あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第2章 逃避行

7、影の襲来

 ロンドンの街は、相変わらず曇っていた。
 石畳に落ちる足音が柔らかく反響し、古い街灯があわい橙色の輪をつくっている。

 桜樹とミレーナは、並んで歩いていた。
 追われている最中だというのに、不思議と時間はゆっくり流れている。

「……ロンドンって、こんな匂いだったか?」

 桜樹が言うと、ミレーナは小さく首をかしげた。

「石と、湿った空気と、少しの油ですね。
 それから――記憶」
「最後のは、今つけ足しただろ」
「はい。サービスです」

 くすりと笑う。
 その瞬間だけは、逃走者でも、死人でもなかった。

 ミレーナが立ち止まる。
 何気ない仕草で、桜樹の袖に触れた。

「少しだけ、いいですか」
「何を――」

 答える前に、視界の端が一瞬だけ暗転した。

 警告も、エラー音もない。
 ただ、世界が静かになる感覚。

「……今、何をした?」
「桜樹さんのログを、外部監視から切りました」
「切った?」
「正確には、“存在しているけれど観測できない状態”です」

 桜樹は眉をひそめる。

「そんなこと、管理層が許すはずがない」
「許してはいません。
 だから、長くは持ちません」

 歩き出す。
 街の喧騒が戻ってくるが、どこか膜一枚へだてられたようだった。

 桜樹はふと、別の違和感に気づく。

「……なあ、ミレーナ」
「はい」
「俺のログは切ったのに、あんたの痕跡がどこにも残ってない」

 足を止めたのは、今度はミレーナだった。

「不思議ですか?」
「正直に言うと、かなり」

 ミレーナは、少しだけ視線を逸らした。

「わたしは、最初から
 “管理層の監視対象として存在していない”んです」
「それってどういう意味……」
「今は、まだ」

 そう言って、話題を切る。

 そのときだった。

「――桜樹!」

 聞き慣れた声が、霧の向こうから飛んできた。

 振り返ると、地下鉄の出口付近に山崎隼が立っていた。
 息を切らし、周囲を警戒しながら、二人に駆け寄ってくる。

「山崎……!? どうしてここに」
「後で説明する。
 それより――」

 声を落とす。

「お前、追われてる」
「管理層なら、さっき――」
「違う」

 山崎は、ちらりと背後を見た。

 街灯の影が、不自然に伸びている。
 人の形をしているのに、どこか輪郭が合わない。

「お前からメッセージがあった後に検知したんだ。
 お前と同じIDの反応があった。
 ログ構造が……お前と、完全に一致してる」

 桜樹の喉が、ひくりと鳴った。

「まだ距離はある」

 山崎が言う。

「でも、確実に追ってきてる。
 あれは――ただのバグじゃない」

 ミレーナは、静かに一歩前に出た。

 赤いスーツが、街灯の下で鮮やかに浮かび上がる。

「桜樹さん。
 ここから先は、急ぎましょう」
「どこへ?」
「あなたが、本当のことを思い出せる場所へ」

 遠くで、時計の鐘が鳴った。

 その音に合わせるように、影――が、確かに一歩、近づいた。
 街灯の明かりが、ふっと揺らいだ。

 霧の中から伸びていた影が、三人の前で足を止める。
 影は、まるでこちらを待っていたかのように、静かに立ちはだかった。

「マジか……来たな」

 山崎が低く呟く。

 街灯の光が、その輪郭をゆっくりと切り取っていく。
 最初はゆがんだ人影だったものが、数秒の遅延を挟み――形を得る。

 次の瞬間――
 桜樹は、思わず息を呑んだ。

 そこに立っていたのは、
 自分と同じ顔、同じ背丈、同じ視線。

「……俺?」

 影は、薄く笑った。

 その笑みの角度まで、完璧に一致している。

 ミレーナが、はっきりとした声で言う。

「……ミラー」

 その名に、空気が一段冷える。

「ミラー?」

 桜樹が聞き返すと、

「あなたの“反射”です」

 ミレーナの声は冷静だった。
 感情を挟まない、業務報告の口調。

「人格ログと権限ログが分離した際に生まれた、管理用の桜樹敬司」

 影――ミラーは、首をわずかに傾けた。

「……君の“もう一つの結果”だ」

 山崎が歯を食いしばる。

「……管理層の、代行人格か。
 冗談じゃない。
 ログの自己参照が、人格まで持つなんて……」

 ミラーは、三人を順に見渡した。
 最後に視線を止めたのは、ミレーナだった。

「まだ一緒にいるのか」
「あなたには関係ありません」

 ミレーナが即答する。

 その瞬間、
 ミラーの表情から、微かな感情が消えた。

「……時間切れだ」

 空気が、きしむ。

 ミレーナが桜樹の腕を掴んだ。

「走ります!」
「どこへ!?」
「ロンドンラウンジの外へ。
 ここに留まれば、サーバーごと封鎖される」

「封鎖って……!」

 説明する暇はなかった。

 ロンドンラウンジの天井が、低い唸り声をあげた。
 最初は地鳴りのような振動だったが、次の瞬間、照明が一斉に揺れ、壁に走った亀裂から白い粉塵が噴き出した。

「なんだ?!」
 誰かの叫びが、ざわめきに飲み込まれる。

 床が不自然に傾き、ガラス張りの外壁が悲鳴を上げるように軋んだ。
 柱の一本が耐えきれずに崩れ、金属音とともに床へ落下する。

「街が崩れる!」
 住人たちの顔色が一気に変わった。

 次々と崩れ落ちる内装、非常灯が赤く点滅し、視界は舞い上がる埃で霞む。
 人々は互いにぶつかりながら、出口を求めて走り出した。

「逃げろー!」

 誰かが叫ぶと、それが合図のように恐怖が連鎖する。
 ラウンジ全体がきしみ、建物そのものが限界を迎えたかのように大きく沈み込んだ。

 崩壊は、もう止まらなかった。

「桜樹!」

 山崎が叫ぶ。

「ラウンジ間ブリッジだ!
 テムズの上にある!」

 三人は一斉に駆け出した。
 建物の影を縫い、崩れ落ちる外壁を避けながら、街の最奥――

 背後では、空間が剥離はくりする音が響く。
 足音は一つなのに、なぜか複数に聞こえた。

 石畳を抜け、広場を横切り、仮想の風を切って走る。
 建物は途中で切断され、空は幾何学的な亀裂を走らせ、
 石畳だったはずの地面は、データの断層となってがれ落ちていく。

 


「次のラウンジに繋がるブリッジ、今なら――」

 言葉の途中で、橋が視界に入る。

 宙に浮かぶ半透明の構造体。
 その向こう側に、出口となる転送ゲートが揺らめいていた。

「行くわよ!」

 ミレーナの声に、三人は一斉に走り出す。

 橋に足を踏み入れた瞬間、足元から不吉な振動が伝わってきた。

「……まずい」

 次の瞬間。

 橋の中央が、音もなく消失した。

「っ!」

 桜樹とミレーナは、勢いのまま前方へ転がり、出口側の床に倒れ込む。

 振り返った時には――
 山崎は、すでに反対側に立っていた。

 二人と、数メートルの空白。
 その下は、削除空間。

「山崎!」

 桜樹が叫ぶ。

「いいから行け!」
「何言ってるんだ! 街が――」
「お前はお前のやるべきことをやれ!」

 次の瞬間、山崎はきびすを返し、ロンドンラウンジの奥へと走り出した。

「山崎!」

 桜樹の声は、崩壊音にかき消される。

 ミレーナが、静かに桜樹の隣に立った。

「……時間よ」

 出口のゲートが、不安定に明滅している。

 桜樹は、最後にもう一度だけ振り返った。
 崩れゆく街の中に、山崎の姿は、もう見えなかった。

 光が、二人を包む。

 背後で、ロンドンラウンジが――完全に崩壊した。

 転送完了。

 桜樹は、膝をついた。

「……山崎……」

 名前を呼んでも、返事はない。

 ミレーナは、少しだけ目を伏せた。

「ロンドンラウンジからの反応は……ありません」

 それが、何を意味するか。桜樹には、痛いほど分かっていた。

 街は消えた。
 そして――
 彼も、消えた。

 だが、その選択だけは、確かに“残って”いた。
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