その結婚は、白紙にしましょう

香月まと

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 婚礼から三か月。
 ミレナシアの生活は、王城から離れた小さな屋敷を中心に穏やかに続いていた。

 穏やか――そう、少なくとも外から見れば。

 朝は、来客の応対と報告書の確認。
 昼は、領地から届く物資の確認や書簡への返答。
 夕刻には、城下から訪れる婦人たちとの懇談。

 笑顔は常に柔らかく、姿勢は乱れず。
 どの場でも彼女は完璧な姫であり、騎士団長の妻としてふさわしい品位を保っていた。

 「姫様、こちら本日の来客名簿でございます」

 「ありがとう、メリー。……あら、今日は孤児院の院長さまがいらっしゃるのね」

 「ええ。去年の寄付金の件でご挨拶をと」

 「まあ、嬉しいわ。お菓子を多めに用意しておきましょう」

 にこやかに指示を出す。
 けれど、言葉を終えたあと――ふと、ペンを持つ指先がわずかに止まった。

 窓辺の向こうに、騎士団本部の屋根が見える。
 そのどこかに、今、カインがいる。

 (……今日も、お忙しいのでしょうね)

 声をかける隙もない。
 話しかけても、静かにかわされる。
 部屋は別。食卓も、時間をずらして。

 結婚して三か月。
 けれど、言葉を交わしたのは、数えても思い出せるような回数だけ。

 「……白い結婚、ですものね」

 小さく呟いて、唇を噛む。
 自分が望んだ結婚だった。
 彼に迷惑をかけないためにと、出された条件をすべて受け入れたのは自分だ。

 けれど、どうしても――ほんの少しでいいから、彼の隣で笑いたかった。
 このところは、願うほどに落胆をしてばかりの気がする。

 (いけませんわ、しょんぼりしては)

 ミレナシアは自分に言い聞かせ、軽く頬を叩いた。
 次の瞬間には、いつもの明るい笑顔で侍女に声をかける。

 「お茶の準備をお願い。お客様をお待たせしてはなりませんもの!」

 「は、はいっ、姫様!」

 彼女は立ち上がり、スカートを軽く払って姿勢を正した。
 笑顔の裏、沈みゆく心は見ないふりをする。


 ***


 昼過ぎ。
 孤児院の院長を送り出し、軽く一息ついた頃だった。

 「姫様」

 柔らかな声に振り返ると、そこにはユリウス・ド・ベルフォールが立っていた。

 金糸のような髪を軽く結び、上品な笑みを浮かべる青年。
 整った顔立ちに穏やかな眼差し。
 そして、その胸元には副団長を示す銀の徽章。

 「まあ、ユリウス様」
 「ご機嫌麗しく、姫様。今日もお忙しそうですね」

 「ふふ、王族というのは、案外雑務が多いものですのよ」

 そう言いながら、ミレナシアは軽やかに裾を揺らして笑った。

 ユリウス・ド・ベルフォール。
 王国有数の名門――ベルフォール公爵家の嫡男にして、若くして騎士団副団長を務める才人。絵画や詩にも造詣が深いと名高い男。
 ベルフォール公爵家と王家は親族関係にあり、彼はミレナシアがまだ少女だったころからの知己でもあった。

 かつて、王城の庭で一緒に花を摘んだ少年。
 いつも穏やかで、けれどからかい上手。
 その頃の面影を残したまま、彼は今や騎士団の要である。

 「少し、お疲れのように見えましたので」

 ユリウスは、やわらかく首を傾げた。

 「もしお時間が許すなら――お茶をご一緒にいかがでしょう?」

 「お茶……?」

 「ええ。団長は今しばらく訓練場ですし、他の方も業務中でしょう。東の庭園に小さな東屋があります。あそこなら、穏やかで人も少ない」

 彼は少し声を落とした。

 「――それに、誰にも聞かれません。決めたものしか通さないよう、簡単な結界を張りますから」

 その一言に、ミレナシアの瞳がぱちりと瞬いた。

 「……まあ、それは……素敵ですわね」

 「ええ。ですから、どうか肩の力を抜いて。今日は、姫としてではなくお話しを」

 その声音は、子どもの頃に聞いたものと同じだった。
 あの日、庭の茂みの中で秘密を打ち明け合ったときのように。

 
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