あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第2章 逃避行

1、ログの異変

 札幌ラウンジの朝は、静かすぎるほど整っていた。

 桜樹敬司は、高層ビル群の足元に広がる街路を歩いていた。
 空気は澄んでいる。冷たいはずなのに、刺すような寒さはない。レイヤーが再現する“北海道の朝”は、記憶の中の不快さだけを丁寧にぎ落としている。

 碁盤目状に区切られた大通り。
 等間隔に並ぶ街路樹は、季節に応じて葉の色を変えるが、枯れることはない。歩道の幅は広く、雪が積もるはずの場所には、代わりにあわい白い光が敷かれていた。



 ――現実の札幌なら、もう少し靴底が冷える。

 そんなことを思いながら、桜樹は空を見上げる。
 ビルのガラス壁に映る空は、どこまでも均一な青だった。雲の動きは計算され、飛行機雲は途中で消える。すべてが「過不足なく、生活に支障のない現実」だ。

 通勤者たちが行き交う。
 スーツ姿、コート姿、観光客を模したアバターも混じっている。彼らの多くは、現実世界では別の場所に横たわる肉体を持つ。あるいは——持たない者も。

 桜樹は、そこまで考えないようにして歩いた。

 目的地は、札幌ラウンジ中央区画にそびえる一際高いビル。
 レイヤーの基幹システムを管理する企業が入る、通称《ノースタワー》。

 エントランスに近づくにつれ、街の音が少しずつ減衰していく。
 車の走行音、人の話し声、足音——それらが、見えない膜を一枚へだてたように遠のく。

 ビルの前庭に立つと、足元の舗装が微かに発光した。

「おはようございます、桜樹」

 受付用AIの声が、空間そのものから響く。
 彼は軽く手を挙げ、ガラス扉をくぐった。

 内部は外界とは別の温度を持っている。
 白とグレーを基調にしたラウンジ。天井は高く、壁面には札幌の街を抽象化したデータアートが流れていた。
 現実の都市を“管理対象”として眺めるための、冷静な美しさ。

 桜樹は、胸ポケットの端末が一瞬だけ震えたのを感じた。

 昨日、見つけたはずのないログ。
 存在してはいけない痕跡。

 彼はそれを確認せず、まっすぐ管理区画へと向かう。

 だが、消えたはずの記憶の輪郭が、まだ脳裏に残っている。
 同一ID。
 自分と“まったく同じ”管理権限を持つ存在。

 ここは、仮想世界の中枢。
 そして、自分が15年間、疑いもせず働いてきた場所だった。

 ――今日も、いつも通りであるはずだ。

 そう思い込むことでしか、朝を始められなかった。

 ラウンジ奥のソファで、同僚たちが低い声で話している。
 桜樹の耳に届いたのは、断片的な単語だけだった。

「……また一人、レイヤーに残ったらしい」
「肉体の同期、完全に切れたって」
「運営は“想定内”だってさ」

 その言葉に、桜樹の足が一瞬止まる。

 運営側は、肉体を失ったアバターを、仮想世界に“意識だけ”残す。
 それが、レイヤーの暗黙のルールになりつつある現実。

 ――本当に、それでいいのか。

 桜樹は何も言わず、管理区画へと続くセキュリティゲートをくぐった。
 ゲートが閉じる音が、背後で静かに鳴る。

 その瞬間、彼の端末に、見覚えのないアクセス通知が表示された。

  《SYSTEM NOTICE:同一IDより接続要求》

 桜樹は、無意識のうちに画面を握りしめていた。

 昨日消したはずの“鏡”が、確かに、こちらを覗いている。

 管理区画に入ると、室内の照明が桜樹の生体反応に合わせて微調整された。
 静かな空間に、キーボードの軽い打鍵音だけが規則正しく響いている。

「……あ、桜樹。今日は早いな」

 声をかけてきたのは、隣のコンソールに座る山崎だった。
 ラフに羽織ったジャケット、寝不足を隠しきれない目元。
 だが、その指の動きは正確で迷いがない。

「昨日、遅かったからな。ログ整理が長引いた」

 桜樹がそう返すと、山崎は小さく鼻で笑った。

「どうせ“残留”絡みだろ。最近多すぎる」

 その一言に、桜樹は視線だけをモニターに残したまま答える。

「……もう“事故”とは呼べない数だな」

 山崎は椅子を回し、半身で桜樹を見る。

「運営の言い分は一貫してるよ。
 “肉体の喪失=人格の消失ではない”。
 だから、意識だけでもレイヤーに残すのは人道的、ってさ」

「人道的、ね」

 桜樹の声には、わずかなとげが混じった。

 レイヤー——現実と仮想を多層的に接続する世界基盤。
 人は日常の一部をそこにゆだね、仕事も、交流も、記憶のバックアップさえも共有している。

「でもさ」

 山崎は声を潜めた。

「意識だけ残された連中、もう“人”として扱われてないだろ。
 ログ上はユーザー、実態は管理不能なプロセスだ」

 桜樹は一瞬、指を止めた。

「……それでも、切れないんだ。完全削除は」

「だろうな。誰が責任取るんだって話になる」

 山崎はモニターを指で叩く。

「それに、知ってるだろ。
 意識残留が起きると、システムは必ず“補完”を始める」

「……同一性補完」

 桜樹が呟くと、山崎は小さく頷いた。

「そう。欠けた同期情報を埋めるために、過去ログをなぞる。
 最悪の場合、“同一ID”が生成される」

 空気が、わずかに重くなる。

「公式には存在しないことになってるけどな」
 山崎は苦笑する。
「同じ権限、同じ履歴、同じ思考傾向。
 でも、どこかで必ずズレる」

 桜樹の脳裏に、昨夜見たログの断片がよぎった。

「……ズレた方は、どうなる?」

 その問いに、山崎は即答しなかった。
 代わりに、視線をラウンジ側のガラス壁へ向ける。

「運営にとっては“エラー”。
 世界にとっては……まあ、鏡だな」

 山崎は再び桜樹を見る。

「で、昨日消したんだろ? 例のログ」

 桜樹は、ほんの一拍置いてから答えた。

「消した。はずだった」

 その瞬間、二人の端末が、ほぼ同時に短い通知音を鳴らした。

 山崎が画面を見て、眉をひそめる。

「……来たな」

「同一ID?」

「ああ。
 今度は、桜樹。
 お前を名指しで、だ」

 レイヤーは今日も静かに稼働している。
 だが、その深層で、“同じ顔をした何か”が、確実に目を覚まし始めていた。

 ラウンジ全体の照度が、わずかに下がった。

 それは警告でも通知でもない。
 ただ、優先度の高い接続が確立された時にだけ起こる、管理区画特有の現象だった。

 桜樹の端末が、操作を受け付けなくなる。

「……来たな」

 隣で山崎が小さく呟いた。

 次の瞬間、桜樹の視界の隅に、無機質なウィンドウが展開される。

  SYSTEM MESSAGE
  運営上層より招集要請
  対象:SAKURA-KEY_03
  接続レイヤー:管理階層・非公開
  優先度:最上位

 拒否、保留、そのどちらの選択肢も表示されていない。

「上、か……」

 桜樹が立ち上がると、山崎はそれ以上何も言わなかった。
 ただ一瞬だけ、止めるべきか、見送るべきか迷う表情を浮かべ、すぐに視線をらした。

「戻ってきたら、バーの続きな」

 冗談めかした声。
 だが、その裏にある不安を、桜樹は聞き逃さなかった。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 転送は、エレベーターでもゲートでもない。

 《現実感の希薄な“落下”》だけがあり、次に気づいた時には、白と灰色だけで構成された空間に立っていた。

 天井は見えない。
 壁も、境界が曖昧だ。

「……久しぶりだな、桜樹」

 声は正面からではなく、空間そのものから響いた。

 人の姿は三つ。
 どれも顔の輪郭がぼやけていて、視線を合わせようとすると、微妙に焦点がずれる。

「招集理由を教えてください」

 桜樹は、感情を排した声で言った。

「君のログに、不整合が検出された」

「不整合、ですか」

「正確には——
 ー“本来、存在しないはずの分岐”ーだ」

 桜樹の背中に、冷たいものが走る。

「同期遅延なら、昨日のうちに——」

「遅延ではない」

 上層の一人が、淡々とさえぎった。

「君の人格ログは、現在も安定して稼働している。
 だが、それを裏付ける“参照元”が、極端に欠落している」

「……どういう意味です?」

 少しの沈黙。

 その沈黙自体が、答えをにごすために設計された間だと、桜樹は理解した。

「桜樹。君は優秀な管理要員だ」

 別の声が続ける。

「だからこそ、余計なログを掘り返す必要はない。
 レイヤーは今、不安定な時期にある」

「同一IDの発生と関係が?」

 その問いに、三人は即答しなかった。

 代わりに、空間の一部が波打ち、
 “桜樹”のアクセス権限一覧が展開される。

 いくつかが、静かにグレーアウトしていく。

「——今後、君の調査範囲を制限する」

「それは命令ですか?」

「配慮だ」

 柔らかい言葉。
 だが、その実、拒否権は存在しない。

「君には、レイヤーの日常を守ってもらいたい。
 それ以上でも、それ以下でもない」

 最後に、最初の声が言った。

「桜樹。
 自分が“何者か”を疑い始めた管理者ほど、危険な存在はいない」

 次の瞬間、空間が反転する。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 気づくと、桜樹はラウンジの自席に立っていた。

 時間は、ほとんど進んでいない。

 山崎がこちらを見る。

「……顔色悪いぞ」

「大丈夫だ」

 桜樹はそう答えながら、
 胸の奥に残る、説明のつかない空洞感を無視しようとした。

 ——参照元が、欠落している。

 意味は、まだ分からない。
 だが一つだけ、確信があった。

 運営は、何かを知っている。
 そして、それを“言わない”と決めている。
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