あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第1章 出会い

1、夢の世界

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 昭和初期ラウンジの夕暮れは、現実の史料よりもわずかに情緒的に調整されている。
 木造の酒屋。擦り切れた暖簾のれんすすけた柱時計。
 時はきちんと流れているが、急ぐ理由だけが存在しない。
 どれも本物ではないと分かっていても、再現の精度が高すぎて、桜樹敬司はときどき現実との境目を見失う。

 桜樹は徳利とっくりを傾け、さかずきを口に運んだ。

 ――ちゃんと、酔う。

 頭の奥がじんわりと温かくなり、思考の輪郭が少しだけ丸くなる。
 酔いの感覚は確かにある。脳が刺激され、気分が緩む。

「……で、今日も障害対応か?」

 向かいに座る山崎が、盃を掲げたまま苦笑した。

「障害って言うほどのもんじゃない。動いてるのに“止まってるかもしれない”って疑われてるだけだ」
「レイヤー運営の仕事なんて、だいたいそんなもんだろ」

 桜樹は肩をすくめ、もう一口飲む。

「ここで呑めば、ちゃんと酔う。でも――」

 言いかけて、言葉を選ぶ。

「現実の身体には何も残らない。肝臓も、血管も、医療ログも無傷だ。
 酔うけど、病気にはならない。タバコも同じだ。吸えば落ち着くし、頭も冴える。でも肺は一切傷まない」

 桜樹がそうまとめる。

「快楽だけ許可されて、病変だけ切り離された世界か」

 山崎は外の景色――存在しないはずの夕焼けを眺めた。

 時代は2050年。
 現実世界は、もはや「生活の場」ではなかった。
 極端な気温上昇による温暖化は予測を超えて進行し、夏と冬の境界は曖昧になり、沿岸部は水没。
 都市は熱と湿気に包まれ、地方は水と食糧の供給に追われた。
 インフラは延命され、修復ではなく“耐えて使う”段階に入っている。
 それらが、エネルギー供給網の断絶、農地の崩壊と慢性的な食糧不足を引き起こした。

 こうした問題を抱えた人類は、物理的に生活を維持することが極めて困難となった。
 だが同時に、こうも判断した。

 ――人を、そこに住ませ続ける必要はない。

 そこで人類が選んだ解決策が、仮想空間《レイヤーLayer》による意識管理社会だった。

 レイヤーは、「人類の意識を保全するための仮想空間」である。
 現実世界の環境負荷を最小限に抑えるため、人の意識を常時接続し、生活・労働・娯楽の大半を仮想側へ移す。
 現実世界は「肉体を保管する場所」として再定義され、生命維持のみが優先される。

 仮想空間では、五感は再現される。
 酒を飲めば酔い、煙草を吸えば脳が刺激され、風に吹かれれば寒さを感じ、誰かに触れれば温もりを覚える。

 それは偽物ではない。
 少なくとも、脳はそう判断している。

 ただ一つ、現実と決定的に違う点があった。

 ――病変が起きない。

 どれだけ酒を飲んでも、肝臓は傷まない。
 どれだけ煙草を吸っても、肺は汚れない。
 血管は詰まらず、細胞は記録されるだけで壊れない。

 快楽と刺激は許可され、その代償だけが、切り離された。

 その結果、成人病は激減し、医療費は劇的に削減された。
 国家財政は延命され、人類は“健康”になった。

 少なくとも、数字の上では。

 一方、現実世界では――
 意識を離れた肉体が、静かに管理されている。

 人の身体は、完全な休眠状態に置かれ、人型アンドロイドによる生命維持管理システムによって保全されている。
 彼らは介護者であり、管理者であり、そして、記録者だった。

 点滴、呼吸補助、筋肉の電気刺激、皮膚の保湿、最低限の代謝と循環を保つための処置。
 これらはすべて、レイヤー外縁部に点在する《維持施設》で半自律的に運用されている。

 レイヤーは単なる仮想空間ではない。
 それは、現実世界をアンドロイドに委ねることで成立している、人類存続装置である。
 人類は皆、出生時または一定年齢に達した時点で《レイヤー》への常時接続が義務付けられている。

 肉体は老いる。
 だがそれは、ゆっくりと、制御された形で進行する。
 桜樹もまた、自分の現実世界の身体は2050年時点で老化しているはずだと認識している。

 レイヤーでは、すべての意識に以下が紐づけられている。
  ・個体識別コード(ID)
  ・最終肉体同期時刻
  ・意識バックアップログ
  ・行動・記憶の差分記録
  ・肉体状態参照メタデータ

 通常、肉体状態参照メタデータには、
  ・推定肉体年齢
  ・代謝・老化進行率
  ・医療・延命処置ログ
 が定期的に更新される。

 異常があれば即座に修正され、不要な苦痛や変化は起こさせない。

 人は眠り、意識だけが、レイヤーで生きる。

 桜樹敬司にとって、それは疑うべき現実ではなかった。

 自分の肉体も、どこかで管理されている。
 老化しているはずだし、記録も残っているはずだ。

 医療ログにアクセスできないのは、ただ権限がないから。
 あるいは、機密だから。

 そういうものだ、と受け入れていた。

 なぜなら、桜樹の仮想ここでの仕事は、レイヤーの内部監査・異常検知を担当する技術責任者だからだ。
 表向きはシステムの安定運用が仕事だが、実際には「人間に悟られてはいけない異常」を処理する役割を持たされている。

 桜樹は2035年、20代の頃、レイヤーのシステム運用要員として実験に関わっており、移行技術の実地検証という名目で、通常より深い意識同期プロセスに参加していた。

 そうやって仮想空間で仕事をし、酒を飲み、誰かと笑う。

 それが、2050年の“普通”だった。

 ――少なくとも、桜樹が知っている限りでは。

「……で、今日もサーバー再起動?」

 山崎は苦笑し、おもむろに盃を口に運ぶ。

「正確には“再起動をしてないことを証明する作業”だな。動いてるのに、動いてないって言われる」

「レイヤー運営の仕事って、だいたいそんなもんだろ」

 桜樹は肩をすくめる。
 
 この空間で酒を飲んでも、肝臓は壊れない。血圧も上がらない。中性脂肪も増えない。

「便利だよな。こうして呑んでも、現実じゃ一円の医療費も増えない」

「だから政府も止められないんだよ。温暖化で現実世界はもう限界だしな」

 山崎は外の景色――存在しないはずの夕焼けを眺める。
 カウンターに肘をつき、徳利を傾ける。
 喉を通る感覚は確かに酒だった。熱も、香りも、少し遅れてくる酩酊感めいていかんも、すべてが計算された再現だ。

「……相変わらず、よく出来てるよな」

 桜樹が呟くと、隣で同じように杯を持っていた山崎が鼻で笑った。

「出来すぎなんだよ。ここまで再現する必要あるか?」
「あるんだろ。ないと、誰も呑まなくなる」

 山崎は徳利を持ち上げ、軽く振ってみせた。

「人を現実から引き剥がして、意識だけで管理する。エネルギー消費は激減、嗜好品は全部こっち側に集約」
「酒も、煙草も、ジャンクフードも……現実じゃ禁止。仮想なら推奨」
「まあ、体は壊れない。肝臓も血管もノーダメージ。成人病ゼロ。医療費も削減。国も喜ぶ」
「夢の酒だな」
「夢の世界だからな」

 二人は軽く杯を合わせた。
 音だけが、やけに乾いて響く。

「その代わり、現実は人が住む前提じゃなくなった」

 山崎の言葉には、皮肉が混じっていた。

「なあ桜樹。結局さ、“生きてる”って何なんだと思う?」

 桜樹は盃を置き、少しだけ考える。

「難しいことは分からない。でも――」

 もう一度、酒を口に含む。

「ここで感じてる酔いは本物だ。脳がそう判断してる」
「じゃあ、それで十分か?」
「仕事終わりに考えるには重すぎるな」

 二人は笑った。

 この世界では、笑い声すらデータ化され、情動は最適化され、過剰なストレスは自動で調整される。
 それを“安心”と呼ぶ者もいれば、“管理”と呼ぶ者もいる。

 桜樹は、どちらでもよかった。

 少なくとも今は、山崎と酒を飲めている。
 酔って、笑って、愚痴を言える。

 ――それで十分なはずだった。
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