無闇矢鱈と顔をさらすわけにはいかぬゆえ、おそらく又十蔵の奥方もさようにするであろう。
 
「ちょいと、御免よ」
 暖簾を払って店の内へ声をかける。

「へぇ、らっしゃい。何人さんで」
 店の中から、縞の長い前垂れ(前掛け)をした若いおなごが出てきた。水茶屋で働く「茶汲み娘」である。
 別嬪の茶汲み娘のいる水茶屋は、老いも若きもこの娘を目当てにやってくるゆえ、たいそう繁盛する。茶一杯に四文銭で十枚ほど(約五百円)が相場であるが、人気の娘には客がその前垂れに歌舞伎役者よろしく「おひねり」をじ込むのが定石だ。

「先に御新造ごしんぞさんみてぇな格好のおなごが一人来てねぇかえ」
「あっ、其処そこにいらしておりやす」
 茶汲み娘が入り口に近い小上がりを指差した。
「積もる話があんだ。わりぃけど、表からは見えねぇところにしとくれよ」
 世間に疎い奥方は、茶汲み娘に案内されるがままの場処に座っているようだ。

「あい、わかりやした。したら……あちらへどうぞ」
 茶汲み娘は店の奥の小上がりへと、与岐と奥方を案内あないした。


 果たして奥方も与岐と同じく、袖頭巾で顔を隠していた。縮緬の色はこっくりとした紫であった。
「お初にお目にかかりまする、進藤 又十蔵が奥の花江と申しまする。
 此度はいきなりの当方の申し立てにもかかわらず、お忙しい中かような処までわざわざお運びくださり、誠にありがたく存じまする」
 小上がりに座していた奥方——花江が深々と伏した。

「奥方様、こちらこそお初にお目にかかりまして、与岐と申しましてござりまする」
 与岐もまた小上がりに座すと、花江に向かって深々と返礼した。

「進藤様におかれましては……」
 花江に、倒れてからの又十蔵の様子を伝える。
「玄丞先生の御見立てで、もうしばらく我が家にて滋養のあるものを摂りつつゆっくりと養生するように、とのことでござりまする。
 されど、必ずやお元気になり八丁堀の御屋敷へとお戻りになられますゆえ、何卒なにとぞご心配などなさりませぬよう」

 与岐としては又十蔵には一刻も早くとっとと帰ってもらいたいゆえ、当人がたまには白米を喰いたいと望んだとて、おしかとおいねも加勢して毎日玄米ばかりを食べさせている。おかげで青白かった頬にうっすらと赤みが差し、弱々しかった声に張りが出てきた。

「此度は与岐様にお世話をおかけして、恐縮至極にてござりまする。本来ならば、わたくしどもが八丁堀でせねばならぬことを全部押し付けて、誠に痛み入りまする。
 どうか今しばらく、よろしゅうお願いいたしとう存じまする」
 
「……はは上様におかれましては、如何いかがでござりましょうぞ」
 与岐が心に掛かっていたことを尋ねてみた。あの気丈な姑なら、さほど変わらぬように思うが——それとも、やはり息子の身を案じて気落ちしているであろうか……

 すると、それまで「武家の妻女」としてそつなく振る舞っていた花江であるが、その声がみるみる沈んでいく。
「そのことにでごさりまするが……本日、わたくしが此方に参ったのは、与岐様にお願いがござったゆえにてござりまする」

 ——『お願い』とな……
 与岐が訝しげに首を傾げた。

「与岐様、どうか……もう一度、進藤の御家にお戻りくださりませぬか」

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