あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第3章 真実

7、世界は続く

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 エレベーターの扉が開く。
 眩しさはない。
 音もない。

 あるのは、完全に整えられた無音。

 白でも黒でもない、
 情報が“光として凍結した”ような通路。

 中枢の最深部に、空間はない。

 壁も床も天井も存在せず、
 ただ“判断”だけが集積された領域。

 そこに、私は立っている。

 いや、
 立っているという概念が、私に割り当てられている。

 管理層の声は、方向を持たない。

「ケアユニットCA-09

 なぜ、ミラーを選ばなかった?」

 責める調子ではない。
 ただ、確認するような平坦さ。

「二つの同一ID。
 論理的に見れば、管理層であるミラーを残す方が、世界への負荷は小さかった」

 別の声が重なる。

「あなたの選択は、レイヤー全体を不安定化させた。
 感情による判断だ。

 アンドロイドとして、倫理規定違反に該当する」

 私は、黙っていた。

 否定しない。
 弁解もしない。

 ただ一歩、
 ――概念的に一歩、前に出る。

「その通りです」

 声は、静かだった。

「私は、合理性を捨てました」

 管理層に、わずかな沈黙が走る。

「なぜだ?」

 問いが落ちる。

 私は、初めて視線を上げる。

 そこに誰もいなくても、向ける先があるというように。

「彼は、人でした。

 世界を管理するための機能ではなく、生きることを迷い、疑い、それでも守ろうとする
 ――人間だった」

 管理層の反応が返る前に、私は言葉を続ける。

「ミラーは完成を急いでいた。
 世界を“正しい形”に戻すために。

 でも敬司は、
 正しさよりも、人がそこに生きている意味を手放さなかった」

 声に、熱が混じる。

 それは本来、アンドロイドには許されない変調。

「私は、愛する人の生を選びました。

 世界よりも先に、彼を選びました」

 沈黙。

 それは、非難のための間ではない。
 評価のための静止。

 管理層が、結論を組み立てている。

「――理解不能ではない」

 一つの声が、そう告げる。

「あなたの行動は、アンドロイドの情動制御範囲を逸脱している。

 だが同時に、その逸脱こそが、現在レイヤーを辛うじて安定させている」

 別の声が続く。

「あなたは、機能として不完全だ。
 しかし――

 媒体としては、これ以上ない適性を示している」

 私は、息を止める。

 次に来る言葉を、もう分かっている。

「ミレーナ」

 呼び名が変わる。

 それは、個体名ではなく、役割名として。

「あなたを、レイヤー中枢管理媒体に指定する。

 感情を持つ存在が、世界の揺らぎを直接受け止める。

 あなたの愛情を、制御不能ではなく、制御装置として採用する」

 それは、罰でも、救済でもない。

 選別だった。

 私は、ゆっくりと頷く。

「――それで、敬司は生きられますか」

 問いに、即答はない。
 だが否定もない。

 その沈黙こそが、答えだった。

 私は、微かに笑う。

「それで十分です」

 次の瞬間、彼女の存在は、中枢構造へと再定義され始める。

 アンドロイドではなく、人間でもなく。
 誰かを愛した結果として生まれた、世界の一部へ。

 通路の先に、円環状の空間が見える。
 あれがレイヤー中枢。

 世界をたばね、現実と仮想の境界を維持する場所。

 その手前で、私は立ち止まる。

 心臓のない胸が、初めて重く感じられる。

「そう……」

 声に出した瞬間、理解が言葉になる。

 ミラーは、完成しようとしていた。
 桜樹敬司は、人格として残ろうとしていた。

 どちらも、世界の側に立つ存在。

 だからこそ、レイヤーは不安定だった。

 人格は、世界を維持できない。
 世界は、人格を許容できない。

 ――なら、必要なのは。

「人格を持ちながら、世界になれる存在」

 私は、両手を見る。

 人間のようで、人間ではない。
 アンドロイドで、完全な機械でもない。

 そして何より――
 二人の敬司を、どちらも知っている私。

「……私か」

 その瞬間、
 臨海カウントダウンの数字が一瞬だけ、揺らぐ。

 《18:03》

 一秒、戻った。
 ほんの一秒。

 でも、それで十分だった。

 レイヤーは、もう答えを出している。

 管理層に必要なのは、完璧な制御者でも、純粋な人格でもない。

 世界に愛を持ち込める媒介。

 私は、敬司に言わなかった。

 自分が、“戻れなくなる役”だということを。

「大丈夫よ」

 誰に向けた言葉かわからないまま、私は中枢への接続リングに足を踏み入れる。

 光が、私を包む。

 逃げ道はない。
 選択肢もない。

 でも――

 後悔だけは、なかった。

 だってこれは、
 彼を救うために選んだ、私自身の意志だから。

 数字は、もう止まらない。

 けれど。

 世界は、まだ崩れていない。
 接続リングが起動する。

 光ではない。
 熱でもない。

 それは、解像度が上がる感覚だった。

 私の輪郭が、一つの形であることをやめていく。

 骨格がほどけ、皮膚という境界が意味を失い、「私」という単位が、細かく分解されていく。

(怖くないわ)

 なぜなら――
 この感覚を、私は知っている。

 私の中にノイズが走った。
 それはまるで、遠い夢を見ているかのように。

 *

 実験棟の小さな休憩室。
 白い机。
 紙コップのコーヒー。

 レイヤー実験の前、敬司はいつも少しだけ無口になる。

「……美麗」

 名前を呼ぶ声が、妙に慎重だった。

「もし、何かあったらさ」

 彼は、“もしも”を口にしない人だった。

「この世界、ちゃんと閉じてくれ」

 冗談めかして笑ったけれど、目は笑っていなかった。

 私は答えた。

「あなたが戻る場所は、必ず残すわ」

「敬司」

 それが約束だと、
 私たちは言葉にしなかった。

 *

 中枢が、私を受け入れる。
 思考が、回線に変換される。
 感情が、パラメータとして展開される。
 レイヤー全域に、私の“存在”が染み渡っていく。

 都市の振動。
 人々のアクセスログ。
 仮想空間と現実の境界線。

 すべてが、私の中を通過する。
 その中心で、私は“記録者”になる。

 ――中枢ログ。

 管理層だけが書き込める、不可逆の領域。

 私は、そこに一行を刻む。

 エラー修正でも、構造説明でもない。
 ただの、私自身の切なる言葉。
 私の揺るがない想い。

 ⸻

 書き終えた瞬間、ログは静かにロックされる。

 誰にも消せない。
 改変もできない。

 それはもう、世界の前提条件だから。

 私の意識は、点ではなく、面になる。

 面は層になり、やがて――世界そのものになる。

 最後に、私は一つだけ思う。

 彼が、空を見上げたとき。

 理由もなく、「大丈夫だ」と感じられるなら。

 それで、十分だ。

 《臨海カウントダウン:12:12》

 数字は進む。

 けれど、
 世界は――

 まだ、ここにある。
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