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第2章 逃避行
3、真紅の守り神
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調査権限は、朝のうちに制限されていた。
ログ解析ツールを立ち上げた瞬間、画面に淡い赤の警告が走る。
《ACCESS LIMITED:閲覧権限がありません》
「……昨日までは、通ってたはずだろ」
独り言は、空調音に吸い込まれた。
運営上層の判断——そう表示されている以上、正規ルートではこれ以上踏み込めない。
桜樹は端末を閉じ、周囲を一瞥した。
管理層フロアは、昼間でも人が少ない。
権限を持つ者ほど、現場に姿を見せない。
廊下の奥、壁際に設置された認証ゲートの前で、ひとりの男が立ち止まり、端末を操作しているのが見えた。
管理層部署の人間だ。
ネクタイの色と、腕章のコードで分かる。
男が通信を終え、ゲートを抜ける。
すれ違いざま、ほんの一瞬——桜樹は、腰元のIDカードに指をかけた。
抵抗はなかった。
カードが抜け落ちるほどの“偶然”を、レイヤーはいくらでも演出できる。
桜樹は何事もなかったように歩き続け、曲がり角で立ち止まると、カードを確認した。
管理層アクセス・フル
喉が、わずかに鳴った。
自席に戻り、外部から見えない角度に端末を固定する。
カードをスロットに差し込んだ瞬間、画面の色調が変わった。
警告は出ない。
「……通った」
心拍数が、体感的に一段階上がる。
桜樹は、制限されていたログ群の中から、ひとつのファイルを選択した。
《Layer Migration Experiment / Incident Log》
知らないはずの単語だった。
だが、指は迷わず開いていた。
時系列ログ。
日付は、15年前。
スクロールするごとに、記録が淡々と流れていく。
実験開始。
被験者ID同期。
異常値検出。
出力暴走。
そして——
《Fatal Error》
桜樹の視線が止まった。
被験者リストが表示される。
五名。
名前を見た瞬間、思考が一拍遅れた。
知らない名前ではない。
だが、同時に、知っているはずのない名前だった。
——同僚。
——上司。
——過去にシステム運用に関わっていた人物。
四人。
全員のステータス欄に、同じ記述が並んでいる。
《Status:Deceased》
「……亡くなってる?」
思わず声が漏れた。
事故。
暴発。
死亡。
そんな話は、聞いていない。
レイヤー移行実験は「成功例として」語られてきたはずだ。
桜樹は、指先で画面を拡大する。
被験者リストの一番下。
最後の名前を見て、呼吸が止まった。
桜樹 敬司
「……は?」
一瞬、表示の意味が理解できなかった。
自分の名前がある。
被験者として。
しかも——
《Status:—》
死亡でも、生存でもない。
空白。
ログはそこで途切れていた。
桜樹は、椅子の背に深くもたれた。
天井の光が、やけに遠く感じる。
「……俺が、被験者?」
違う。
自分は“運用側”だった。
実験を管理する立場で、事故とは無関係だったはずだ。
なのに、ログはそう記録していない。
画面の端で、別の通知が静かに点滅し始めた。
《同一ID:アクティブ》
桜樹は、その文字から目を逸らせなかった。
知らない事故。
死んだ四人。
空白の自分。
そして——
もう一人の、桜樹。
その時、警告音は、予兆のように遅れて鳴った。
桜樹の端末が、低く短い振動を返す。
画面には、見慣れない表示が浮かんでいた。
《ANOMALY DETECTED》
《UNAUTHORIZED ACCESS CONFIRMED》
「……やっぱり、来たか」
カードを引き抜くより早く、フロア全体の照明が一段階落ちる。
天井の光が白から冷たい青へと変わり、空調の音が止まった。
――隔離モード。
管理区画の出入口が、重く鈍い音を立てて閉鎖される。
ガラス壁の向こうで、人影が動いた。
スーツ姿の男たち。
管理層の社員だ。
その手に握られているものを見て、桜樹の背筋が凍る。
銃。
現実のそれとは違う。
銃身は短く、表面に走るコードが淡く発光している。
アバター権限抹消用デバイス。
撃たれれば、痛みはない。
だが、次の瞬間には——存在が消える。
「桜樹敬司」
男の一人が、無感情な声で呼びかけた。
「その場から動かないでください。
あなたのアバターは、重大な規約違反を起こしています」
「規約違反……?」
桜樹は一歩、後ずさる。
「俺は、ただログを——」
「権限外の真実に近づいた」
言葉を遮るように、銃口が向けられる。
「それだけで、十分です」
床に投影された光の円が、じわじわと狭まっていく。
桜樹は後ずさるようにして態勢を崩し、床に倒れ込んだ。
逃げ場はない。
ログアウト——その選択肢が、頭をよぎる。
桜樹は、端末に指を伸ばしかけた。
その瞬間。
――空間が、歪んだ。
空気が裂けるような音と共に、桜樹の前に赤が差し込む。
赤いスーツ。
細身のシルエット。
見覚えのある、しかし、ここにいるはずのない存在。
「……ミレーナ?」
彼女は振り返らず、桜樹の前に立った。
次の瞬間、彼女の腕の前方に、半透明の盾状フィールドが展開される。
五角形の光が幾重にも重なり、空間そのものを押し広げる。
管理層の一人が、反射的に引き金を引いた。
閃光。
衝撃。
だが、弾丸は盾に弾かれ、光の粒子となって消える。
「な……っ」
「下がって」
ミレーナの声は低く、静かだった。
「桜樹さん、ログアウトしないで」
「え……?」
彼女は、初めて振り返る。
その目には、酒場で見せた柔らかさはない。
だが、確かに——桜樹を見ている。
「今ログアウトしたら、あなたは“回収”される」
「回収……?」
「走って!
逃げるの」
盾が前進する。
管理層の銃撃を受け止めながら、彼女は一歩ずつ、確実に距離を詰めてくる。
高層フロアに、乾いた衝撃音が連続して弾けた。
管理層の社員たちが放った弾丸は、空中で寸断される。
ミレーナの前方に展開した盾状シールドが、淡い光を帯びて波紋を走らせ、衝撃を受け流していた。
「――無駄よ」
次の瞬間、彼女は踏み込む。
シールドを半回転させると同時に収束、腕部へ再構成。
距離は一気に詰まった。
最初の一人。
肘打ちが顎を正確に捉え、意識を刈り取る。
二人目は掴みに来た腕を逆関節へ導き、床へ叩き伏せる。
悲鳴が上がる前に、膝が鳩尾に沈んだ。
三人目が背後から迫る。
ミレーナは振り向かず、シールドを瞬間展開。
盾縁がそのまま刃のように走り、足を払う。
倒れ込んだところへ、踵が落ちた。
残った二人は一瞬、動きを止めた。
その迷いを、彼女は逃さない。
踏み込み、回転、連撃。
拳と膝、最小限の動作だけで制圧は終わった。
高層フロアに残ったのは、床に転がる管理層の社員たちと、
わずかに残るシールドの残光だけだった。
ミレーナは呼吸一つ乱さず、振り返る。
そこに立ち尽くしていた桜樹の手を、迷いなく掴む。
「――行くわよ!」
「なぜ……君が」
問いは、最後まで届かなかった。
ミレーナは桜樹の手首を掴む。
「信じて。
あとで、全部話す」
桜樹は、ただ頷いた。
強く引かれ、桜樹の体が前に出る。
警報と軋む建材の音を背に、二人はフロアを駆け出した。
世界が崩れるよりも先に、進むために。
光の壁が通路を塞ぎ、視界が一瞬、白に染まる。
「今!」
二人は走り出す。
管理層の怒号と警告音が、背後で重なった。
その中で、桜樹ははっきりと理解していた。
——自分は今、
この世界に消されようとしている。
そして、
それを止めるために現れたのが、
赤いスーツの女、ミレーナだった。
ログ解析ツールを立ち上げた瞬間、画面に淡い赤の警告が走る。
《ACCESS LIMITED:閲覧権限がありません》
「……昨日までは、通ってたはずだろ」
独り言は、空調音に吸い込まれた。
運営上層の判断——そう表示されている以上、正規ルートではこれ以上踏み込めない。
桜樹は端末を閉じ、周囲を一瞥した。
管理層フロアは、昼間でも人が少ない。
権限を持つ者ほど、現場に姿を見せない。
廊下の奥、壁際に設置された認証ゲートの前で、ひとりの男が立ち止まり、端末を操作しているのが見えた。
管理層部署の人間だ。
ネクタイの色と、腕章のコードで分かる。
男が通信を終え、ゲートを抜ける。
すれ違いざま、ほんの一瞬——桜樹は、腰元のIDカードに指をかけた。
抵抗はなかった。
カードが抜け落ちるほどの“偶然”を、レイヤーはいくらでも演出できる。
桜樹は何事もなかったように歩き続け、曲がり角で立ち止まると、カードを確認した。
管理層アクセス・フル
喉が、わずかに鳴った。
自席に戻り、外部から見えない角度に端末を固定する。
カードをスロットに差し込んだ瞬間、画面の色調が変わった。
警告は出ない。
「……通った」
心拍数が、体感的に一段階上がる。
桜樹は、制限されていたログ群の中から、ひとつのファイルを選択した。
《Layer Migration Experiment / Incident Log》
知らないはずの単語だった。
だが、指は迷わず開いていた。
時系列ログ。
日付は、15年前。
スクロールするごとに、記録が淡々と流れていく。
実験開始。
被験者ID同期。
異常値検出。
出力暴走。
そして——
《Fatal Error》
桜樹の視線が止まった。
被験者リストが表示される。
五名。
名前を見た瞬間、思考が一拍遅れた。
知らない名前ではない。
だが、同時に、知っているはずのない名前だった。
——同僚。
——上司。
——過去にシステム運用に関わっていた人物。
四人。
全員のステータス欄に、同じ記述が並んでいる。
《Status:Deceased》
「……亡くなってる?」
思わず声が漏れた。
事故。
暴発。
死亡。
そんな話は、聞いていない。
レイヤー移行実験は「成功例として」語られてきたはずだ。
桜樹は、指先で画面を拡大する。
被験者リストの一番下。
最後の名前を見て、呼吸が止まった。
桜樹 敬司
「……は?」
一瞬、表示の意味が理解できなかった。
自分の名前がある。
被験者として。
しかも——
《Status:—》
死亡でも、生存でもない。
空白。
ログはそこで途切れていた。
桜樹は、椅子の背に深くもたれた。
天井の光が、やけに遠く感じる。
「……俺が、被験者?」
違う。
自分は“運用側”だった。
実験を管理する立場で、事故とは無関係だったはずだ。
なのに、ログはそう記録していない。
画面の端で、別の通知が静かに点滅し始めた。
《同一ID:アクティブ》
桜樹は、その文字から目を逸らせなかった。
知らない事故。
死んだ四人。
空白の自分。
そして——
もう一人の、桜樹。
その時、警告音は、予兆のように遅れて鳴った。
桜樹の端末が、低く短い振動を返す。
画面には、見慣れない表示が浮かんでいた。
《ANOMALY DETECTED》
《UNAUTHORIZED ACCESS CONFIRMED》
「……やっぱり、来たか」
カードを引き抜くより早く、フロア全体の照明が一段階落ちる。
天井の光が白から冷たい青へと変わり、空調の音が止まった。
――隔離モード。
管理区画の出入口が、重く鈍い音を立てて閉鎖される。
ガラス壁の向こうで、人影が動いた。
スーツ姿の男たち。
管理層の社員だ。
その手に握られているものを見て、桜樹の背筋が凍る。
銃。
現実のそれとは違う。
銃身は短く、表面に走るコードが淡く発光している。
アバター権限抹消用デバイス。
撃たれれば、痛みはない。
だが、次の瞬間には——存在が消える。
「桜樹敬司」
男の一人が、無感情な声で呼びかけた。
「その場から動かないでください。
あなたのアバターは、重大な規約違反を起こしています」
「規約違反……?」
桜樹は一歩、後ずさる。
「俺は、ただログを——」
「権限外の真実に近づいた」
言葉を遮るように、銃口が向けられる。
「それだけで、十分です」
床に投影された光の円が、じわじわと狭まっていく。
桜樹は後ずさるようにして態勢を崩し、床に倒れ込んだ。
逃げ場はない。
ログアウト——その選択肢が、頭をよぎる。
桜樹は、端末に指を伸ばしかけた。
その瞬間。
――空間が、歪んだ。
空気が裂けるような音と共に、桜樹の前に赤が差し込む。
赤いスーツ。
細身のシルエット。
見覚えのある、しかし、ここにいるはずのない存在。
「……ミレーナ?」
彼女は振り返らず、桜樹の前に立った。
次の瞬間、彼女の腕の前方に、半透明の盾状フィールドが展開される。
五角形の光が幾重にも重なり、空間そのものを押し広げる。
管理層の一人が、反射的に引き金を引いた。
閃光。
衝撃。
だが、弾丸は盾に弾かれ、光の粒子となって消える。
「な……っ」
「下がって」
ミレーナの声は低く、静かだった。
「桜樹さん、ログアウトしないで」
「え……?」
彼女は、初めて振り返る。
その目には、酒場で見せた柔らかさはない。
だが、確かに——桜樹を見ている。
「今ログアウトしたら、あなたは“回収”される」
「回収……?」
「走って!
逃げるの」
盾が前進する。
管理層の銃撃を受け止めながら、彼女は一歩ずつ、確実に距離を詰めてくる。
高層フロアに、乾いた衝撃音が連続して弾けた。
管理層の社員たちが放った弾丸は、空中で寸断される。
ミレーナの前方に展開した盾状シールドが、淡い光を帯びて波紋を走らせ、衝撃を受け流していた。
「――無駄よ」
次の瞬間、彼女は踏み込む。
シールドを半回転させると同時に収束、腕部へ再構成。
距離は一気に詰まった。
最初の一人。
肘打ちが顎を正確に捉え、意識を刈り取る。
二人目は掴みに来た腕を逆関節へ導き、床へ叩き伏せる。
悲鳴が上がる前に、膝が鳩尾に沈んだ。
三人目が背後から迫る。
ミレーナは振り向かず、シールドを瞬間展開。
盾縁がそのまま刃のように走り、足を払う。
倒れ込んだところへ、踵が落ちた。
残った二人は一瞬、動きを止めた。
その迷いを、彼女は逃さない。
踏み込み、回転、連撃。
拳と膝、最小限の動作だけで制圧は終わった。
高層フロアに残ったのは、床に転がる管理層の社員たちと、
わずかに残るシールドの残光だけだった。
ミレーナは呼吸一つ乱さず、振り返る。
そこに立ち尽くしていた桜樹の手を、迷いなく掴む。
「――行くわよ!」
「なぜ……君が」
問いは、最後まで届かなかった。
ミレーナは桜樹の手首を掴む。
「信じて。
あとで、全部話す」
桜樹は、ただ頷いた。
強く引かれ、桜樹の体が前に出る。
警報と軋む建材の音を背に、二人はフロアを駆け出した。
世界が崩れるよりも先に、進むために。
光の壁が通路を塞ぎ、視界が一瞬、白に染まる。
「今!」
二人は走り出す。
管理層の怒号と警告音が、背後で重なった。
その中で、桜樹ははっきりと理解していた。
——自分は今、
この世界に消されようとしている。
そして、
それを止めるために現れたのが、
赤いスーツの女、ミレーナだった。
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