30 / 83
第30話
しおりを挟む
舞踏会の夜、私は銀と青を基調にしたドレスに身を包んだ。夜空に浮かぶ月を思わせる、静かな色合い。侍女たちが、お似合いですわ、と口々に褒めてくれたけれど、私の心は少しも弾まなかった。
最後に手渡されたのは、銀の縁取りが施された、上品な模様入りの半面仮面(ドミノマスク)。ひやりとした感触が、指先から伝わってくる。
「……馬鹿みたい」
鏡に映る自分は、まるで舞台役者のようだった。仮面で隠された目元の下で、唇が皮肉な形に歪む。
誰かを騙すための遊び。私はそう言ったけれど、今、この仮面をつけようとしている私自身が、一番の嘘つきじゃないか。
公爵令嬢という役割にうんざりしながら、その恩恵からは決して逃れようとしない。空を飛ぶ自由を望みながらも、自分で閉じた鳥かごの中から出る勇気が持てない。そんな自分を隠すための、これは絶好の道具なのかもしれない。
シュヴァルツ辺境伯の邸宅は、王都の貴族街から少し離れた新しく切り開かれた地区にあった。古い歴史を持つ公爵邸とは対照的な、いかにも『新しい』建物。
白い大理石をふんだんに使った広間は、これみよがしな金と紫の装飾で彩られている。天井からは巨大な水晶のシャンデリアが下がり、その光が磨き上げられた床に乱反射していた。壁際には異国の楽器を手にした楽団が陽気な音楽を奏で、フロアでは、様々なデザインの仮面をつけた男女が笑いさざめいている。
「すごい熱気だな」
隣を歩くセドリックが、少し目を丸くして言った。姉は面白そうに周りを見渡している。
「活気があっていいじゃない。古いだけの貴族たちにはない、勢いを感じるわ」
姉はすぐにこの場の空気に馴染んでしまったようだった。セドリックと共に、挨拶にやってくる人々とそつなく言葉を交わしている。私はといえば、二人の少し後ろで、借りてきた猫のようにおとなしくしているだけ。
誰かが話しかけてきても、仮面のおかげで当たり障りのない返事をするだけで済んだ。相手も私の顔が分からないし、私も相手の顔が分からない。それはある意味、とても気楽だった。
仮面に隠された顔の向こうで、人々は楽しげに笑っていた。
それは本心か、それとも演技か。
きっと、ここに集うのは誰もが、『仮面をつけるための理由』を持つ者たちなのだろう。家名を背負う者、野心を隠す者、あるいは、普段の自分とは違う何者かになりたい者。
私もまた、そうなのだと胸の中で呟いた。私も、この仮面の下に、臆病で、ひねくれて、どうしようもなく退屈している自分を隠している。
しばらくして、人の多さと、むせ返るような香水の匂いに、少し気分が悪くなってきた。姉たちに目配せをして、そっと広間を抜け出す。目指すはバルコニーだ。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていく。ああ、生き返る心地がする。王都のざわめきは遠くかすんで聞こえ、見下ろした先には、手をかけられた美しい庭が静かに息づいていた。ようやく一人になれた、と思わず息をついた。その時だった。
「ずいぶんと重たいため息だ」
すぐそばから、声がした。
驚いて振り返ると、バルコニーの隅、月光が作る影の中に、一人の男が立っていた。いつからそこにいたのだろう。全く気が付かなかった。
黒の格式高い装いに身を包んだ、背の高い男。顔の上半分は、真紅と黒で彩られた鳥の翼を思わせるデザインの仮面で覆われている。声は低く落ち着いているが、どこか挑発的な響きを帯びていた。
「……盗み聞きとは、良いご趣味ですこと」
最大限に皮肉を効かせて、静かに返した。心臓が、少しだけ速く脈打った。
男は動じない。むしろ、面白がるように唇の端を上げたのが、仮面の下からでも分かった。
最後に手渡されたのは、銀の縁取りが施された、上品な模様入りの半面仮面(ドミノマスク)。ひやりとした感触が、指先から伝わってくる。
「……馬鹿みたい」
鏡に映る自分は、まるで舞台役者のようだった。仮面で隠された目元の下で、唇が皮肉な形に歪む。
誰かを騙すための遊び。私はそう言ったけれど、今、この仮面をつけようとしている私自身が、一番の嘘つきじゃないか。
公爵令嬢という役割にうんざりしながら、その恩恵からは決して逃れようとしない。空を飛ぶ自由を望みながらも、自分で閉じた鳥かごの中から出る勇気が持てない。そんな自分を隠すための、これは絶好の道具なのかもしれない。
シュヴァルツ辺境伯の邸宅は、王都の貴族街から少し離れた新しく切り開かれた地区にあった。古い歴史を持つ公爵邸とは対照的な、いかにも『新しい』建物。
白い大理石をふんだんに使った広間は、これみよがしな金と紫の装飾で彩られている。天井からは巨大な水晶のシャンデリアが下がり、その光が磨き上げられた床に乱反射していた。壁際には異国の楽器を手にした楽団が陽気な音楽を奏で、フロアでは、様々なデザインの仮面をつけた男女が笑いさざめいている。
「すごい熱気だな」
隣を歩くセドリックが、少し目を丸くして言った。姉は面白そうに周りを見渡している。
「活気があっていいじゃない。古いだけの貴族たちにはない、勢いを感じるわ」
姉はすぐにこの場の空気に馴染んでしまったようだった。セドリックと共に、挨拶にやってくる人々とそつなく言葉を交わしている。私はといえば、二人の少し後ろで、借りてきた猫のようにおとなしくしているだけ。
誰かが話しかけてきても、仮面のおかげで当たり障りのない返事をするだけで済んだ。相手も私の顔が分からないし、私も相手の顔が分からない。それはある意味、とても気楽だった。
仮面に隠された顔の向こうで、人々は楽しげに笑っていた。
それは本心か、それとも演技か。
きっと、ここに集うのは誰もが、『仮面をつけるための理由』を持つ者たちなのだろう。家名を背負う者、野心を隠す者、あるいは、普段の自分とは違う何者かになりたい者。
私もまた、そうなのだと胸の中で呟いた。私も、この仮面の下に、臆病で、ひねくれて、どうしようもなく退屈している自分を隠している。
しばらくして、人の多さと、むせ返るような香水の匂いに、少し気分が悪くなってきた。姉たちに目配せをして、そっと広間を抜け出す。目指すはバルコニーだ。
ひんやりとした夜風が、火照った頬を撫でていく。ああ、生き返る心地がする。王都のざわめきは遠くかすんで聞こえ、見下ろした先には、手をかけられた美しい庭が静かに息づいていた。ようやく一人になれた、と思わず息をついた。その時だった。
「ずいぶんと重たいため息だ」
すぐそばから、声がした。
驚いて振り返ると、バルコニーの隅、月光が作る影の中に、一人の男が立っていた。いつからそこにいたのだろう。全く気が付かなかった。
黒の格式高い装いに身を包んだ、背の高い男。顔の上半分は、真紅と黒で彩られた鳥の翼を思わせるデザインの仮面で覆われている。声は低く落ち着いているが、どこか挑発的な響きを帯びていた。
「……盗み聞きとは、良いご趣味ですこと」
最大限に皮肉を効かせて、静かに返した。心臓が、少しだけ速く脈打った。
男は動じない。むしろ、面白がるように唇の端を上げたのが、仮面の下からでも分かった。
1,051
あなたにおすすめの小説
妹と王子殿下は両想いのようなので、私は身を引かせてもらいます。
木山楽斗
恋愛
侯爵令嬢であるラナシアは、第三王子との婚約を喜んでいた。
民を重んじるというラナシアの考えに彼は同調しており、良き夫婦になれると彼女は考えていたのだ。
しかしその期待は、呆気なく裏切られることになった。
第三王子は心の中では民を見下しており、ラナシアの妹と結託して侯爵家を手に入れようとしていたのである。
婚約者の本性を知ったラナシアは、二人の計画を止めるべく行動を開始した。
そこで彼女は、公爵と平民との間にできた妾の子の公爵令息ジオルトと出会う。
その出自故に第三王子と対立している彼は、ラナシアに協力を申し出てきた。
半ば強引なその申し出をラナシアが受け入れたことで、二人は協力関係となる。
二人は王家や公爵家、侯爵家の協力を取り付けながら、着々と準備を進めた。
その結果、妹と第三王子が計画を実行するよりも前に、ラナシアとジオルトの作戦が始まったのだった。
【完結】私ではなく義妹を選んだ婚約者様
水月 潮
恋愛
セリーヌ・ヴォクレール伯爵令嬢はイアン・クレマン子爵令息と婚約している。
セリーヌは留学から帰国した翌日、イアンからセリーヌと婚約解消して、セリーヌの義妹のミリィと新たに婚約すると告げられる。
セリーヌが外国に短期留学で留守にしている間、彼らは接触し、二人の間には子までいるそうだ。
セリーヌの父もミリィの母もミリィとイアンが婚約することに大賛成で、二人でヴォクレール伯爵家を盛り立てて欲しいとのこと。
お父様、あなたお忘れなの? ヴォクレール伯爵家は亡くなった私のお母様の実家であり、お父様、ひいてはミリィには伯爵家に関する権利なんて何一つないことを。
※設定は緩いので、物語としてお楽しみ頂けたらと思います
※最終話まで執筆済み
完結保証です
*HOTランキング10位↑到達(2021.6.30)
感謝です*.*
HOTランキング2位(2021.7.1)
「誰もお前なんか愛さない」と笑われたけど、隣国の王が即プロポーズしてきました
ゆっこ
恋愛
「アンナ・リヴィエール、貴様との婚約は、今日をもって破棄する!」
王城の大広間に響いた声を、私は冷静に見つめていた。
誰よりも愛していた婚約者、レオンハルト王太子が、冷たい笑みを浮かべて私を断罪する。
「お前は地味で、つまらなくて、礼儀ばかりの女だ。華もない。……誰もお前なんか愛さないさ」
笑い声が響く。
取り巻きの令嬢たちが、まるで待っていたかのように口元を隠して嘲笑した。
胸が痛んだ。
けれど涙は出なかった。もう、心が乾いていたからだ。
捨てた私をもう一度拾うおつもりですか?
ミィタソ
恋愛
「みんな聞いてくれ! 今日をもって、エルザ・ローグアシュタルとの婚約を破棄する! そして、その妹——アイリス・ローグアシュタルと正式に婚約することを決めた! 今日という祝いの日に、みんなに伝えることができ、嬉しく思う……」
ローグアシュタル公爵家の長女――エルザは、マクーン・ザルカンド王子の誕生日記念パーティーで婚約破棄を言い渡される。
それどころか、王子の横には舌を出して笑うエルザの妹――アイリスの姿が。
傷心を癒すため、父親の勧めで隣国へ行くのだが……
【完結】私に可愛げが無くなったから、離縁して使用人として雇いたい? 王妃修行で自立した私は離縁だけさせてもらいます。
西東友一
恋愛
私も始めは世間知らずの無垢な少女でした。
それをレオナード王子は可愛いと言って大層可愛がってくださいました。
大した家柄でもない貴族の私を娶っていただいた時には天にも昇る想いでした。
だから、貴方様をお慕いしていた私は王妃としてこの国をよくしようと礼儀作法から始まり、国政に関わることまで勉強し、全てを把握するよう努めてまいりました。それも、貴方様と私の未来のため。
・・・なのに。
貴方様は、愛人と床を一緒にするようになりました。
貴方様に理由を聞いたら、「可愛げが無くなったのが悪い」ですって?
愛がない結婚生活などいりませんので、離縁させていただきます。
そう、申し上げたら貴方様は―――
婚約破棄にはなりました。が、それはあなたの「ため」じゃなく、あなたの「せい」です。
百谷シカ
恋愛
「君がふしだらなせいだろう。当然、この婚約は破棄させてもらう」
私はシェルヴェン伯爵令嬢ルート・ユングクヴィスト。
この通りリンドホルム伯爵エドガー・メシュヴィツに婚約破棄された。
でも、決して私はふしだらなんかじゃない。
濡れ衣だ。
私はある人物につきまとわれている。
イスフェルト侯爵令息フィリップ・ビルト。
彼は私に一方的な好意を寄せ、この半年、あらゆる接触をしてきた。
「君と出会い、恋に落ちた。これは運命だ! 君もそう思うよね?」
「おやめください。私には婚約者がいます……!」
「関係ない! その男じゃなく、僕こそが君の愛すべき人だよ!」
愛していると、彼は言う。
これは運命なんだと、彼は言う。
そして運命は、私の未来を破壊した。
「さあ! 今こそ結婚しよう!!」
「いや……っ!!」
誰も助けてくれない。
父と兄はフィリップ卿から逃れるため、私を修道院に入れると決めた。
そんなある日。
思いがけない求婚が舞い込んでくる。
「便宜上の結婚だ。私の妻となれば、奴も手出しできないだろう」
ランデル公爵ゴトフリート閣下。
彼は愛情も跡継ぎも求めず、ただ人助けのために私を妻にした。
これは形だけの結婚に、ゆっくりと愛が育まれていく物語。
「役立たず」と婚約破棄されたけれど、私の価値に気づいたのは国中であなた一人だけでしたね?
ゆっこ
恋愛
「――リリアーヌ、お前との婚約は今日限りで破棄する」
王城の謁見の間。高い天井に声が響いた。
そう告げたのは、私の婚約者である第二王子アレクシス殿下だった。
周囲の貴族たちがくすくすと笑うのが聞こえる。彼らは、殿下の隣に寄り添う美しい茶髪の令嬢――伯爵令嬢ミリアが勝ち誇ったように微笑んでいるのを見て、もうすべてを察していた。
「理由は……何でしょうか?」
私は静かに問う。
幼馴染と仲良くし過ぎている婚約者とは婚約破棄したい!
ルイス
恋愛
ダイダロス王国の侯爵令嬢であるエレナは、リグリット公爵令息と婚約をしていた。
同じ18歳ということで話も合い、仲睦まじいカップルだったが……。
そこに現れたリグリットの幼馴染の伯爵令嬢の存在。リグリットは幼馴染を優先し始める。
あまりにも度が過ぎるので、エレナは不満を口にするが……リグリットは今までの優しい彼からは豹変し、権力にものを言わせ、エレナを束縛し始めた。
「婚約破棄なんてしたら、どうなるか分かっているな?」
その時、エレナは分かってしまったのだ。リグリットは自分の侯爵令嬢の地位だけにしか興味がないことを……。
そんな彼女の前に現れたのは、幼馴染のヨハン王子殿下だった。エレナの状況を理解し、ヨハンは動いてくれることを約束してくれる。
正式な婚約破棄の申し出をするエレナに対し、激怒するリグリットだったが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる