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第2章 逃避行
2、同一ID
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ラウンジの喧騒が、少しだけ遠のいた気がした。
桜樹は席に戻るなり、端末を伏せたまま椅子に深く腰掛ける。
山崎はコーヒーを一口飲んでから、何気ない調子で切り出した。
「なあ、さっき言ってた“同一ID”の件だけどさ」
「……ああ」
「正直に言うと、最初はなりすましだと思った」
桜樹は眉をひそめる。
「外部侵入?」
「それか、内部の誰かが意図的にIDを複製したか、だな。
管理層のIDなんて、狙う価値は山ほどある」
もっともな推測だった。
現実世界なら、それで話は終わっていたはずだ。
「でも、それはない」
山崎は、はっきりと言った。
「……理由は?」
山崎は端末を操作し、簡易ログを空中に投影する。
「レイヤーのIDってさ、単なる認証キーじゃないだろ」
「人格ログ、行動履歴、感情傾向、選択分岐……
全部ひっくるめた存在そのものだ」
「そう」
山崎は指でログの一部をなぞる。
「なりすましなら、どこかに“借り物”の歪みが出る。
反応速度、判断の癖、記憶の参照順……」
「でも、今回のは?」
「一致してる」
その一言が、重く落ちた。
「完全一致?」
「少なくとも、俺が見られる範囲ではな。
本人以上に本人らしいってレベルで」
桜樹は、無意識に拳を握っていた。
「それでも、システム上は二つ存在できない」
「だよな」
山崎は苦笑する。
「レイヤーの根本設計だ。
同一IDが同時稼働するなんて、
“仕様外”どころか“想定外”だ」
「じゃあ……」
「可能性は、二つしか残らない」
山崎は声を落とした。
「一つは、
俺たちが知らない層で、ルールそのものが書き換えられた」
「もう一つは?」
少しの間。
「そもそも、“二人いる”って認識が間違ってる可能性だ」
桜樹は顔を上げる。
「どういう意味だ」
「分裂してるのはIDじゃない。
観測の側かもしれないってこと」
その言葉は、桜樹の中で嫌な引っ掛かりを残した。
「……つまり……お前自身が、
“本来一つだった何か”を、別物として見てる可能性」
山崎は肩をすくめる。
「まあ、どっちにしろ言えるのは一つだ。
なりすましじゃない。
これは、ハッキングの話じゃない」
桜樹は、ゆっくり息を吐いた。
「……世界の話だな」
「そういうこと」
山崎はカップを持ち上げる。
「だから上は、
“調べるな”って顔するんだよ」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、桜樹ははっきりと理解していた。
同一IDは、誰かが自分の皮を被っているのではない。
もっと根の深い、“存在の事故”だ。
そして——
それを一番恐れているのが、運営側だということも。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
会社ラウンジの照明は、夜間モードに切り替わっていた。
昼間のざわめきは消え、残っているのは数人の当直と、低く唸る空調の音だけだ。
桜樹は自席でログを追っていた。
背後から、気配なく山崎が近づく。
「……さっきの話の続き、いいか」
桜樹は振り返らずに答えた。
「“観測の側が間違っている”ってやつか」
「そう」
山崎は周囲を一度見回し、声を落とす。
「あの時、もう一つだけ可能性があった。
でも、ラウンジじゃ言えなかった」
「なぜ」
「言った瞬間、俺もお前もログに残るからだ」
その言葉で、桜樹は端末から手を離した。
「……続けろ」
山崎は、テーブルに簡易の権限ロックをかける。
二人だけの、薄い隔離空間が張られた。
「同一IDが存在する可能性は、設計上“ゼロ”だ。
でもな……」
一拍。
「IDが一度“死んで”、再定義されたなら話は別だ」
桜樹の喉が、わずかに鳴る。
「死んだ、って……」
「正式な死亡じゃない。
システム的な“死”だ」
山崎は淡々と続ける。
「人格ログと、基底の存在証明が切り離された状態。
普通なら、そこでIDは消える」
山崎は一拍置いて、桜樹を見やる。
「でも、もし」
山崎の指が、空中に二本の線を描く。
「人格ログが保存されたまま残り、管理機能だけが再構築されたら」
「それは……」
桜樹は、言葉を探した。
「一つのIDから、
“人格”と“機能”が分かれた存在になる」
「そう」
山崎は短く頷く。
「どちらも同じIDを名乗れる。
なぜなら、元は同一だからだ」
沈黙。
「……じゃあ、俺が見ている“もう一人”は」
「お前の外にいるとは限らない」
山崎の声は、ほとんど囁きだった。
「お前が知らない間に、
お前の“機能だけの側面”が動いている可能性」
「はあ? 管理層で?」
「管理層に“なっている”かもしれない」
「まさか……そんなのあり得ない」
桜樹は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
「それが本当なら……」
「お前は、
“自分自身に管理されている”ってことになる」
山崎は、苦い笑みを浮かべた。
「だから言えなかった。
これはなりすましでも、裏切りでもない」
桜樹は、しばらく何も言えなかった。
「……上は、それを知ってる?」
「知ってる“誰か”はいる」
山崎は曖昧に答える。
「でも全員じゃない。
たぶん——」
「気づいた人間から、消えてる」
その言葉が、静かに落ちた。
「だからお前は、
“調べる側”から“調べられる側”に移った」
隔離空間が、解除される。
遠くで、誰かの足音が響いた。
山崎は元の調子に戻ったように肩をすくめる。
「なあ桜樹」
「……なんだ」
「もし本当にそうならさ」
一瞬だけ、真剣な目を向ける。
「お前はもう、
“自分一人の問題”じゃない」
「世界の基盤そのものだ」
ーーそう言い切った山崎の言葉が、
のちに桜樹自身の存在を揺るがす決定的な伏線になるとは、思いもしなかった
桜樹は席に戻るなり、端末を伏せたまま椅子に深く腰掛ける。
山崎はコーヒーを一口飲んでから、何気ない調子で切り出した。
「なあ、さっき言ってた“同一ID”の件だけどさ」
「……ああ」
「正直に言うと、最初はなりすましだと思った」
桜樹は眉をひそめる。
「外部侵入?」
「それか、内部の誰かが意図的にIDを複製したか、だな。
管理層のIDなんて、狙う価値は山ほどある」
もっともな推測だった。
現実世界なら、それで話は終わっていたはずだ。
「でも、それはない」
山崎は、はっきりと言った。
「……理由は?」
山崎は端末を操作し、簡易ログを空中に投影する。
「レイヤーのIDってさ、単なる認証キーじゃないだろ」
「人格ログ、行動履歴、感情傾向、選択分岐……
全部ひっくるめた存在そのものだ」
「そう」
山崎は指でログの一部をなぞる。
「なりすましなら、どこかに“借り物”の歪みが出る。
反応速度、判断の癖、記憶の参照順……」
「でも、今回のは?」
「一致してる」
その一言が、重く落ちた。
「完全一致?」
「少なくとも、俺が見られる範囲ではな。
本人以上に本人らしいってレベルで」
桜樹は、無意識に拳を握っていた。
「それでも、システム上は二つ存在できない」
「だよな」
山崎は苦笑する。
「レイヤーの根本設計だ。
同一IDが同時稼働するなんて、
“仕様外”どころか“想定外”だ」
「じゃあ……」
「可能性は、二つしか残らない」
山崎は声を落とした。
「一つは、
俺たちが知らない層で、ルールそのものが書き換えられた」
「もう一つは?」
少しの間。
「そもそも、“二人いる”って認識が間違ってる可能性だ」
桜樹は顔を上げる。
「どういう意味だ」
「分裂してるのはIDじゃない。
観測の側かもしれないってこと」
その言葉は、桜樹の中で嫌な引っ掛かりを残した。
「……つまり……お前自身が、
“本来一つだった何か”を、別物として見てる可能性」
山崎は肩をすくめる。
「まあ、どっちにしろ言えるのは一つだ。
なりすましじゃない。
これは、ハッキングの話じゃない」
桜樹は、ゆっくり息を吐いた。
「……世界の話だな」
「そういうこと」
山崎はカップを持ち上げる。
「だから上は、
“調べるな”って顔するんだよ」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、桜樹ははっきりと理解していた。
同一IDは、誰かが自分の皮を被っているのではない。
もっと根の深い、“存在の事故”だ。
そして——
それを一番恐れているのが、運営側だということも。
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会社ラウンジの照明は、夜間モードに切り替わっていた。
昼間のざわめきは消え、残っているのは数人の当直と、低く唸る空調の音だけだ。
桜樹は自席でログを追っていた。
背後から、気配なく山崎が近づく。
「……さっきの話の続き、いいか」
桜樹は振り返らずに答えた。
「“観測の側が間違っている”ってやつか」
「そう」
山崎は周囲を一度見回し、声を落とす。
「あの時、もう一つだけ可能性があった。
でも、ラウンジじゃ言えなかった」
「なぜ」
「言った瞬間、俺もお前もログに残るからだ」
その言葉で、桜樹は端末から手を離した。
「……続けろ」
山崎は、テーブルに簡易の権限ロックをかける。
二人だけの、薄い隔離空間が張られた。
「同一IDが存在する可能性は、設計上“ゼロ”だ。
でもな……」
一拍。
「IDが一度“死んで”、再定義されたなら話は別だ」
桜樹の喉が、わずかに鳴る。
「死んだ、って……」
「正式な死亡じゃない。
システム的な“死”だ」
山崎は淡々と続ける。
「人格ログと、基底の存在証明が切り離された状態。
普通なら、そこでIDは消える」
山崎は一拍置いて、桜樹を見やる。
「でも、もし」
山崎の指が、空中に二本の線を描く。
「人格ログが保存されたまま残り、管理機能だけが再構築されたら」
「それは……」
桜樹は、言葉を探した。
「一つのIDから、
“人格”と“機能”が分かれた存在になる」
「そう」
山崎は短く頷く。
「どちらも同じIDを名乗れる。
なぜなら、元は同一だからだ」
沈黙。
「……じゃあ、俺が見ている“もう一人”は」
「お前の外にいるとは限らない」
山崎の声は、ほとんど囁きだった。
「お前が知らない間に、
お前の“機能だけの側面”が動いている可能性」
「はあ? 管理層で?」
「管理層に“なっている”かもしれない」
「まさか……そんなのあり得ない」
桜樹は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
「それが本当なら……」
「お前は、
“自分自身に管理されている”ってことになる」
山崎は、苦い笑みを浮かべた。
「だから言えなかった。
これはなりすましでも、裏切りでもない」
桜樹は、しばらく何も言えなかった。
「……上は、それを知ってる?」
「知ってる“誰か”はいる」
山崎は曖昧に答える。
「でも全員じゃない。
たぶん——」
「気づいた人間から、消えてる」
その言葉が、静かに落ちた。
「だからお前は、
“調べる側”から“調べられる側”に移った」
隔離空間が、解除される。
遠くで、誰かの足音が響いた。
山崎は元の調子に戻ったように肩をすくめる。
「なあ桜樹」
「……なんだ」
「もし本当にそうならさ」
一瞬だけ、真剣な目を向ける。
「お前はもう、
“自分一人の問題”じゃない」
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