その結婚は、白紙にしましょう

香月まと

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 婚姻の正式な書面が交わされたその夜、ミレナシアの部屋には灯りが落ちていた。
 窓辺に立ち、彼女はそっと夜空を仰ぐ。
 王都の空は静かで、遠くに灯る街の明かりがまるで星のように瞬いている。

 その穏やかさに似つかわしくない感情が、姫の心に嵐を起こしていた。

 ──いやもうほんとに何ひとつ納得は出来ないのですけれど。

 白い結婚。白い。契約。仮の。形だけの期限付きの。
 それでいて、彼は夫になってしまったのだ。

 (なんて複雑な気持ちなのかしら)

 昼間の言葉が、何度も脳裏に浮かんだ。
 ――白い結婚。
 ――干渉せず。
 ――身に余る。

 ひとつひとつが、心を削る刃のようで。
 それでも、ミレナシアは唇に微笑を浮かべた。

 「……わたくし、泣かないわ」

 そう呟いて、自分の胸に手を当てた。

 彼が決して自分を軽んじたのではないことを、どこかで分かっていた。
 ミレナシアとて、彼を困らせたいわけではないのだ。
 
 あの人は、自分を守るように距離を取った。
 まじめで、忠実で、優しすぎるほどの人。

 (でしたら、わたくしも……)

 彼の誇りを、居場所を、そして――心を。
 守らなければならない。

 そう決意して、ミレナシアは深く息を吸い込んだ。
 春の風が窓から吹き込み、金色の髪をやわらかく揺らした。
 その目にはもう、迷いはなかった。



 ***


 一方、騎士団本部の執務室では、カインが机に向かっていた。
 手元の羊皮紙には「結婚契約」の文字。
 整った筆跡で署名を終えると、ふと手が止まった。

 窓の外では、夜の鐘が遠く鳴っている。

 (……姫様、か)

 名を頭の中で反芻しただけで、胸の奥が熱くなった。

 彼にとって、姫はなどという言葉では足りなかった。
 己の生涯をかけても届かぬ存在。
 白い花を手にしたかの、戦場で見る幻のような――そんな存在だった。

 あの日。
 刃が降り下ろされた瞬間に、彼女を庇ったのはそうするための護衛だからだ。
 当然のように迷いはなく、自らに課せられた責務を果たすのみ。
 ……返した刃の切っ先が深く相手に入り、カインの鎧は血を浴びた。
 恐れさせてしまうだろうかと一瞬だけ振り返ったが、姫は涙を滲ませた青い顔で気丈に笑んだ。

 それが、ずっと離れなかった。

 だが彼は理解している。
 姫は王の血を継ぐ人。
 自分は、戦場を渡り歩く孤児上がりの兵士にすぎない。

 「……白い結婚でいい」

 彼は呟いた。

 そうすれば、姫を傷つけずに済む。
 彼女を穢さずにいられる。
 夢のような三年を終えれば、きっと自分は潔く去れる――はずだった。

 だが、どうしてか。
 胸の奥で、淡い痛みが止まらなかった。

 (……笑っておられた)

 昼間の姫の笑顔を思い出す。
 それが、どれほど無理をした笑顔だったのかを、彼は何故だか気が付いていた。

 カインは眉をひそめ、そっと目を閉じた。
 今まで目にしたどの笑顔よりも、彼の脳裏からは離れない。

 もし、次に会うときもあの微笑で迎えられたら――
 自分は、何を守りたくてこの距離を保つのだろう。

 その問いが、心に小さな傷をつけていく。



***


 翌朝、ミレナシアは侍女に伝える。

 「ドレスは少し落ち着いた色を選びますわ。あの方の隣で浮いてしまわないように」

 「姫様……」

 「ふふ、大丈夫よ」

 心の奥ではまだ痛みが残っている。
 けれど、笑うことはできる。
 だって三年の間――彼の隣に立てるのだから。

 扉の外に出ると、朝の光がきらめいた。
 ミレナシアはそっと呟いた。

 「白い結婚でも、わたくしの想いまで色を失うわけではありませんわ」

 柔らかな風が、彼女のスカートを揺らす。
 その横顔に、涙の影は微かにもなかった。
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