あなたのいない世界であなたと生きる

駄文のヒロ

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第3章 真実

6、導かれて

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 『ログアウト』

 私が発したその言葉が、内部処理として確定した瞬間、世界は“色”を失った。

 まぶたを開くと、天井がある。
 現実世界の、白く冷たい照明。
 呼吸は――ある。
 肺が空気を取り込む感覚が、わずかに遅れて追いついてくるのが分かる。

 私は起き上がって、フロアの強化ガラス窓に反射する自分の体を目視する。

 顔だけを見れば、人間と区別はつかない。
 肩まで届く柔らかな髪はゆるくカールし、光を受けて自然な艶を帯びている。
 閉じられた瞼、艶のある唇、整った輪郭――

 ボディ外殻は滑らかな白色の装甲。
 医療機器のように清潔で、余分な装飾は一切ない。
 しかし関節部――肩、肘、手首、腰、膝――には外殻の隙間から、チタン合金の骨格と精密な駆動機構が露出している。

 人間の筋肉に相当する部分は、黒色のフレームと複合繊維の人工筋束。
 わずかな電流で、人の身体以上の精度と強さを発揮する。



(戻ってきたわ)

 《臨海カウントダウン:32:48》

 網膜投影の数字が、あわく点灯している。
 秒針は、すでに動き始めていた。

(……思ったより、余裕はないわね)

 ケーブルの接続を外す。
 後頭部のポートが静かにロック解除され、わずかな熱が引いていく。
 レイヤーとの完全遮断を確認する。

 一瞬だけ、胸の奥に“空白”が生まれるのを感じる。

(敬司)

 彼の存在が、ノイズのように意識に残っている。
 だが、立ち止まる時間はない。

 私はベッドから身を起こし、施設の非常通路へ向かう。
 警報は鳴っていない。


(まだ、管理層は私がログアウトしたことに気づいていない――はず)

 扉を抜け、外へ。

 夜明け前の空気は冷たく、やけに現実的だった。
 建物脇に停められた黒い車両に視線を向ける。

「……解除」

 声に反応し、電子キーが認証される。
 ドアロックが外れる音。

 この車も、私の権限の一部。
 世話係として与えられた、現実側の“手足”。

 エンジンを起動する。

 タワーは見えている。
 レイヤー中枢部を抱えた、あの異様に静かな建築物。

(あそこに入れば、もう後戻りはできないわね)

 私はハンドルを握りながら、ほんの一瞬だけ考える。

(――敬司は、今、何を思っているだろう)

 私が“媒体ばいたい”になることを、彼は知らない。

(知らないままでいいわ。
 ……知らないままで)

 それが、私の選択だから。

 アクセルを踏み込む。

 車は闇を切り裂き、タワーへ向かって走り出す。

 間に合うかどうかではない。

(必ず間に合わせてみせる)

 それが、
 彼を愛した私が選んだ、唯一の行動だった。

 エンジンを切ると、世界が急に遠ざかった。

 タワーの根元に設けられた地下駐車区画。
 照明は落とされ、非常灯だけが白い線を床に引いている。

 《臨海カウントダウン:25:32》

 フロントガラスに反射する数字を、私は見ない。
 見る必要がないから。

 ドアを開ける。
 冷えた空気が、人工皮膚の表面を撫でた。

 この身体は寒さを感じない。
 だけど、記憶がそれを“寒い”と解釈する。

 敬司と歩いたロンドンの夜。
 石畳の冷たさ。

(あのとき、彼は――)

「……今は、だめ」

 一瞬逡巡しゅんじゅんした思いを独り言で打ち消して、私は自分の思考を切る。

 車を離れ、タワーを見上げる。
 夜の空を切り取るように立つ、黒い柱。

 ここが、すべての始まりで、
 すべてを終わらせる場所。

 足音が、ひとつ。
 私のものだけ。

 警備員はいない。
 巡回ドローンも、停止している。

 それが異常だと理解していても、恐怖は生まれない。
 むしろ――

(歓迎されている)

 そう感じてしまう自分を、私は否定しない。

 正面玄関に近づく。
 ガラス越しに見えるロビーは、照明が落ち、静止している。

 自動扉の前で、立ち止まる。

 ここで引き返すこともできる。
 理論上は。

 私は、静かに息を吸う。
 吐く必要はないけれど、そうする。

 そして、指先を、わずかに持ち上げた。

 触れていない。
 けれど、認証は始まる。

 私の存在そのものが、鍵だから。

 一拍。

 二拍。

 ガラスの向こうで、ロビーの照明が一段階だけ明るくなった。

 低い駆動音。

 自動扉が――
 私を拒まず、静かに、開き始める。

 タワーの自動扉は、私を拒まなかった。

 認証音すら鳴らず、ただ“知っているものを通す”ように、静かに開く。

(なんだか――静かすぎる。
 私が来ることを想定しているのかしら?)

 ロビーは広い。
 ガラスと金属で構成された無機質な空間。
 人の気配が、ない。

 足音だけが、やけに大きく響く。

 視界の端で、数字が淡く脈打つ。
 それを無視するように、私は歩を進める。

 警備ドローンが一機も飛んでいない。
 受付端末も、スリープ状態のまま。

「……管理層が、引いた?」

 ありえない。
 この施設は、レイヤー中枢そのものだ。
 何かあれば、最初に固める場所。

 なのに――

 エレベーターホールに辿り着いた瞬間、
 背中に、わずかな違和感が走る。

(見られている)

 監視カメラは確かにある。
 だが、それ以上の“視線”。

 人間のものではない。

 私はゆっくりとエレベーターに乗り込む。
 行き先は最上層――中枢アクセスフロア。

 扉が閉まる。

 上昇が始まった、その時。

「――遅いな、ミレーナ」

 どこからともなく声がする。

 スピーカーではない。
 エレベーターの空間そのものに、直接流し込まれる声。

 管理層の、誰か。

 私は振り返らない。
 動揺する必要はない。

「そう?
 あなたたちが静かすぎるから」

 そう答えると、わずかに“笑い”の気配が混じった。

「気づいていたか。
 そうだ、これは“歓迎”だよ」

 歓迎。

 その言葉が、嫌な意味を帯びる。

「君がここに来ることは、計算内だ。
 ミラーも、桜樹も、すべて――」
「……いいえ」

 私は言葉を切る。

「あなたたちは、“結果”しか見ていない」

 一瞬、沈黙が走る。

 エレベーターは、規定階を無視して上昇を続けている。
 まるで、私を中枢へ“運ぶ”ためだけに存在しているかのように。

「人格統合は失敗する。
 人格の桜樹を残せば、レイヤーは不安定なままだ」

 管理層の声が、断定的に響く。

「だからこそ、選択肢は一つだった。
 どちらかを消す」

 私は、はっきりと言った。

「――違うわ」

 エレベーターが、減速する。

「あなたたちは、“器”を数式でしか見ない。
 でも私は知っている」

 エレベーターが停止する。

 衝撃はない。
 減速も、到着音もない。

 ただ、世界が止まった。

 《管理層最深部》

 表示がそう書き換わった瞬間、
 私は理解する。

 ――ここから先は、「階」ではない。

 扉の向こうにあるのは、空間ではなく、役割だ。
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