10 / 12
ふたつ目の記憶
しおりを挟む
スーパーの駐車場が消えて、また穴ぐらだ。
「これで三つの願いの一つは聞いたぞ。さて、次はいつの日が希望だ」
「三つの願いって、まるでおとぎ話だなあ。すぐに言えといったって、思い出したくない話ならいくらでもあるんだけど、そんなに頼んでまで思い出したいような話ってなかなかないぞ。最近じゃあ今の話が一番気にかかってたことだ」
「じゃあ、これで終わり!」
「待て待て、せっかくだよ。そう言えば、以前も母さんの声を聞いたような記憶があるんだ。そうだ、去年オレが一発逆転サヨナラ満塁ランニングホームランを打った時だ。スカッとした一発だったんだ。うちのチームが苦手だった川西ジャガーズを、オレの一発でやっつけたんだぜ」
「ああ、お前が六年生の八月八日だったな。この島に帰る予定の前日だった」
「よくわかるなあ。お盆前のことだった。もうすぐお盆だなって、父さんと話してたんだ。でも、去年はこの島へ帰ってこれなかったんだ」
朝から暑い日だった。ヨシキがバッターボックスに立っている。最終回、相手チームのピッチャーは絶好調で、これまで完全に押さえ込まれていた。ところが、突然コントロールが悪くなって、三人続けてフォアボール。ここでヨシキだ。
「ようし、ここでヒットを打てばヒーローだ。絶対打ってやるぞ」
ところが、ピッチャーも必死だ。一球目、まっすぐのどストライク。思いっきり腕を振り上げたかと思ったら、もうキャッチャーのミットにボールが来ている。ほら速いだろう。映像で見ても、ビュン!と音を立てて目の前を通っていくじゃないか。きっと最後の力を振り絞ったんだよ、今日一番の剛速球だ。
「ほんと、今見ても速いよな。こりゃあ打てんわ!」
二球目、「来た!」
さっきと同じコースの剛速球。負けずに、まっすぐバットを振り切った。空振りだ。
「今のを見たか?球が通った後からバットを振ってるよ。かすりもしない」
ちくしょう、ピッチャーのやつ、どうだ!打てないだろう、って顔をしてるぞ。
きっと自信満々、今度も同じ剛速球で勝負してくるに違いない、そう思ったんだ。
「負けるものか。さっきよりちょっと早めにバットを振ればいいんだ」
そう思ってピッチャーをにらみつけた。
「ほら来たっ!やっぱり来たぞ、まっすぐの剛速球だ」
カキーン、いい音!
ぐんぐん飛んでいく。ベンチのみんながぐるぐる手を振って、歓声を上げている。センターを越えて一体どこまで飛んでいくんだ。ゆっくりベースを一周回りきってホームインだ。相手の外野手がやっとグランドの端っこまで追いついていって、ようやっとボールを投げ返した。
「どんなもんだい!」
いい気持ちだ。みんながヒーローを迎えに出ている。
ベンチ前に並んだみんなとハイタッチ・・・・
「いっすん坊さん、なかなか映像の切り貼りがうまいじゃないか。ほらオレ、スキップしながらみんなの方に走ってる」
でもそこから先の記憶がない。
みんなから祝福されてせっかくのいい思い出だった。そのはずなのに、記憶が吹っ飛んでいる。これから先はどうなったんだ。じっくりと映像を見て確認するぞ。
「オレ、えらくはしゃいじゃって、跳ね回りながらベンチに向かっているな」
ここまでは覚えている通りだ。
でも、出迎えのハイタッチはまだ先だ。ベンチの手前で、次のバッターの竹下が素振りをしていた。そこへまっすぐオレが走っていく。スキップしながらおどけて走って、その素振りのバットがまともに顔面をとらえた。そんなこと、全く目に入ってなかった。うれしくてうれしくて、飛び跳ねながらまっすぐ突進したんだ。当然バットがオレの顔面を打ち返した。
「カキーン、ガツーン」
その後記憶が切れてしまった。何も見えない。何も感じない。
しばらくして、なんか雑音が聞こえてくる。消毒臭い。その匂いに刺激されながら、だんだんと意識が戻ってきた。病院のベッドの上だった。
「目が開いたぞ。ヨシキの目が開いた!」
「えっ!ヨッちゃん、わかる?わかるかね」
父さんと横浜のおばちゃんの顔がのぞき込む。
「おまえ、一日中意識が戻らなかったんだぞ」
えっ!オレ一日ずっと寝てたのか?
なんかすごくまぶしい世界だ。頭がぼーっとして痛い。鼻も痛い。痛いというか鼻の穴が詰まって息ができないというか、そういえばエアマスクが着いている。
「そりゃあ鼻をしこたまぶっつけたんだからなあ。あのとき、球よりも速く自分からバットにぶつかって行ったんだから」
スポ少の監督が言った。
「ごめんよ。本当にごめん。ヨシキくんごめんなさい」
竹下だ。何度も何度も頭を下げて、涙を流して謝っている。
なんで謝るんだ。そうか、竹下の振ったバットが当たったんだ。
『でも、それはオレの不注意でお前のせいじゃないよ』
竹下は、ネクストバッターボックスで素振りをしていただけだ。逆転サヨナラだから、余計な素振りではあったんだが、いつもコツコツ練習する竹下らしいじゃないか。オレがはしゃぎすぎたんだ。
『竹下、お前は悪くない。オレが悪いんだ。はしゃぎすぎたオレが悪いんだよ』
そうか、竹下がいつも優しいのはこれからなんだ。
「えっと、今年は昭和何年だ。いや、大正なのか?明治じゃないよな。一体今、オレは何歳なんだ?サーティー?いや、サーティーン?」
「えっ、言ってることがわけわからない。記憶そう失?頭がおかしくなったんじゃないの。ヨッちゃんおばちゃんのこと見える?だれかわかるかしら」
『わかるよ、川内のおばちゃんだろ。いつもおしゃべりなおばちゃんだ。なんでここにいるんだよ』
母さんの妹だ。今は横浜に住んでいる。
「まだしばらくは安静にしてあげてくださいね。あまりしゃべりかけないほうがいいですよ。少しずつ記憶も回復してきますから」
看護師さんがそばから声を掛けた。
『そうか、オレ一日中眠ってたんだ。でも、まだなんか眠いなあ』
また眼をつぶった。
そのまま周りが静かになった。静かだ。だれも居なくなったみたいだ。ひとりぼっちだ。
そう言えば、意識を失ってた間も、周りで何か声が聞こえていた。川内のおばちゃんと父さんかなと思った。なんか言い合ってるような声だった。
「孝さん、お願い。お願いだから一緒にいっすん坊さまにお願いして」
あれ?おばちゃんじゃないぞ。似てるけど違う。
母さんだ。やっぱり母さんの声だよ。
「そりゃ無茶だ。第一、今が一番危ない良樹をここに置いて、高洲島まで帰れないだろ」
「でも今なのよ。今が一番危ないんだわ。だから、二人でいっすん坊さまにお願いするの。この子のためなのよ、お願い」
「医者も五分五分だと言っているんだ。そばに付いていてやるしかないよ。あとは良樹の運を信じよう」
「わかったわ。じゃあいい。私一人でもお願いする。絶対この子を死なせない」
懐かしい声だ。
『母さんだよ。優しい母さんの声だよ』
母さんが泣きながら言っている。一生懸命、父さんに頼んでいるんだ。そうだよ、あのとき確かに母さんの声が聞こえたんだ。絶対に母さんの声だったんだ。
『ひょっとしてオレ、死んでたのか?』
静かになった。人の気配がない。ずっと静かだ。やけに静かだ。
どれだけ続いたか。
「ヨッちゃん、ヨッちゃん。だいじょうぶなの?だいじょうぶなのね。痛かったね、もうだいじょうぶだからね。あんたは死なないわよ。もうだいじょうぶ。いっすん坊さまの所へ行ってきたからね。絶対死なない。死なせるもんですか。これからも、ずっとずっと元気でがんばってね。お願いよ。生きるのよ」
それから、しばらくは、そばに母さんがいてくれた。間違いない。ずっとオレのことを見ていてくれたんだ。そんな気配を感じながら、オレは眠り続けていたんだ。
「痛かった。とんでもなく痛かったんだ。またあのときの痛みが再現されるとは思わなかったな。あの時は人生が終わるかってなくらい、痛い思いをした。でも、なんかいい気持ちだったんだよな。母さんが久しぶりにオレのこと、抱きしめてくれたんだ。ふんわかしたやさしい腕の中で、とても楽しい気持ちになったんだ」
「おまえはいい思い出と思っているのかもしれないが、このときがおまえの人生一番の危機だったんじゃ。お母ちゃんが私の記録を書きかえるような、とんでもないことをしでかしたんじゃから」
「そうよ、あなたは本当にけがが多いんだから。いつもハラハラするわよ。もっと気をつけなさい」
いっすん坊とユキちゃんが口をはさむ。ユキちゃんが涙を流している。泣いている。
『ユキちゃん、何で?』
小学生のころはいっぱいけがをした。傷だらけの人生だ。四年生の時だった。体育の時間、跳び箱で友だちが
「オレ、五段まで平気で跳べるよ」
って言ったから、
「なんだ、それくらい。五段なんてオレなんか片手で跳んでやらあ」
そんなことを言って右手を着いてふわりと跳んだ。でも着いた右手がすべって、ズデン。跳び箱の下に真っ逆さまだ。下にマットが敷いてあったから良かったけど、脱臼してしばらく右腕を三角巾で固定していた。
「あの時は大変だったんだ。字は書けないし、オレ勉強はきらいだからそれはいいんだけど、ハシが持てないのがさ。左手じゃあ手で持って食えるものしか食べれないんだ。風呂にしたって歯磨きにしたってさ。利き手が使えないのってとても不便なんだ」
そう言えば、三年生の時は自転車をぶつけておでこをしこたま打った。
「自転車に乗れるようになったばかりでうれしかったんだ。補助輪を外して、だれにも助けてもらわなくても自転車をこげるようになった。それが自慢で、友だちと三人でレースをしたんだ。小学校の前をスタートして、坂道を登り切って、エス字カーブをスイスイ走って、そこまではダントツの先頭だった。でも、そこからまっすぐの下り坂。友だちが追いついてきた。負けてられない。ちょっと無茶をした。思いっきりペダルをふんだんだ。スピード違反だよ。前から軽トラが上ってくる。狭い坂道なんだぞ。ヨロっとよろけたとたんに縁石にドカン。ハンドルにおでこをガツンとぶっつけた。左目のすぐ上だ。血がものすごく目の前を流れ落ちた」
びっくりした友だちが近くのおばさんに
「ヨシキの目がつぶれた。目からいっぱい血が出ている」
と言って、救急車を呼んでくれた。
「あの時、オレも本当に目がつぶれたと思ったんだ。でも、まゆげのすぐ上の傷口を縫ってもらって、それで治療は終わった。その傷跡がちょっと残ってるけど、目はふつうに見えてるよ。オレって運がいいんだな」
「運がいいじゃないわよ。本当に危ないったらありゃしないんだから」
またユキちゃんが言う。まるで母さんみたいな口ぶりだ。
でも、あの時も母さんの声がしたような気がするな。
「危ないっ!」て叫んでた。
母さん、ひょっとしていつもそばにいるんじゃないか?いるんなら出て来いよ。
「ああ、なんか母さんに会いたくなったな。とても会いたくなった」
「よし。それじゃあ、お母さんの元気なときに映像を切り替えるぞ」
「これで三つの願いの一つは聞いたぞ。さて、次はいつの日が希望だ」
「三つの願いって、まるでおとぎ話だなあ。すぐに言えといったって、思い出したくない話ならいくらでもあるんだけど、そんなに頼んでまで思い出したいような話ってなかなかないぞ。最近じゃあ今の話が一番気にかかってたことだ」
「じゃあ、これで終わり!」
「待て待て、せっかくだよ。そう言えば、以前も母さんの声を聞いたような記憶があるんだ。そうだ、去年オレが一発逆転サヨナラ満塁ランニングホームランを打った時だ。スカッとした一発だったんだ。うちのチームが苦手だった川西ジャガーズを、オレの一発でやっつけたんだぜ」
「ああ、お前が六年生の八月八日だったな。この島に帰る予定の前日だった」
「よくわかるなあ。お盆前のことだった。もうすぐお盆だなって、父さんと話してたんだ。でも、去年はこの島へ帰ってこれなかったんだ」
朝から暑い日だった。ヨシキがバッターボックスに立っている。最終回、相手チームのピッチャーは絶好調で、これまで完全に押さえ込まれていた。ところが、突然コントロールが悪くなって、三人続けてフォアボール。ここでヨシキだ。
「ようし、ここでヒットを打てばヒーローだ。絶対打ってやるぞ」
ところが、ピッチャーも必死だ。一球目、まっすぐのどストライク。思いっきり腕を振り上げたかと思ったら、もうキャッチャーのミットにボールが来ている。ほら速いだろう。映像で見ても、ビュン!と音を立てて目の前を通っていくじゃないか。きっと最後の力を振り絞ったんだよ、今日一番の剛速球だ。
「ほんと、今見ても速いよな。こりゃあ打てんわ!」
二球目、「来た!」
さっきと同じコースの剛速球。負けずに、まっすぐバットを振り切った。空振りだ。
「今のを見たか?球が通った後からバットを振ってるよ。かすりもしない」
ちくしょう、ピッチャーのやつ、どうだ!打てないだろう、って顔をしてるぞ。
きっと自信満々、今度も同じ剛速球で勝負してくるに違いない、そう思ったんだ。
「負けるものか。さっきよりちょっと早めにバットを振ればいいんだ」
そう思ってピッチャーをにらみつけた。
「ほら来たっ!やっぱり来たぞ、まっすぐの剛速球だ」
カキーン、いい音!
ぐんぐん飛んでいく。ベンチのみんながぐるぐる手を振って、歓声を上げている。センターを越えて一体どこまで飛んでいくんだ。ゆっくりベースを一周回りきってホームインだ。相手の外野手がやっとグランドの端っこまで追いついていって、ようやっとボールを投げ返した。
「どんなもんだい!」
いい気持ちだ。みんながヒーローを迎えに出ている。
ベンチ前に並んだみんなとハイタッチ・・・・
「いっすん坊さん、なかなか映像の切り貼りがうまいじゃないか。ほらオレ、スキップしながらみんなの方に走ってる」
でもそこから先の記憶がない。
みんなから祝福されてせっかくのいい思い出だった。そのはずなのに、記憶が吹っ飛んでいる。これから先はどうなったんだ。じっくりと映像を見て確認するぞ。
「オレ、えらくはしゃいじゃって、跳ね回りながらベンチに向かっているな」
ここまでは覚えている通りだ。
でも、出迎えのハイタッチはまだ先だ。ベンチの手前で、次のバッターの竹下が素振りをしていた。そこへまっすぐオレが走っていく。スキップしながらおどけて走って、その素振りのバットがまともに顔面をとらえた。そんなこと、全く目に入ってなかった。うれしくてうれしくて、飛び跳ねながらまっすぐ突進したんだ。当然バットがオレの顔面を打ち返した。
「カキーン、ガツーン」
その後記憶が切れてしまった。何も見えない。何も感じない。
しばらくして、なんか雑音が聞こえてくる。消毒臭い。その匂いに刺激されながら、だんだんと意識が戻ってきた。病院のベッドの上だった。
「目が開いたぞ。ヨシキの目が開いた!」
「えっ!ヨッちゃん、わかる?わかるかね」
父さんと横浜のおばちゃんの顔がのぞき込む。
「おまえ、一日中意識が戻らなかったんだぞ」
えっ!オレ一日ずっと寝てたのか?
なんかすごくまぶしい世界だ。頭がぼーっとして痛い。鼻も痛い。痛いというか鼻の穴が詰まって息ができないというか、そういえばエアマスクが着いている。
「そりゃあ鼻をしこたまぶっつけたんだからなあ。あのとき、球よりも速く自分からバットにぶつかって行ったんだから」
スポ少の監督が言った。
「ごめんよ。本当にごめん。ヨシキくんごめんなさい」
竹下だ。何度も何度も頭を下げて、涙を流して謝っている。
なんで謝るんだ。そうか、竹下の振ったバットが当たったんだ。
『でも、それはオレの不注意でお前のせいじゃないよ』
竹下は、ネクストバッターボックスで素振りをしていただけだ。逆転サヨナラだから、余計な素振りではあったんだが、いつもコツコツ練習する竹下らしいじゃないか。オレがはしゃぎすぎたんだ。
『竹下、お前は悪くない。オレが悪いんだ。はしゃぎすぎたオレが悪いんだよ』
そうか、竹下がいつも優しいのはこれからなんだ。
「えっと、今年は昭和何年だ。いや、大正なのか?明治じゃないよな。一体今、オレは何歳なんだ?サーティー?いや、サーティーン?」
「えっ、言ってることがわけわからない。記憶そう失?頭がおかしくなったんじゃないの。ヨッちゃんおばちゃんのこと見える?だれかわかるかしら」
『わかるよ、川内のおばちゃんだろ。いつもおしゃべりなおばちゃんだ。なんでここにいるんだよ』
母さんの妹だ。今は横浜に住んでいる。
「まだしばらくは安静にしてあげてくださいね。あまりしゃべりかけないほうがいいですよ。少しずつ記憶も回復してきますから」
看護師さんがそばから声を掛けた。
『そうか、オレ一日中眠ってたんだ。でも、まだなんか眠いなあ』
また眼をつぶった。
そのまま周りが静かになった。静かだ。だれも居なくなったみたいだ。ひとりぼっちだ。
そう言えば、意識を失ってた間も、周りで何か声が聞こえていた。川内のおばちゃんと父さんかなと思った。なんか言い合ってるような声だった。
「孝さん、お願い。お願いだから一緒にいっすん坊さまにお願いして」
あれ?おばちゃんじゃないぞ。似てるけど違う。
母さんだ。やっぱり母さんの声だよ。
「そりゃ無茶だ。第一、今が一番危ない良樹をここに置いて、高洲島まで帰れないだろ」
「でも今なのよ。今が一番危ないんだわ。だから、二人でいっすん坊さまにお願いするの。この子のためなのよ、お願い」
「医者も五分五分だと言っているんだ。そばに付いていてやるしかないよ。あとは良樹の運を信じよう」
「わかったわ。じゃあいい。私一人でもお願いする。絶対この子を死なせない」
懐かしい声だ。
『母さんだよ。優しい母さんの声だよ』
母さんが泣きながら言っている。一生懸命、父さんに頼んでいるんだ。そうだよ、あのとき確かに母さんの声が聞こえたんだ。絶対に母さんの声だったんだ。
『ひょっとしてオレ、死んでたのか?』
静かになった。人の気配がない。ずっと静かだ。やけに静かだ。
どれだけ続いたか。
「ヨッちゃん、ヨッちゃん。だいじょうぶなの?だいじょうぶなのね。痛かったね、もうだいじょうぶだからね。あんたは死なないわよ。もうだいじょうぶ。いっすん坊さまの所へ行ってきたからね。絶対死なない。死なせるもんですか。これからも、ずっとずっと元気でがんばってね。お願いよ。生きるのよ」
それから、しばらくは、そばに母さんがいてくれた。間違いない。ずっとオレのことを見ていてくれたんだ。そんな気配を感じながら、オレは眠り続けていたんだ。
「痛かった。とんでもなく痛かったんだ。またあのときの痛みが再現されるとは思わなかったな。あの時は人生が終わるかってなくらい、痛い思いをした。でも、なんかいい気持ちだったんだよな。母さんが久しぶりにオレのこと、抱きしめてくれたんだ。ふんわかしたやさしい腕の中で、とても楽しい気持ちになったんだ」
「おまえはいい思い出と思っているのかもしれないが、このときがおまえの人生一番の危機だったんじゃ。お母ちゃんが私の記録を書きかえるような、とんでもないことをしでかしたんじゃから」
「そうよ、あなたは本当にけがが多いんだから。いつもハラハラするわよ。もっと気をつけなさい」
いっすん坊とユキちゃんが口をはさむ。ユキちゃんが涙を流している。泣いている。
『ユキちゃん、何で?』
小学生のころはいっぱいけがをした。傷だらけの人生だ。四年生の時だった。体育の時間、跳び箱で友だちが
「オレ、五段まで平気で跳べるよ」
って言ったから、
「なんだ、それくらい。五段なんてオレなんか片手で跳んでやらあ」
そんなことを言って右手を着いてふわりと跳んだ。でも着いた右手がすべって、ズデン。跳び箱の下に真っ逆さまだ。下にマットが敷いてあったから良かったけど、脱臼してしばらく右腕を三角巾で固定していた。
「あの時は大変だったんだ。字は書けないし、オレ勉強はきらいだからそれはいいんだけど、ハシが持てないのがさ。左手じゃあ手で持って食えるものしか食べれないんだ。風呂にしたって歯磨きにしたってさ。利き手が使えないのってとても不便なんだ」
そう言えば、三年生の時は自転車をぶつけておでこをしこたま打った。
「自転車に乗れるようになったばかりでうれしかったんだ。補助輪を外して、だれにも助けてもらわなくても自転車をこげるようになった。それが自慢で、友だちと三人でレースをしたんだ。小学校の前をスタートして、坂道を登り切って、エス字カーブをスイスイ走って、そこまではダントツの先頭だった。でも、そこからまっすぐの下り坂。友だちが追いついてきた。負けてられない。ちょっと無茶をした。思いっきりペダルをふんだんだ。スピード違反だよ。前から軽トラが上ってくる。狭い坂道なんだぞ。ヨロっとよろけたとたんに縁石にドカン。ハンドルにおでこをガツンとぶっつけた。左目のすぐ上だ。血がものすごく目の前を流れ落ちた」
びっくりした友だちが近くのおばさんに
「ヨシキの目がつぶれた。目からいっぱい血が出ている」
と言って、救急車を呼んでくれた。
「あの時、オレも本当に目がつぶれたと思ったんだ。でも、まゆげのすぐ上の傷口を縫ってもらって、それで治療は終わった。その傷跡がちょっと残ってるけど、目はふつうに見えてるよ。オレって運がいいんだな」
「運がいいじゃないわよ。本当に危ないったらありゃしないんだから」
またユキちゃんが言う。まるで母さんみたいな口ぶりだ。
でも、あの時も母さんの声がしたような気がするな。
「危ないっ!」て叫んでた。
母さん、ひょっとしていつもそばにいるんじゃないか?いるんなら出て来いよ。
「ああ、なんか母さんに会いたくなったな。とても会いたくなった」
「よし。それじゃあ、お母さんの元気なときに映像を切り替えるぞ」
0
あなたにおすすめの小説
ノースキャンプの見張り台
こいちろう
児童書・童話
時代劇で見かけるような、古めかしい木づくりの橋。それを渡ると、向こう岸にノースキャンプがある。アーミーグリーンの北門と、その傍の監視塔。まるで映画村のセットだ。
進駐軍のキャンプ跡。周りを鉄さびた有刺鉄線に囲まれた、まるで要塞みたいな町だった。進駐軍が去ってからは住宅地になって、たくさんの子どもが暮らしていた。
赤茶色にさび付いた監視塔。その下に広がる広っぱは、子どもたちの最高の遊び場だ。見張っているのか、見守っているのか、鉄塔の、あのてっぺんから、いつも誰かに見られているんじゃないか?ユーイチはいつもそんな風に感じていた。
ぽんちゃん、しっぽ!
こいちろう
児童書・童話
タケルは一人、じいちゃんとばあちゃんの島に引っ越してきた。島の小学校は三年生のタケルと六年生の女子が二人だけ。昼休みなんか広い校庭にひとりぼっちだ。ひとりぼっちはやっぱりつまらない。サッカーをしたって、いつだってゴールだもん。こんなにゴールした小学生ってタケルだけだ。と思っていたら、みかん畑から飛び出してきた。たぬきだ!タケルのけったボールに向かっていちもくさん、あっという間にゴールだ!やった、相手ができたんだ。よし、これで面白くなるぞ・・・
童話絵本版 アリとキリギリス∞(インフィニティ)
カワカツ
絵本
その夜……僕は死んだ……
誰もいない野原のステージの上で……
アリの子「アントン」とキリギリスの「ギリィ」が奏でる 少し切ない ある野原の物語 ———
全16話+エピローグで紡ぐ「小さないのちの世界」を、どうぞお楽しみ下さい。
※高学年〜大人向き
クールな幼なじみの許嫁になったら、甘い溺愛がはじまりました
藤永ゆいか
児童書・童話
中学2年生になったある日、澄野星奈に許嫁がいることが判明する。
相手は、頭が良くて運動神経抜群のイケメン御曹司で、訳あって現在絶交中の幼なじみ・一之瀬陽向。
さらに、週末限定で星奈は陽向とふたり暮らしをすることになって!?
「俺と許嫁だってこと、絶対誰にも言うなよ」
星奈には、いつも冷たくてそっけない陽向だったが……。
「星奈ちゃんって、ほんと可愛いよね」
「僕、せーちゃんの彼氏に立候補しても良い?」
ある時から星奈は、バスケ部エースの水上虹輝や
帰国子女の秋川想良に甘く迫られるようになり、徐々に陽向にも変化が……?
「星奈は可愛いんだから、もっと自覚しろよ」
「お前のこと、誰にも渡したくない」
クールな幼なじみとの、逆ハーラブストーリー。
あだ名が242個ある男(実はこれ実話なんですよ25)
tomoharu
児童書・童話
え?こんな話絶対ありえない!作り話でしょと思うような話からあるある話まで幅広い範囲で物語を考えました!ぜひ読んでみてください!数年後には大ヒット間違いなし!!
作品情報【伝説の物語(都道府県問題)】【伝説の話題(あだ名とコミュニケーションアプリ)】【マーライオン】【愛学両道】【やりすぎヒーロー伝説&ドリームストーリー】【トモレオ突破椿】など
・【やりすぎヒーロー伝説&ドリームストーリー】とは、その話はさすがに言いすぎでしょと言われているほぼ実話ストーリーです。
小さい頃から今まで主人公である【紘】はどのような体験をしたのかがわかります。ぜひよんでくださいね!
・【トモレオ突破椿】は、公務員試験合格なおかつ様々な問題を解決させる話です。
頭の悪かった人でも公務員になれることを証明させる話でもあるので、ぜひ読んでみてください!
特別記念として実話を元に作った【呪われし◯◯シリーズ】も公開します!
トランプ男と呼ばれている切札勝が、トランプゲームに例えて次々と問題を解決していく【トランプ男】シリーズも大人気!
人気者になるために、ウソばかりついて周りの人を誘導し、すべて自分のものにしようとするウソヒコをガチヒコが止める【嘘つきは、嘘治の始まり】というホラーサスペンスミステリー小説
生贄姫の末路 【完結】
松林ナオ
児童書・童話
水の豊かな国の王様と魔物は、はるか昔にある契約を交わしました。
それは、姫を生贄に捧げる代わりに国へ繁栄をもたらすというものです。
水の豊かな国には双子のお姫様がいます。
ひとりは金色の髪をもつ、活発で愛らしい金のお姫様。
もうひとりは銀色の髪をもつ、表情が乏しく物静かな銀のお姫様。
王様が生贄に選んだのは、銀のお姫様でした。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる