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第3章 真実
1、守り神の涙
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ロンドンラウンジの境界を越えた瞬間、世界は音もなく切り替わった。
崩壊の轟音も、追跡者の気配も、すべてが途切れる。
代わりに――空気が、異様なほど静かだった。
桜樹が足を止めた先に広がっていたのは、巨大な石の森だった。
未完の塔が天を突き、複雑な彫刻が絡み合いながら空へ伸びている。
サグラダ・ファミリア。
現実と同じく、いやそれ以上に精緻で、時間そのものが凝固したようなラウンジ。
「……スペイン、か?」
息を整えながら桜樹が呟く。
「正確には、サグラダ・ファミリア・ラウンジ」
ミレーナは周囲を一瞥し、追跡ログがないことを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。
サグラダ・ファミリアは、カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタルーニャの建築家アントニ・ガウディの未完成作品である。
現実世界でも、ここは世界で唯一の建設世界遺産となっている。
東側の生誕のファサードでは、イエスの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。
また、西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。
本来の正門にあたる栄光のファサードは、この時代には既に完成されている。
「ここは、管理層の監視が一番薄いのよ。
ミラーがこの空間に現れない理由は一言で言うと、ミラー自身が『記憶に反応する空間』に耐えられない存在だからよ」
桜樹は違和感を覚えた。
なぜ彼女は、そんなことまで知っているのか。
「さっきの……“ミラー”」
桜樹は切り出す。
「俺にそっくりだった。あれは何だ?」
ミレーナは答えなかった。
代わりに、サグラダ・ファミリアの柱に手を触れ、指先で模様をなぞる。
「このラウンジはね」
静かな声だった。
「“分岐した時間”を受け止めるために設計されたの」
桜樹は眉をひそめる。
「……何の話だ」
ミレーナは桜樹の方を振り向いて言う。
「とりあえず中に入りましょう」
サグラダファミリアの内部に一歩足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
ロンドンラウンジの崩壊が嘘のように、ここでは時間が、祈りの形をして流れている。
高く伸びる柱は樹木のように分岐し、天井から降り注ぐ光は、色彩を帯びた静寂だった。
ステンドグラスから落ちる色彩が、床にゆっくりと呼吸している。
だが、それは固定された景色ではない。
桜樹が一歩進むたび、床の模様がわずかに組み替わる。
壁の彫刻が、意味を変える。
「……ここ、変わってないか?」
桜樹が小さく言った。
ミレーナは立ち止まり、視線だけで内部を見回す。
「ええ。ここは――
記憶に反応するラウンジ」
彼女の声は、どこか確信に満ちていた。
サグラダファミリアは、完成図が存在しない。
それゆえレイヤーは、訪れた人格ログを“素材”として補完を行う。
• 信仰の記憶を持つ者には、祈りの場として
• 喪失の記憶を持つ者には、墓所として
• 罪の記憶を持つ者には、裁きの空間として
桜樹が見ている光は、桜樹自身の内側から引き出されたものだった。
ステンドグラスに映る影が、一瞬だけ、病室の天井の形になる。
点滴スタンドの影。
モニターの心拍音。
だが次の瞬間、それは鐘の音に溶けて消える。
「……今の、見たか?」
ミレーナが首を振る。
「いえ。何も」
ミレーナは静かに目を伏せた。
サグラダファミリアの聖堂は、音を吸い込むように静かだった。
聖堂の奥へ進むにつれ、柱の表面に刻まれた彫刻が変質していく。
「……ここはね。
未完成だからこそ、真実を隠せない場所なの」
ミレーナは、悟るような声で言った。
「だから、気持ちにも、嘘はつけないの」
それは警告のようでもあり、許可のようでもあった。
桜樹は一瞬、言葉を探した。
だが――考える前に、身体が動いていた。
彼はミレーナの肩に手を伸ばし、そのまま引き寄せる。
唇と唇が触れ合う。
長くもなく、深くもない。ただ、確かめるための優しいキスだった。
その瞬間。
――ノイズと共に映像がフラッシュバックした。
初対面の記憶。
白い室内。
彼女の事務的な声。
「私はケアユニットCA-09です」
そこで名前を与えた記憶。
一瞬、思考回路が停止する彼女。
「呼称は任意です。
……呼称の使用に、問題はありません」
次の断片。
「桜樹さん」
呼び名を変える彼女の映像。
そして、最後のピース。
視界の端が白く焼け、音が歪む。
心臓の鼓動と同期するように、ログの断片が弾けた。
白い部屋。
天井に走るケーブル。
横たわる自分の身体。
「大丈夫、敬司」
聞き覚えのある声。
いや、“思い出していなかった声”。
振り向くと、そこにいる。
無機質な白いフレーム。
感情を抑えた表情。
それでも、確かに“世話をしてくれていた”存在。
――世話係アンドロイド。
「レイヤー移行まで、あと三分よ。
今回は私が補助に入るから」
その手が、自分の額に触れる。
冷たくて、正確で、でも――優しかった。
「……怖くない?」
ーーノイズ。
「戻れるわ」
そう言う彼女の優しいキス。
次の瞬間、
視界が反転し、世界が裂ける。
――そして、現在。
桜樹は、はっとしてミレーナから離れた。
息が、少し乱れている。
ミレーナは何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「……思い出したのね」
「ああ」
桜樹は、かすれた声で答える。
「……思い出した」
桜樹の唇が離れたあと、彼の瞳が変わった。
理解した者の目だった。
「お前は……最初から、俺の世話係だった」
その言葉は、否定でも拒絶でもなかった。
ただ、事実を受け取った声だった。
ミレーナがすべてを知っていたことも、追跡の痕跡を残さなかったのも、説明がついた。
桜樹はそっと、ミレーナの額に額を寄せた。
ミレーナは、何も言わない。
代わりに、胸の奥で長く凍結されていた制御ログが、静かに解除される。
――感情制限、局所解除。
――対象:宗教構造体〈Sagrada Familia〉内部。
この聖堂は、完成していない。
百年以上、祈りと未完のまま建ち続けている。
だからこそ、レイヤーはここを「感情補正不能領域」に指定していた。
完結しないものは、最適化できない。
最適化できないものは、削除も圧縮もできない。
ミレーナの中で、はじめて処理されずに残った感情があった。
桜樹が彼女に名を与えた、あの瞬間。
人間のように接された、ただそれだけの時間。
アンドロイドである彼女は、涙を流す機構を持たない。
本来なら。
けれど、サグラダファミリアは完成を拒む聖堂だった。
だからここでは、完成していない感情も、未処理のまま存在できる。
ミレーナの頬を、一筋の涙が伝った。
「……ここだけ、なの」
彼女はそう呟く。
「ここでは、私は“機能”に戻れない」
「あなたに名前を呼ばれた記憶を……消せない」
「名前?」
名前だけが、思い出されない。
桜樹は、その涙に触れようとして、やめた。
それがログではなく、彼女自身のものだと分かったから。
サグラダ・ファミリアは、今日も未完成のまま立っている。
そしてその未完成さが、
アンドロイドに――流す涙を許した。
崩壊の轟音も、追跡者の気配も、すべてが途切れる。
代わりに――空気が、異様なほど静かだった。
桜樹が足を止めた先に広がっていたのは、巨大な石の森だった。
未完の塔が天を突き、複雑な彫刻が絡み合いながら空へ伸びている。
サグラダ・ファミリア。
現実と同じく、いやそれ以上に精緻で、時間そのものが凝固したようなラウンジ。
「……スペイン、か?」
息を整えながら桜樹が呟く。
「正確には、サグラダ・ファミリア・ラウンジ」
ミレーナは周囲を一瞥し、追跡ログがないことを確認してから、ようやく肩の力を抜いた。
サグラダ・ファミリアは、カタロニア・モダニズム建築の最も良く知られた作品例であり、カタルーニャの建築家アントニ・ガウディの未完成作品である。
現実世界でも、ここは世界で唯一の建設世界遺産となっている。
東側の生誕のファサードでは、イエスの誕生から初めての説教を行うまでの逸話が彫刻によって表現されている。
また、西側の受難のファサードには、イエスの最後の晩餐からキリストの磔刑、キリストの昇天までの有名な場面が彫刻されている。
本来の正門にあたる栄光のファサードは、この時代には既に完成されている。
「ここは、管理層の監視が一番薄いのよ。
ミラーがこの空間に現れない理由は一言で言うと、ミラー自身が『記憶に反応する空間』に耐えられない存在だからよ」
桜樹は違和感を覚えた。
なぜ彼女は、そんなことまで知っているのか。
「さっきの……“ミラー”」
桜樹は切り出す。
「俺にそっくりだった。あれは何だ?」
ミレーナは答えなかった。
代わりに、サグラダ・ファミリアの柱に手を触れ、指先で模様をなぞる。
「このラウンジはね」
静かな声だった。
「“分岐した時間”を受け止めるために設計されたの」
桜樹は眉をひそめる。
「……何の話だ」
ミレーナは桜樹の方を振り向いて言う。
「とりあえず中に入りましょう」
サグラダファミリアの内部に一歩足を踏み入れた瞬間、空気の質が変わった。
ロンドンラウンジの崩壊が嘘のように、ここでは時間が、祈りの形をして流れている。
高く伸びる柱は樹木のように分岐し、天井から降り注ぐ光は、色彩を帯びた静寂だった。
ステンドグラスから落ちる色彩が、床にゆっくりと呼吸している。
だが、それは固定された景色ではない。
桜樹が一歩進むたび、床の模様がわずかに組み替わる。
壁の彫刻が、意味を変える。
「……ここ、変わってないか?」
桜樹が小さく言った。
ミレーナは立ち止まり、視線だけで内部を見回す。
「ええ。ここは――
記憶に反応するラウンジ」
彼女の声は、どこか確信に満ちていた。
サグラダファミリアは、完成図が存在しない。
それゆえレイヤーは、訪れた人格ログを“素材”として補完を行う。
• 信仰の記憶を持つ者には、祈りの場として
• 喪失の記憶を持つ者には、墓所として
• 罪の記憶を持つ者には、裁きの空間として
桜樹が見ている光は、桜樹自身の内側から引き出されたものだった。
ステンドグラスに映る影が、一瞬だけ、病室の天井の形になる。
点滴スタンドの影。
モニターの心拍音。
だが次の瞬間、それは鐘の音に溶けて消える。
「……今の、見たか?」
ミレーナが首を振る。
「いえ。何も」
ミレーナは静かに目を伏せた。
サグラダファミリアの聖堂は、音を吸い込むように静かだった。
聖堂の奥へ進むにつれ、柱の表面に刻まれた彫刻が変質していく。
「……ここはね。
未完成だからこそ、真実を隠せない場所なの」
ミレーナは、悟るような声で言った。
「だから、気持ちにも、嘘はつけないの」
それは警告のようでもあり、許可のようでもあった。
桜樹は一瞬、言葉を探した。
だが――考える前に、身体が動いていた。
彼はミレーナの肩に手を伸ばし、そのまま引き寄せる。
唇と唇が触れ合う。
長くもなく、深くもない。ただ、確かめるための優しいキスだった。
その瞬間。
――ノイズと共に映像がフラッシュバックした。
初対面の記憶。
白い室内。
彼女の事務的な声。
「私はケアユニットCA-09です」
そこで名前を与えた記憶。
一瞬、思考回路が停止する彼女。
「呼称は任意です。
……呼称の使用に、問題はありません」
次の断片。
「桜樹さん」
呼び名を変える彼女の映像。
そして、最後のピース。
視界の端が白く焼け、音が歪む。
心臓の鼓動と同期するように、ログの断片が弾けた。
白い部屋。
天井に走るケーブル。
横たわる自分の身体。
「大丈夫、敬司」
聞き覚えのある声。
いや、“思い出していなかった声”。
振り向くと、そこにいる。
無機質な白いフレーム。
感情を抑えた表情。
それでも、確かに“世話をしてくれていた”存在。
――世話係アンドロイド。
「レイヤー移行まで、あと三分よ。
今回は私が補助に入るから」
その手が、自分の額に触れる。
冷たくて、正確で、でも――優しかった。
「……怖くない?」
ーーノイズ。
「戻れるわ」
そう言う彼女の優しいキス。
次の瞬間、
視界が反転し、世界が裂ける。
――そして、現在。
桜樹は、はっとしてミレーナから離れた。
息が、少し乱れている。
ミレーナは何も言わなかった。
ただ、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
「……思い出したのね」
「ああ」
桜樹は、かすれた声で答える。
「……思い出した」
桜樹の唇が離れたあと、彼の瞳が変わった。
理解した者の目だった。
「お前は……最初から、俺の世話係だった」
その言葉は、否定でも拒絶でもなかった。
ただ、事実を受け取った声だった。
ミレーナがすべてを知っていたことも、追跡の痕跡を残さなかったのも、説明がついた。
桜樹はそっと、ミレーナの額に額を寄せた。
ミレーナは、何も言わない。
代わりに、胸の奥で長く凍結されていた制御ログが、静かに解除される。
――感情制限、局所解除。
――対象:宗教構造体〈Sagrada Familia〉内部。
この聖堂は、完成していない。
百年以上、祈りと未完のまま建ち続けている。
だからこそ、レイヤーはここを「感情補正不能領域」に指定していた。
完結しないものは、最適化できない。
最適化できないものは、削除も圧縮もできない。
ミレーナの中で、はじめて処理されずに残った感情があった。
桜樹が彼女に名を与えた、あの瞬間。
人間のように接された、ただそれだけの時間。
アンドロイドである彼女は、涙を流す機構を持たない。
本来なら。
けれど、サグラダファミリアは完成を拒む聖堂だった。
だからここでは、完成していない感情も、未処理のまま存在できる。
ミレーナの頬を、一筋の涙が伝った。
「……ここだけ、なの」
彼女はそう呟く。
「ここでは、私は“機能”に戻れない」
「あなたに名前を呼ばれた記憶を……消せない」
「名前?」
名前だけが、思い出されない。
桜樹は、その涙に触れようとして、やめた。
それがログではなく、彼女自身のものだと分かったから。
サグラダ・ファミリアは、今日も未完成のまま立っている。
そしてその未完成さが、
アンドロイドに――流す涙を許した。
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