3 / 19
3
しおりを挟む
婚姻の正式な書面が交わされたその夜、ミレナシアの部屋には灯りが落ちていた。
窓辺に立ち、彼女はそっと夜空を仰ぐ。
王都の空は静かで、遠くに灯る街の明かりがまるで星のように瞬いている。
その穏やかさに似つかわしくない感情が、姫の心に嵐を起こしていた。
──いやもうほんとに何一つ納得は出来ないのですけれど。
白い結婚。白い。契約。仮の。形だけの期限付きの。
それでいて、彼は夫になってしまったのだ。
(なんて複雑な気持ちなのかしら)
昼間の言葉が、何度も脳裏に浮かんだ。
――白い結婚。
――干渉せず。
――身に余る。
ひとつひとつが、心を削る刃のようで。
それでも、ミレナシアは唇に微笑を浮かべた。
「……わたくし、泣かないわ」
そう呟いて、自分の胸に手を当てた。
彼が決して自分を軽んじたのではないことを、どこかで分かっていた。
ミレナシアとて、彼を困らせたいわけではないのだ。
あの人は、自分を守るように距離を取った。
まじめで、忠実で、優しすぎるほどの人。
(でしたら、わたくしも……)
彼の誇りを、居場所を、そして――心を。
守らなければならない。
そう決意して、ミレナシアは深く息を吸い込んだ。
春の風が窓から吹き込み、金色の髪をやわらかく揺らした。
その目にはもう、迷いはなかった。
***
一方、騎士団本部の執務室では、カインが机に向かっていた。
手元の羊皮紙には「結婚契約」の文字。
整った筆跡で署名を終えると、ふと手が止まった。
窓の外では、夜の鐘が遠く鳴っている。
(……姫様、か)
名を頭の中で反芻しただけで、胸の奥が熱くなった。
彼にとって、姫は憧れなどという言葉では足りなかった。
己の生涯をかけても届かぬ存在。
白い花を手にしたかの、戦場で見る幻のような――そんな存在だった。
あの日。
刃が降り下ろされた瞬間に、彼女を庇ったのはそうするための護衛だからだ。
当然のように迷いはなく、自らに課せられた責務を果たすのみ。
……返した刃の切っ先が深く相手に入り、カインの鎧は血を浴びた。
恐れさせてしまうだろうかと一瞬だけ振り返ったが、姫は涙を滲ませた青い顔で気丈に笑んだ。
それが、ずっと離れなかった。
だが彼は理解している。
姫は王の血を継ぐ人。
自分は、戦場を渡り歩く孤児上がりの兵士にすぎない。
「……白い結婚でいい」
彼は呟いた。
そうすれば、姫を傷つけずに済む。
彼女を穢さずにいられる。
夢のような三年を終えれば、きっと自分は潔く去れる――はずだった。
だが、どうしてか。
胸の奥で、淡い痛みが止まらなかった。
(……笑っておられた)
昼間の姫の笑顔を思い出す。
それが、どれほど無理をした笑顔だったのかを、彼は何故だか気が付いていた。
カインは眉をひそめ、そっと目を閉じた。
今まで目にしたどの笑顔よりも、彼の脳裏からは離れない。
もし、次に会うときもあの微笑で迎えられたら――
自分は、何を守りたくてこの距離を保つのだろう。
その問いが、心に小さな傷をつけていく。
***
翌朝、ミレナシアは侍女に伝える。
「ドレスは少し落ち着いた色を選びますわ。あの方の隣で浮いてしまわないように」
「姫様……」
「ふふ、大丈夫よ」
心の奥ではまだ痛みが残っている。
けれど、笑うことはできる。
だって三年の間――彼の隣に立てるのだから。
扉の外に出ると、朝の光がきらめいた。
ミレナシアはそっと呟いた。
「白い結婚でも、わたくしの想いまで色を失うわけではありませんわ」
柔らかな風が、彼女のスカートを揺らす。
その横顔に、涙の影は微かにもなかった。
窓辺に立ち、彼女はそっと夜空を仰ぐ。
王都の空は静かで、遠くに灯る街の明かりがまるで星のように瞬いている。
その穏やかさに似つかわしくない感情が、姫の心に嵐を起こしていた。
──いやもうほんとに何一つ納得は出来ないのですけれど。
白い結婚。白い。契約。仮の。形だけの期限付きの。
それでいて、彼は夫になってしまったのだ。
(なんて複雑な気持ちなのかしら)
昼間の言葉が、何度も脳裏に浮かんだ。
――白い結婚。
――干渉せず。
――身に余る。
ひとつひとつが、心を削る刃のようで。
それでも、ミレナシアは唇に微笑を浮かべた。
「……わたくし、泣かないわ」
そう呟いて、自分の胸に手を当てた。
彼が決して自分を軽んじたのではないことを、どこかで分かっていた。
ミレナシアとて、彼を困らせたいわけではないのだ。
あの人は、自分を守るように距離を取った。
まじめで、忠実で、優しすぎるほどの人。
(でしたら、わたくしも……)
彼の誇りを、居場所を、そして――心を。
守らなければならない。
そう決意して、ミレナシアは深く息を吸い込んだ。
春の風が窓から吹き込み、金色の髪をやわらかく揺らした。
その目にはもう、迷いはなかった。
***
一方、騎士団本部の執務室では、カインが机に向かっていた。
手元の羊皮紙には「結婚契約」の文字。
整った筆跡で署名を終えると、ふと手が止まった。
窓の外では、夜の鐘が遠く鳴っている。
(……姫様、か)
名を頭の中で反芻しただけで、胸の奥が熱くなった。
彼にとって、姫は憧れなどという言葉では足りなかった。
己の生涯をかけても届かぬ存在。
白い花を手にしたかの、戦場で見る幻のような――そんな存在だった。
あの日。
刃が降り下ろされた瞬間に、彼女を庇ったのはそうするための護衛だからだ。
当然のように迷いはなく、自らに課せられた責務を果たすのみ。
……返した刃の切っ先が深く相手に入り、カインの鎧は血を浴びた。
恐れさせてしまうだろうかと一瞬だけ振り返ったが、姫は涙を滲ませた青い顔で気丈に笑んだ。
それが、ずっと離れなかった。
だが彼は理解している。
姫は王の血を継ぐ人。
自分は、戦場を渡り歩く孤児上がりの兵士にすぎない。
「……白い結婚でいい」
彼は呟いた。
そうすれば、姫を傷つけずに済む。
彼女を穢さずにいられる。
夢のような三年を終えれば、きっと自分は潔く去れる――はずだった。
だが、どうしてか。
胸の奥で、淡い痛みが止まらなかった。
(……笑っておられた)
昼間の姫の笑顔を思い出す。
それが、どれほど無理をした笑顔だったのかを、彼は何故だか気が付いていた。
カインは眉をひそめ、そっと目を閉じた。
今まで目にしたどの笑顔よりも、彼の脳裏からは離れない。
もし、次に会うときもあの微笑で迎えられたら――
自分は、何を守りたくてこの距離を保つのだろう。
その問いが、心に小さな傷をつけていく。
***
翌朝、ミレナシアは侍女に伝える。
「ドレスは少し落ち着いた色を選びますわ。あの方の隣で浮いてしまわないように」
「姫様……」
「ふふ、大丈夫よ」
心の奥ではまだ痛みが残っている。
けれど、笑うことはできる。
だって三年の間――彼の隣に立てるのだから。
扉の外に出ると、朝の光がきらめいた。
ミレナシアはそっと呟いた。
「白い結婚でも、わたくしの想いまで色を失うわけではありませんわ」
柔らかな風が、彼女のスカートを揺らす。
その横顔に、涙の影は微かにもなかった。
196
あなたにおすすめの小説
【完】まさかの婚約破棄はあなたの心の声が聞こえたから
えとう蜜夏
恋愛
伯爵令嬢のマーシャはある日不思議なネックレスを手に入れた。それは相手の心が聞こえるという品で、そんなことを信じるつもりは無かった。それに相手とは家同士の婚約だけどお互いに仲も良く、上手くいっていると思っていたつもりだったのに……。よくある婚約破棄のお話です。
※他サイトに自立も掲載しております
21.5.25ホットランキング入りありがとうございました( ´ ▽ ` )ノ
Unauthorized duplication is a violation of applicable laws.
ⓒえとう蜜夏(無断転載等はご遠慮ください)
婚約者に値踏みされ続けた文官、堪忍袋の緒が切れたのでお別れしました。私は、私を尊重してくれる人を大切にします!
ささい
恋愛
王城で文官として働くリディア・フィアモントは、冷たい婚約者に評価されず疲弊していた。三度目の「婚約解消してもいい」の言葉に、ついに決断する。自由を得た彼女は、日々の書類仕事に誇りを取り戻し、誰かに頼られることの喜びを実感する。王城の仕事を支えつつ、自分らしい生活と自立を歩み始める物語。
ざまあは後悔する系( ^^) _旦~~
小説家になろうにも投稿しております。
愛してしまって、ごめんなさい
oro
恋愛
「貴様とは白い結婚を貫く。必要が無い限り、私の前に姿を現すな。」
初夜に言われたその言葉を、私は忠実に守っていました。
けれど私は赦されない人間です。
最期に貴方の視界に写ってしまうなんて。
※全9話。
毎朝7時に更新致します。
顔も知らない旦那様に間違えて手紙を送ったら、溺愛が返ってきました
ラム猫
恋愛
セシリアは、政略結婚でアシュレイ・ハンベルク侯爵に嫁いで三年になる。しかし夫であるアシュレイは稀代の軍略家として戦争で前線に立ち続けており、二人は一度も顔を合わせたことがなかった。セシリアは孤独な日々を送り、周囲からは「忘れられた花嫁」として扱われていた。
ある日、セシリアは親友宛てに夫への不満と愚痴を書き連ねた手紙を、誤ってアシュレイ侯爵本人宛てで送ってしまう。とんでもない過ちを犯したと震えるセシリアの元へ、数週間後、夫から返信が届いた。
※この作品は、『小説家になろう』様『カクヨム』様にも投稿しています。
※全部で四話になります。
十三回目の人生でようやく自分が悪役令嬢ポジと気づいたので、もう殿下の邪魔はしませんから構わないで下さい!
翠玉 結
恋愛
公爵令嬢である私、エリーザは挙式前夜の式典で命を落とした。
「貴様とは、婚約破棄する」と残酷な事を突きつける婚約者、王太子殿下クラウド様の手によって。
そしてそれが一度ではなく、何度も繰り返していることに気が付いたのは〖十三回目〗の人生。
死んだ理由…それは、毎回悪役令嬢というポジションで立ち振る舞い、殿下の恋路を邪魔していたいたからだった。
どう頑張ろうと、殿下からの愛を受け取ることなく死ぬ。
その結末をが分かっているならもう二度と同じ過ちは繰り返さない!
そして死なない!!
そう思って殿下と関わらないようにしていたのに、
何故か前の記憶とは違って、まさかのご執心で溺愛ルートまっしぐらで?!
「殿下!私、死にたくありません!」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
※他サイトより転載した作品です。
最近彼氏の様子がおかしい!私を溺愛し大切にしてくれる幼馴染の彼氏が急に冷たくなった衝撃の理由。
佐藤 美奈
恋愛
ソフィア・フランチェスカ男爵令嬢はロナウド・オスバッカス子爵令息に結婚を申し込まれた。
幼馴染で恋人の二人は学園を卒業したら夫婦になる永遠の愛を誓う。超名門校のフォージャー学園に入学し恋愛と楽しい学園生活を送っていたが、学年が上がると愛する彼女の様子がおかしい事に気がつきました。
一緒に下校している時ロナウドにはソフィアが不安そうな顔をしているように見えて、心配そうな視線を向けて話しかけた。
ソフィアは彼を心配させないように無理に笑顔を作って、何でもないと答えますが本当は学園の経営者である理事長の娘アイリーン・クロフォード公爵令嬢に精神的に追い詰められていた。
双子の姉に聴覚を奪われました。
浅見
恋愛
『あなたが馬鹿なお人よしで本当によかった!』
双子の王女エリシアは、姉ディアナに騙されて聴覚を失い、塔に幽閉されてしまう。
さらに皇太子との婚約も破棄され、あらたな婚約者には姉が選ばれた――はずなのに。
三年後、エリシアを迎えに現れたのは、他ならぬ皇太子その人だった。
【完結】もう一度あなたと結婚するくらいなら、初恋の騎士様を選びます。
紺
恋愛
「価値のない君を愛してあげられるのは僕だけだよ?」
気弱な伯爵令嬢カトレアは両親や親友に勧められるまま幼なじみと結婚する。しかし彼は束縛や暴言で彼女をコントロールするモラハラ男だった。
ある日カトレアは夫の愛人である親友に毒殺されてしまう。裏切られた彼女が目を覚ますと、そこは婚約を結ぶきっかけとなった8年前に逆行していた。
このままではまた地獄の生活が始まってしまう……!
焦ったカトレアの前に現れたのは、当時少しだけ恋心を抱いていたコワモテの騎士だった。
もし人生やり直しが出来るなら、諦めた初恋の騎士様を選んでもいいの……よね?
逆行したヒロインが初恋の騎士と人生リスタートするお話。
ざまぁ必須、基本ヒロイン愛されています。
※誤字脱字にご注意ください。
※作者は更新頻度にムラがあります。どうぞ寛大なお心でお楽しみ下さい。
※ご都合主義のファンタジー要素あり。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる