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群章【兄と弟】
1.知らされていない
しおりを挟む沢山の人に愛されて、甘やかされて、肯定されて。
間違いなく、幸せな人生だと言える。皆が大好きだって、皆が大好きな自分も好きだって、ちゃんと言える。
でも
時々、冷たい水の中にゆっくりと沈むように。
最初は泳いでるつもりなのに、いつまでも水面に上がれなくて、
呼吸が徐々に苦しくなるように
俺の心を冷やして、水の中に閉じ込める。
それは前世で経験した半年間だったり、ユークリッド・ロズウェルとして生きた15年間だったり。
どんなに幸せで、どんなに満たされていても。
呪いのように時々現れて、俺を沈めようと足を掴む。
「今日は元気がないね」
「そうかな?体調はいいんだけど」
朝の支度を終えてアレクシスと合流したユークリッドは、開口一番にそう言われてしまった。
確かに今朝は少し気分が落ち込んでいた。言ってしまえば、少し夢見が悪かったような…そんな気がする程度の違いだ。
その程度の違いに気がつく程、アレクシスは俺をよく見ていると思えば嬉しい。でも、こればかりはどうしようもない。
(過去は、変えようがないしな)
「大丈夫だから、仕事行こ」
「…うん」
納得していない。でも休ませる程の何かがあると確信を持っている訳でもない。
そんな気持ちが表情に出ているアレクシスに、ユークリッドは手を握って引っ張った。
───ランスロットの侍従が呼び出しに来たのは、昼前の事だ。
ユークリッドだけに用があると聞いて一人でランスロットの執務室に向かうと、二人の兄は揃って難しい顔をしていた。
…ランスロットは相変わらず無表情だけど、空気がなんとなくヴィルヘルムと同じ気がした。
「ユークリッドに面会を希望する者が居る」
「面会?」
城の中に居る知り合いだったら面会の申し出など必要ないし、社交経験も乏しいユークリッドに城外で知り合いらしい知り合いも居ない。
誰だろうと思いつつ、嫌な予感に胸の奥はざわめき始めた。
少しの間を置いて、ランスロットは口を開く。
「───フリードリヒ・ロズウェルだ。」
落葉が目立ち始めた庭園の一角で、少ないながらも咲いている花を眺めている背中に声をかけるのはユークリッドにとって少しばかり勇気のいる事だった。
「フリードリヒお兄様」
自分と同じ色をした髪をキッチリとセットした兄が振り返る。兄弟の中で、唯一瞳の色を父から受け継いだフリードリヒの瞳は赤い。
少し吊り目で厳しい印象を与えがちなロズウェル家の長男は、未来の子爵として領地経営に熱心な忙しい人だった。
「…お待たせ、しました。」
オーグストと会った時の記憶はまだ新しく、警戒心を持ちながらその赤い瞳を見つめていると
その瞳はすぐに伏せられ、ユークリッドと同じ髪色の頭は低い位置へと下がって行った。
「───急な面会の要請を承諾下さり、感謝致します。ユークリッド殿下」
身構えていたユークリッドは困惑した。かつて兄だったその人の態度に。
ロズウェル家の人間はユークリッドを見下していると信じていたから
膝をついて最敬礼する兄の姿は信じ難いものでしかなかった。
「子爵位の剥奪が決定した。ロズウェル家は全員平民となり…薬師として名高い一人の平民が、新たに爵位を賜るそうだ。
ロズウェル領は土壌が豊かだからその薬師の領地へと変更されるだろう。」
「…父と母は」
「親戚中を駆け回って、受け入れ先を探している最中だ。」
庭園の東屋でフリードリヒとお茶をする事になったのは、ランスロット達が警戒していたからだ。
見えない所に騎士を配置して監視された状態のお茶会は、守られる側のユークリッドでさえ居心地が悪いのに
兄は気付いていないのか特に気にせずお茶の味をゆっくりと楽しんでいた。
淡々と状況説明をしながら「飲み納めするには素晴らしい紅茶すぎるな」と小さく漏らすフリードリヒに、なんて声をかけたら良いか分からない。
…ちなみに、丁寧な言葉遣いに関しては「かえって気を使うから普通に話したい」とユークリッドから断った。
「フリードリヒお兄様は、どうなさる予定で…」
「私は新しく領地を治める薬師の補佐としてしばらく残る。領地の引き継ぎが終わり次第出て行く予定なので旧ロズウェルの邸宅を出るのは私が最後だな。」
「……それで、私の所にはどうして」
こくりとまたひと口、お茶を飲んで。
フリードリヒは感情の見えない目線を真っ直ぐにユークリッドに向けた。
「オーグストがまだ城の牢屋に居る。
既に除籍こそされているが、いざ牢屋を出てロズウェル領に助けを求めたら迷惑がかかるだろう。それで事実を伝えに来たが…
ユークリッドにも、最後に会ってみようと思ったまでだ。」
「……」
──気まぐれで会いに来た。そう言われたも同然だが、ユークリッドにはその気まぐれが無ければ何も知らされなかった。
子爵位剥奪ともあれば間違いなくランスロットは絡んでいるし、きっと、アレクシスも知っているだろう。
オーグストが今も牢屋の中にいる事すら知らなかった。
王族に婿入りしたところで、ユークリッドはただ保護対象として囲われているだけの存在だったのだと、よくない解釈をしてしまう。
「………本当に、知らなかったのだな。わざと現状を聞いたのかとも思ったが」
「わざとなんて…なにも、知りませんでした。城の中の事でさえ」
「…」
素直に落ち込むユークリッドを見て、少し考えるようにフリードリヒの目が伏せられる。
きっと、色々考えてから発言するタイプなのだろう。ユークリッドは今まで関わった事のなかった長男が、どこかランスロットに似ていると思った。
「話は戻りますが…フリードリヒお兄様は、領地を出たらどうなさるのですか?」
「そうだな…剣ひとつ握ったことはないが、鍬を上手く扱えるだろうかと心配はしている」
「……鍬?」
「土を耕す道具だ。」
そんな事は知っている。まさかの農民になろうという選択肢に驚いているのだ。
ユークリッドの表情を見て察したフリードリヒは、ティーカップを置いて東屋から見える景色を眺める。
「平民として生きる事が決まって、考えたのだ。自分の生き方を。
───私は、後継者として生きていた。むしろそれしか知らない。だからどこで生きようと、きっと同じことだ。何も出来ない人間でしかない」
フリードリヒは景色を見ているようで、もっと遠くに視線を向けている。
きっと、領地を思い出している。
「…ロズウェル領は特徴のない、狭い領地だ。ただ土壌は豊かで気候も安定しやすい。
領民は畑を耕し、野菜を育て、加工し、売る。大した利益にならずとも、飢えることなく生活ができる。
私は領地を仕切り、更なる繁栄を目指さねばならぬ立場だが…領民達が餓える事だけはないロズウェル領を、そのままでも幸せだと思うくらいには愛していた。
だから、同じ目線に立ちたいと思う」
ユークリッドの心が、ズキンと痛みを訴えた。
「…そんなに好きな場所だったのに…俺のせいで、全てを失ったんだ」
やはり、フリードリヒがランスロットに似ていると思ったのは間違いじゃなかった。そう確信して、もっと心が傷んだ。
兄も守りたいものを守るために立ち続けた人なんだ。
(俺があの日、もっとちゃんと立ち回れてたら…)
確かにユークリッドはロズウェル家で冷遇されて育ったが、全てが敵かといえば、そう言い切れない。
関わりの無かったフリードリヒは、ただ領地だけを愛していて他に全く関心がなかったのだと知ってしまった。
自分が好きな居場所を奪う側になってしまったとショックを受けたユークリッドの心境に対して、フリードリヒは涼しい顔で首を傾げた。
「いいや?私が関心を持たなすぎたのだ。間違えたから、今の結果に繋がった。
確かにユークリッドの除籍が切っ掛けにはなったかもしれない。
それでも父が爵位剥奪を受ける程の不正を働いていたのは事実であり、偶然そのタイミングで露呈しただけとも言える。」
──私は運がいい。このような状況でも領地の引き継ぎだけは許されたのだから。
そう続けたフリードリヒがふんわりと笑顔になり、領民に思いを馳せている姿を見て
ユークリッドはぽかんとその姿を見つめるしか出来なかった。
「フリードリヒお兄様は強いのですね」
「腕力はない。…が、そうだな。精神は常に強くあらねばと心掛けている。」
「…環境が違ったら、仲良くなれたかもしれないのに」
つい。ぽつりと。
フリードリヒという人間に好感を持ったユークリッドの心が、痛みに逃げるように血の繋がった兄という存在に縋り付いた。
冷たい家庭だったけど、それでも全て切り捨てたいと思った訳じゃなかったし
自分の知らないところで全てが終わっていた事実に不満を抱いてしまった。
その不満がユークリッドをぽつんと孤立させたような気持ちになった。
「現実逃避はよくないな。」
「え…」
「過ぎ去った時は戻らないように、変えることも出来ない。もしも過去が変わったとしたら、それは歪められた記憶だ。
ありもしない過去に期待して、私を許してはならない。」
「…許してなんか、ないです」
口ではそう言うものの、確かにユークリッドは目の前の兄を許そうとしてしまっていた。仲良くなりたいと願ってしまった。
それを察しているフリードリヒも、小さくため息をついて今や自分より地位の高すぎる弟に続けて話した。
「私は家族と一緒にユークリッドを冷遇した。そして家族は大きな罪を犯した。その責任をとろうとしているところだ。
ロズウェルの名を既に捨てたユークリッドには、関係の無い話だ。」
だから仲良くしようと、付け入る隙を与えてくれるな。
そう言外に込めてフリードリヒは突き放した。
フリードリヒがティーカップに再び手を伸ばしたが、そのカップは空だった。すぐに指は離れて腿の上へと添えられた。
「…そろそろ時間だな。オーグストには午前中に面会を済ませたから、これから領地に帰る。…わざわざ時間を割いてもらって…」
「っ兄様、もうひとつ、お伺いしたいことが」
「…なんだ?」
帰りの挨拶をしようとするフリードリヒに、ティーポットを手に持ったユークリッドが身を乗り出してそれを遮った。
「社交界で兄様達は粗暴だと有名です。オーグストお兄様は正直納得というか……でもフリードリヒお兄様はあまりにもかけ離れているのですが」
「あぁ、それか」
問答無用で紅茶が注がれるカップを眺めて、事も無げにフリードリヒは上がりかけた腰を下ろした。
「私が男爵家の子息を殴ったことがあるからだ。
…まぁ、こちらの手の方が負傷して二週間はペンを握るのも大変だったが」
会話の内容はどうあれ。
どうしても、初めてと言ってもいい兄との団欒の時間を終わらせたくなかったユークリッドが苦し紛れにした質問に対する答えは
フリードリヒという兄が更に分からなくなるものだった。
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