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第30話
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舞踏会の夜、私は銀と青を基調にしたドレスに身を包んだ。夜空に浮かぶ月を思わせる、静かな色合い。侍女たちが、お似合いですわ、と口々に褒めてくれたけれど、私の心は少しも弾まなかった。
最後に手渡されたのは、銀の縁取りが施された、上品な模様入りの半面仮面(ドミノマスク)。ひやりとした感触が、指先から伝わってくる。
「……馬鹿みたい」
鏡に映る自分は、まるで舞台役者のようだった。仮面で隠された目元の下で、唇が皮肉な形に歪む。
誰かを騙すための遊び。私はそう言ったけれど、今、この仮面をつけようとしている私自身が、一番の嘘つきじゃないか。
公爵令嬢という役割にうんざりしながら、その恩恵からは決して逃れようとしない。空を飛ぶ自由を望みながらも、自分で閉じた鳥かごの中から出る勇気が持てない。そんな自分を隠すための、これは絶好の道具なのかもしれない。
シュヴァルツ辺境伯の邸宅は、王都の貴族街から少し離れた新しく切り開かれた地区にあった。古い歴史を持つ公爵邸とは対照的な、いかにも『新しい』建物。
白い大理石をふんだんに使った広間は、これみよがしな金と紫の装飾で彩られている。天井からは巨大な水晶のシャンデリアが下がり、その光が磨き上げられた床に乱反射していた。壁際には異国の楽器を手にした楽団が陽気な音楽を奏で、フロアでは、様々なデザインの仮面をつけた男女が笑いさざめいている。
「すごい熱気だな」
隣を歩くセドリックが、少し目を丸くして言った。姉は面白そうに周りを見渡している。
「活気があっていいじゃない。古いだけの貴族たちにはない、勢いを感じるわ」
姉はすぐにこの場の空気に馴染んでしまったようだった。セドリックと共に、挨拶にやってくる人々とそつなく言葉を交わしている。私はといえば、二人の少し後ろで、借りてきた猫のようにおとなしくしているだけ。
誰かが話しかけてきても、仮面のおかげで当たり障りのない返事をするだけで済んだ。相手も私の顔が分からないし、私も相手の顔が分からない。それはある意味、とても気楽だった。
仮面に隠された顔の向こうで、人々は楽しげに笑っていた。
それは本心か、それとも演技か。
きっと、ここに集うのは誰もが、『仮面をつけるための理由』を持つ者たちなのだろう。家名を背負う者、野心を隠す者、あるいは、普段の自分とは違う何者かになりたい者。
私もまた、そうなのだと胸の中で呟いた。私も、この仮面の下に、臆病で、ひねくれて、どうしようもなく退屈している自分を隠している。
しばらくして、人の多さと、むせ返るような香水の匂いに、少し気分が悪くなってきた。姉たちに目配せをして、そっと広間を抜け出す。目指すはバルコニーだ。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていく。ああ、生き返る心地がする。王都のざわめきは遠くかすんで聞こえ、見下ろした先には、手をかけられた美しい庭が静かに息づいていた。ようやく一人になれた、と思わず息をついた。その時だった。
「ずいぶんと重たいため息だ」
すぐそばから、声がした。
驚いて振り返ると、バルコニーの隅、月光が作る影の中に、一人の男が立っていた。いつからそこにいたのだろう。全く気が付かなかった。
黒の格式高い装いに身を包んだ、背の高い男。顔の上半分は、真紅と黒で彩られた鳥の翼を思わせるデザインの仮面で覆われている。声は低く落ち着いているが、どこか挑発的な響きを帯びていた。
「……盗み聞きとは、良いご趣味ですこと」
最大限に皮肉を効かせて、静かに返した。心臓が、少しだけ速く脈打った。
男は動じない。むしろ、面白がるように唇の端を上げたのが、仮面の下からでも分かった。
最後に手渡されたのは、銀の縁取りが施された、上品な模様入りの半面仮面(ドミノマスク)。ひやりとした感触が、指先から伝わってくる。
「……馬鹿みたい」
鏡に映る自分は、まるで舞台役者のようだった。仮面で隠された目元の下で、唇が皮肉な形に歪む。
誰かを騙すための遊び。私はそう言ったけれど、今、この仮面をつけようとしている私自身が、一番の嘘つきじゃないか。
公爵令嬢という役割にうんざりしながら、その恩恵からは決して逃れようとしない。空を飛ぶ自由を望みながらも、自分で閉じた鳥かごの中から出る勇気が持てない。そんな自分を隠すための、これは絶好の道具なのかもしれない。
シュヴァルツ辺境伯の邸宅は、王都の貴族街から少し離れた新しく切り開かれた地区にあった。古い歴史を持つ公爵邸とは対照的な、いかにも『新しい』建物。
白い大理石をふんだんに使った広間は、これみよがしな金と紫の装飾で彩られている。天井からは巨大な水晶のシャンデリアが下がり、その光が磨き上げられた床に乱反射していた。壁際には異国の楽器を手にした楽団が陽気な音楽を奏で、フロアでは、様々なデザインの仮面をつけた男女が笑いさざめいている。
「すごい熱気だな」
隣を歩くセドリックが、少し目を丸くして言った。姉は面白そうに周りを見渡している。
「活気があっていいじゃない。古いだけの貴族たちにはない、勢いを感じるわ」
姉はすぐにこの場の空気に馴染んでしまったようだった。セドリックと共に、挨拶にやってくる人々とそつなく言葉を交わしている。私はといえば、二人の少し後ろで、借りてきた猫のようにおとなしくしているだけ。
誰かが話しかけてきても、仮面のおかげで当たり障りのない返事をするだけで済んだ。相手も私の顔が分からないし、私も相手の顔が分からない。それはある意味、とても気楽だった。
仮面に隠された顔の向こうで、人々は楽しげに笑っていた。
それは本心か、それとも演技か。
きっと、ここに集うのは誰もが、『仮面をつけるための理由』を持つ者たちなのだろう。家名を背負う者、野心を隠す者、あるいは、普段の自分とは違う何者かになりたい者。
私もまた、そうなのだと胸の中で呟いた。私も、この仮面の下に、臆病で、ひねくれて、どうしようもなく退屈している自分を隠している。
しばらくして、人の多さと、むせ返るような香水の匂いに、少し気分が悪くなってきた。姉たちに目配せをして、そっと広間を抜け出す。目指すはバルコニーだ。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていく。ああ、生き返る心地がする。王都のざわめきは遠くかすんで聞こえ、見下ろした先には、手をかけられた美しい庭が静かに息づいていた。ようやく一人になれた、と思わず息をついた。その時だった。
「ずいぶんと重たいため息だ」
すぐそばから、声がした。
驚いて振り返ると、バルコニーの隅、月光が作る影の中に、一人の男が立っていた。いつからそこにいたのだろう。全く気が付かなかった。
黒の格式高い装いに身を包んだ、背の高い男。顔の上半分は、真紅と黒で彩られた鳥の翼を思わせるデザインの仮面で覆われている。声は低く落ち着いているが、どこか挑発的な響きを帯びていた。
「……盗み聞きとは、良いご趣味ですこと」
最大限に皮肉を効かせて、静かに返した。心臓が、少しだけ速く脈打った。
男は動じない。むしろ、面白がるように唇の端を上げたのが、仮面の下からでも分かった。
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