あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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プロローグ

虚構の酒

 昭和初期風の酒屋は、いつ来ても少しだけ湿った匂いがした。
 り切れた暖簾のれん。裸電球の黄色い光、壁に貼られた色褪いろあせたポスター。
 すすけた柱時計が、実際よりもゆっくりと時を刻む。
 かんのついた徳利とっくりを置くと、木の卓がわずかに鳴った。
 ――煤けたはり、油紙の障子、外では下駄の音が遠ざかっていく。

 

 桜樹敬司さくらぎけいじは、徳利を傾けながら向かいの男を見た。

「今日も監査、面倒だったな」

 同僚の山崎隼やまざきはやとは苦笑し、さかずきを口に運ぶ。

「まあな。
 面倒な作業をしこたまこなして、こんなに呑んでるのに、明日も普通に仕事できる」
「健康優良だ。管理された幸福ってやつだな」

 桜樹はそう言って、盃をゆらゆらと揺らした。

 山崎が笑い、猪口ちょこを傾ける。桜樹も同じように酒を含んだ。
 喉を通る熱、腹に落ちる重み。確かに酔いは回る。
 頭の奥がほどけ、言葉が少しだけ軽くなる。

「……それでいいのか?」

 思わず漏れた言葉に、山崎は一瞬だけ動きを止めた。

「何がだ」
「いや……なんでもない」

 桜樹は首を振った。
 理由は自分でも分からなかった。

 健康で、壊れず、効率的で。
 それなのに、どこか欠けている気がした。

 同期の山崎といつも通い慣れているこの酒屋には、今日も変わらないざわめきが満ちている。
 誰もが盃を傾け、ここでは失われた時間を味わっていた。

 その時、カウンターの奥から足音がした。

「おう、兄さんたち。まだいけるかい」

 紺の割烹着かっぽうぎ姿の店主――この店のおやっさんが、徳利を一本掲げて立っていた。
 年の頃は五十を少し越えたくらいだろうか。しわの刻まれた顔には、商売人特有の人懐っこさがある。

「もちろん。追加で頼む」

 山崎が即答する。

「はいよ。無理はするなよ。酔いは、あとから来るからな」

 おやっさんは徳利を置き、手早く猪口に酒を注いだ。その手つきは慣れていて、迷いがない。

「仕事ってのは、いつの時代も面倒なもんだ」


「違いねえ。まあ、俺たちはまだマシだ。食うもんに困らない」

 桜樹はそう言いながら、壁に貼られた戦前の新聞を眺めた。
 米価、労働、遠い国の戦火。どれも懐かしいようで、どこか現実味がない。

「それにしても不思議だよな」

 山崎が煙草に火をつける。
 紫煙がゆっくりと立ち上る。

「ここでいくら飲んでも、吸っても、身体は壊れねえ」

「壊れるのは気分だけだ」

 二人で笑った。

「不思議なもんだな」

 桜樹が言う。

「これだけ飲んでるのに、身体は平気だ」

「当たり前だろ」

 おやっさんが、聞いていたのか、自然に会話へ入ってくる。

「酒は楽しむもんだ。壊れるまで飲むもんじゃない」

「でも、普通は壊れますよ」

 山崎が笑う。

「普通……なあ」

 おやっさんは少し考えるようにあごでた。

「時代が変わりゃ、普通も変わる。壊れねえなら、それでいいじゃねえか」

 その言葉は、妙に胸に残った。

「現実は暑すぎるからな」

 山崎がぽつりと言う。

「外じゃ人が生きられねえ。だから、こうして――」

 言葉が途切れた。

 酒屋の壁に掛けられた丸時計は、年季の入った木枠に収まっていた。
 白地の文字盤は少し黄ばんでいて、針は黒く太い。昭和初期の品だ、と言われれば誰も疑わないだろう。

 秒針が、かちり、と音を立てて進む。

「……やけに正確だな、その時計」

 桜樹が盃を置きながら言うと、向かいに座る山崎が鼻で笑った。

「仮想——」

 言いかけて、山崎は咳払いをした。

「いや、最近の復元ラウンジは、無駄に細かいんだよ。ズレると文句言う奴がいるからな」

 おやっさんが徳利を一本、無言で追加してくる。
 湯気が立ち上り、酒の匂いが鼻をくすぐった。

「この店、落ち着くよな」
「分かる。時間の感覚が、変になる」

 山崎はそう言って、ふと壁の時計を見上げた。

 長針は2のあたり、短針は2を少し過ぎたところ。
 秒針は、ちょうど――

 42秒を指していた。

 かちり。

 その瞬間、なぜか桜樹は胸の奥に、言葉にできない違和感を覚えた。

 遅れているわけでもない。
 壊れている様子もない。

 ただ――
 “止まってはいけないものが、止まった気がした”

 次の瞬間、秒針は何事もなかったかのように動き出す。

「どうした?」
「いや……なんでもない」

 桜樹は盃を持ち上げ、酒を煽った。
 喉を通る熱が、違和感を洗い流していく。

 時計は、正確に時を刻み続けている。
 少なくとも、そう見えた。

 その瞬間、桜樹の視界の端で、障子の向こうがわずかにゆがんだ。
 白い紙のはずの面に、細かな粒子が走る。まるで映像のノイズのように。

「……今、見たか?」

「何がだ」

 山崎は気に留めていない。徳利を持つ手元には、淡く青い文字列が一瞬だけ重なっていた。

  《環境同期:安定》

 次の瞬間、文字は消え、酒屋は何事もなかったかのように静けさを取り戻す。

 桜樹は猪口を置いた。

 「ラウンジ切り替え時の同期ズレか?」

 その問いが浮かんだ時にはもう、答えは与えられなかった。

 外では相変わらず、昭和初期の日本が続いている。


 この酒屋も、この酔いも、この時間さえも――
 すべてが、管理されている。
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