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第29話
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日差しの色が変わり、風にかすかな季節の香りが混じり始めた。
ラベンダーと青リンデンの花の匂いが混じった甘い風が、開け放した窓から部屋に流れ込んでくる。もうそんな季節か、とぼんやり考えていた。その朝のことだった。
公爵邸に、一通の招待状が届いたのは。
鈍い光を放つ銀の皿に乗せられて運ばれてきたそれに、私は小さく眉を寄せた。
手紙を留める赤い印章には、見覚えのない紋章が彫られていた。盾の中に剣と黒い翼をあしらった、いささか威圧的なデザインだ。執事のウィルフォードが、品のある態度で、説明してくれる。
「アイラお嬢様、こちらはシュヴァルツ辺境伯家よりの招待状でございます」
「シュヴァルツ……?」
聞いたことのない家名に首を傾げる。ウィルフォードは心得たもので、すぐに補足してくれた。
「近年、東の国境地帯で急速に力を伸ばしておられる新興貴族にございます。鉱山経営と貿易で莫大な富を築き、最近、陛下より正式に叙爵されたとか」
「……なるほど。成り上がりの貴族、というわけね」
皮肉が口をついて出たのは、私の悪い癖だ。ぱかり、と乾いた音を立てて蝋の印が砕ける。中には分厚く仕立てられたカードが納まっていた。銀糸の装飾が美しいカードには、洗練された筆跡が、静かに紙の上で踊っていた。
「仮面舞踏会、ですって?」
思わず、といった感じで声が出た。招待状をひらひらと揺らしながら、私は吐き捨てるように言った。
「仮面で顔を隠すなんて、誰かを騙すための遊びでしょう。よくそんな見え透いた演技ができるものね、逆に感心するわ。そんなものに、由緒あるバランシュナイル公爵家の娘が出向く価値があるのかしら」
自分でも可愛くない物言いだと思う。公爵令嬢として、もっと穏やかに、もっと優雅に振る舞うべきなのだろう。けれど、分厚い壁に囲まれたこの屋敷で、完璧な令嬢を演じ続けるのは、時々ひどく息が詰まるのだ。
「逆よ、アイラ。仮面があるからこそ、本心を見せられる人もいるの」
凛とした涼やかな声。振り返ると、姉、クラリスが、ドアのそばに立っていた。軍事特区での長期任務から、つい昨日戻ったばかりだというのに、疲れの色一つ見せない。相変わらず、完璧な姉だ。
その隣には、これまた完璧な殿方が控えている。姉の婚約者である、セドリック。
「お姉様、セドリック様」
「アイラ。少し痩せたかしら?」
すたすたと部屋に入ってきた姉は、私の頬に軽く触れた。こういう気さくなところは、昔から変わらない。
「ええ、それより、その招待状のことだけれど」
「ああ、シュヴァルツ辺境伯の」
セドリックが、私の手の中のカードに目を留めて、穏やかに言った。
「新興貴族とはいえ、その勢力は無視できない。むしろ、これからの王国の力になるかもしれない家だ。この舞踏会には、各国の使節団も来るそうだ。公爵家の令嬢が顔を出さないのは、少々不自然かもしれないね」
「……政治的な意味合いが強い、ということですか」
「そういうこと。まあ、あまり難しく考えなくてもいいさ。ただの社交だよ」
セドリックは、そう言って笑うけれど、私にとって社交はいつだって戦場だ。完璧な微笑みという名の仮面を貼り付け、当たり障りのない会話を繰り返し、相手の腹を探り合う。そんなもの、楽しいわけがない。
「行って損はないわよ?」
姉は私の心を見透かしたように、悪戯っぽく笑った。
「素敵な殿方との出会いがあるかもしれないじゃない。何より、あなたの恋の物語が始まるかもしれないのだから」
「恋の、物語……?」
馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑ってやりたかった。この私に? 幼馴染に心を奪われていたオリバーの件もあるし、公爵令嬢という肩書にしか興味のない男たちに、うんざりしているこの私が?
けれど、姉のあまりに楽しそうな顔を見ていると、毒づく気も失せてしまう。姉はいつだって、私の知らない世界で、私にはないものを手に入れてくる。自信も、実績も、そして、愛する人も。
「……考えておくわ」
そう答えることで、自分を保とうとした。せめて、強く見せるために。
結局、私は姉とセドリックの巧みな言いくるめに負けて、その奇妙な舞踏会へ参加することになった。断固拒否するほどの強い理由もなかったし、何より、『公爵家の務め』という言葉を出されてしまえば、私はただ、受け入れるだけだった。
ラベンダーと青リンデンの花の匂いが混じった甘い風が、開け放した窓から部屋に流れ込んでくる。もうそんな季節か、とぼんやり考えていた。その朝のことだった。
公爵邸に、一通の招待状が届いたのは。
鈍い光を放つ銀の皿に乗せられて運ばれてきたそれに、私は小さく眉を寄せた。
手紙を留める赤い印章には、見覚えのない紋章が彫られていた。盾の中に剣と黒い翼をあしらった、いささか威圧的なデザインだ。執事のウィルフォードが、品のある態度で、説明してくれる。
「アイラお嬢様、こちらはシュヴァルツ辺境伯家よりの招待状でございます」
「シュヴァルツ……?」
聞いたことのない家名に首を傾げる。ウィルフォードは心得たもので、すぐに補足してくれた。
「近年、東の国境地帯で急速に力を伸ばしておられる新興貴族にございます。鉱山経営と貿易で莫大な富を築き、最近、陛下より正式に叙爵されたとか」
「……なるほど。成り上がりの貴族、というわけね」
皮肉が口をついて出たのは、私の悪い癖だ。ぱかり、と乾いた音を立てて蝋の印が砕ける。中には分厚く仕立てられたカードが納まっていた。銀糸の装飾が美しいカードには、洗練された筆跡が、静かに紙の上で踊っていた。
「仮面舞踏会、ですって?」
思わず、といった感じで声が出た。招待状をひらひらと揺らしながら、私は吐き捨てるように言った。
「仮面で顔を隠すなんて、誰かを騙すための遊びでしょう。よくそんな見え透いた演技ができるものね、逆に感心するわ。そんなものに、由緒あるバランシュナイル公爵家の娘が出向く価値があるのかしら」
自分でも可愛くない物言いだと思う。公爵令嬢として、もっと穏やかに、もっと優雅に振る舞うべきなのだろう。けれど、分厚い壁に囲まれたこの屋敷で、完璧な令嬢を演じ続けるのは、時々ひどく息が詰まるのだ。
「逆よ、アイラ。仮面があるからこそ、本心を見せられる人もいるの」
凛とした涼やかな声。振り返ると、姉、クラリスが、ドアのそばに立っていた。軍事特区での長期任務から、つい昨日戻ったばかりだというのに、疲れの色一つ見せない。相変わらず、完璧な姉だ。
その隣には、これまた完璧な殿方が控えている。姉の婚約者である、セドリック。
「お姉様、セドリック様」
「アイラ。少し痩せたかしら?」
すたすたと部屋に入ってきた姉は、私の頬に軽く触れた。こういう気さくなところは、昔から変わらない。
「ええ、それより、その招待状のことだけれど」
「ああ、シュヴァルツ辺境伯の」
セドリックが、私の手の中のカードに目を留めて、穏やかに言った。
「新興貴族とはいえ、その勢力は無視できない。むしろ、これからの王国の力になるかもしれない家だ。この舞踏会には、各国の使節団も来るそうだ。公爵家の令嬢が顔を出さないのは、少々不自然かもしれないね」
「……政治的な意味合いが強い、ということですか」
「そういうこと。まあ、あまり難しく考えなくてもいいさ。ただの社交だよ」
セドリックは、そう言って笑うけれど、私にとって社交はいつだって戦場だ。完璧な微笑みという名の仮面を貼り付け、当たり障りのない会話を繰り返し、相手の腹を探り合う。そんなもの、楽しいわけがない。
「行って損はないわよ?」
姉は私の心を見透かしたように、悪戯っぽく笑った。
「素敵な殿方との出会いがあるかもしれないじゃない。何より、あなたの恋の物語が始まるかもしれないのだから」
「恋の、物語……?」
馬鹿馬鹿しい、と鼻で笑ってやりたかった。この私に? 幼馴染に心を奪われていたオリバーの件もあるし、公爵令嬢という肩書にしか興味のない男たちに、うんざりしているこの私が?
けれど、姉のあまりに楽しそうな顔を見ていると、毒づく気も失せてしまう。姉はいつだって、私の知らない世界で、私にはないものを手に入れてくる。自信も、実績も、そして、愛する人も。
「……考えておくわ」
そう答えることで、自分を保とうとした。せめて、強く見せるために。
結局、私は姉とセドリックの巧みな言いくるめに負けて、その奇妙な舞踏会へ参加することになった。断固拒否するほどの強い理由もなかったし、何より、『公爵家の務め』という言葉を出されてしまえば、私はただ、受け入れるだけだった。
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