31 / 83
第31話
しおりを挟む
「聞こえてしまったものは仕方がないだろう? それに、君の瞳がそうさせている」
「私の、瞳?」
何を言っているのだろう、この男は。腹の内を探るように、彼をじっと見返す。彼はゆっくりと影から一歩踏み出し、月明かりの下にその姿を現した。
「……その目。仮面越しでも、嘘がつけない目をしている」
深い黒の仮面の隙間から、鋭い光がのぞく。そのまなざしに、胸の奥が一瞬で静かになった。私は息を呑むしかなかった。
嘘がつけない目、ですって? 今までそんなことを言われたことなんて、一度もなかった。誰もが私の目を見て、ただ『バランシュナイル公爵令嬢』という記号しか読み取らなかったのに。
この男は、違う。まるで、仮面どころか、私の心の奥まで見透かしているような。
動揺を悟られまいと、私はわざとらしく笑ってみせた。
「まあ、お上手。誰にでも、そんな、甘い言葉をかけているのですか?」
「“誰にでも”じゃない。君だけが”特別”に決まってる」
即座に返ってきた言葉に、私は思わず口ごもった。
なんだろう、この感じ。まるで、言葉の剣で軽く突き合っているような。肌を撫でるような静かな電流と、甘く張りつめた空気。それは心地よい緊張だった。
退屈な社交の場では決して味わえない感覚だった。
彼は私の反応を楽しんでいるかのように、低く笑みを含ませたような声が、喉の奥からこぼれる。その声が、やけに色っぽく耳に響く。
「ここは息が詰まる。そうだろう?」
「……ええ、まあ」
「見せかけの笑顔と、腹の探り合い。面白いと思う者もいるだろうが、俺はごめんだ」
まるで私の心を代弁するかのような言葉に、驚いて彼を見た。
「あなたも、そう思って?」
「でなければ、こんな場所に一人でいるものか」
彼はそう言って、手すりに肘をついた。その横顔は、仮面で隠されていても、驚くほど端正なのが分かった。すっと通った鼻筋、引き結ばれた唇。そして、仮面の隙間から見える、夜の闇よりも深い色の髪。
どうしてだろう。会ったばかりの、名前も知らない男なのに、昔から知っているような不思議な感覚がした。
「少し、気分が良くなりましたわ。ありがとう」
「それは良かった」
言葉のないひとときが訪れた。それは気まずさではなく、静かな共鳴のようだった。隣に誰かがいるのに、一人でいる時のような安らぎがあった。夜風が私たちの間を通り過ぎていく。
不意に、広間から流れてくる音楽が、優雅なワルツに変わった。
「……会場に、戻らないと」
姉たちが心配しているかもしれない。そう思って立ち去ろうとした、その時だった。
「一曲、いかがですか」
彼が、私に向かって手を差し出した。白い手袋に包まれた、大きな手。
そのあまりに突然の申し出に、私は軽やかにまばたきを返した。
「……ここで?」
「いや、せっかくなら音楽のある場所で」
彼は悪戯っぽく笑うと、私の返事を待たずに広間へと歩き出す。私はまるで何かに引かれるように、彼の後をついていった。
にぎわいの中へ舞い戻ったはずなのに、不思議と胸の重さは感じなかった。
フロアの中心で、彼はもう一度、優雅な仕草で手を差し出す。周囲では、たくさんの貴族たちが楽しげにワルツを踊っている。けれど、私の目には、目の前の彼しか映らなかった。
まるで、私たち二人だけが、分厚いガラスで仕切られた別の空間にいるみたいだった。
そっと、彼の手を取る。指先が触れた瞬間、ほのかな電流のようなものが走った。彼のもう片方の手が、慣れた仕草で私の腰に回される。ぐっと引き寄せられ、彼の胸元にすっぽりと収まってしまった。上品な木の香りが、そっと鼻をかすめた。心臓が、やかましいくらいに鳴っている。
音楽に合わせて、私たちの体がゆっくりと動き出す。
彼のリードは完璧だった。私が次にどう動けばいいのか、まるで分かっているかのように導いてくれる。一歩、また一歩とステップを踏むたびに、私の体から余計な力が抜けていくのが分かった。
始めは緊張でこわばっていたのに、いつの間にか、私はこの不思議な安らぎに身を預けていた。くるりとターンをさせられる。視界の端で、シャンデリアの光がきらめいて流れていった。
「私の、瞳?」
何を言っているのだろう、この男は。腹の内を探るように、彼をじっと見返す。彼はゆっくりと影から一歩踏み出し、月明かりの下にその姿を現した。
「……その目。仮面越しでも、嘘がつけない目をしている」
深い黒の仮面の隙間から、鋭い光がのぞく。そのまなざしに、胸の奥が一瞬で静かになった。私は息を呑むしかなかった。
嘘がつけない目、ですって? 今までそんなことを言われたことなんて、一度もなかった。誰もが私の目を見て、ただ『バランシュナイル公爵令嬢』という記号しか読み取らなかったのに。
この男は、違う。まるで、仮面どころか、私の心の奥まで見透かしているような。
動揺を悟られまいと、私はわざとらしく笑ってみせた。
「まあ、お上手。誰にでも、そんな、甘い言葉をかけているのですか?」
「“誰にでも”じゃない。君だけが”特別”に決まってる」
即座に返ってきた言葉に、私は思わず口ごもった。
なんだろう、この感じ。まるで、言葉の剣で軽く突き合っているような。肌を撫でるような静かな電流と、甘く張りつめた空気。それは心地よい緊張だった。
退屈な社交の場では決して味わえない感覚だった。
彼は私の反応を楽しんでいるかのように、低く笑みを含ませたような声が、喉の奥からこぼれる。その声が、やけに色っぽく耳に響く。
「ここは息が詰まる。そうだろう?」
「……ええ、まあ」
「見せかけの笑顔と、腹の探り合い。面白いと思う者もいるだろうが、俺はごめんだ」
まるで私の心を代弁するかのような言葉に、驚いて彼を見た。
「あなたも、そう思って?」
「でなければ、こんな場所に一人でいるものか」
彼はそう言って、手すりに肘をついた。その横顔は、仮面で隠されていても、驚くほど端正なのが分かった。すっと通った鼻筋、引き結ばれた唇。そして、仮面の隙間から見える、夜の闇よりも深い色の髪。
どうしてだろう。会ったばかりの、名前も知らない男なのに、昔から知っているような不思議な感覚がした。
「少し、気分が良くなりましたわ。ありがとう」
「それは良かった」
言葉のないひとときが訪れた。それは気まずさではなく、静かな共鳴のようだった。隣に誰かがいるのに、一人でいる時のような安らぎがあった。夜風が私たちの間を通り過ぎていく。
不意に、広間から流れてくる音楽が、優雅なワルツに変わった。
「……会場に、戻らないと」
姉たちが心配しているかもしれない。そう思って立ち去ろうとした、その時だった。
「一曲、いかがですか」
彼が、私に向かって手を差し出した。白い手袋に包まれた、大きな手。
そのあまりに突然の申し出に、私は軽やかにまばたきを返した。
「……ここで?」
「いや、せっかくなら音楽のある場所で」
彼は悪戯っぽく笑うと、私の返事を待たずに広間へと歩き出す。私はまるで何かに引かれるように、彼の後をついていった。
にぎわいの中へ舞い戻ったはずなのに、不思議と胸の重さは感じなかった。
フロアの中心で、彼はもう一度、優雅な仕草で手を差し出す。周囲では、たくさんの貴族たちが楽しげにワルツを踊っている。けれど、私の目には、目の前の彼しか映らなかった。
まるで、私たち二人だけが、分厚いガラスで仕切られた別の空間にいるみたいだった。
そっと、彼の手を取る。指先が触れた瞬間、ほのかな電流のようなものが走った。彼のもう片方の手が、慣れた仕草で私の腰に回される。ぐっと引き寄せられ、彼の胸元にすっぽりと収まってしまった。上品な木の香りが、そっと鼻をかすめた。心臓が、やかましいくらいに鳴っている。
音楽に合わせて、私たちの体がゆっくりと動き出す。
彼のリードは完璧だった。私が次にどう動けばいいのか、まるで分かっているかのように導いてくれる。一歩、また一歩とステップを踏むたびに、私の体から余計な力が抜けていくのが分かった。
始めは緊張でこわばっていたのに、いつの間にか、私はこの不思議な安らぎに身を預けていた。くるりとターンをさせられる。視界の端で、シャンデリアの光がきらめいて流れていった。
1,022
あなたにおすすめの小説
妹と王子殿下は両想いのようなので、私は身を引かせてもらいます。
木山楽斗
恋愛
侯爵令嬢であるラナシアは、第三王子との婚約を喜んでいた。
民を重んじるというラナシアの考えに彼は同調しており、良き夫婦になれると彼女は考えていたのだ。
しかしその期待は、呆気なく裏切られることになった。
第三王子は心の中では民を見下しており、ラナシアの妹と結託して侯爵家を手に入れようとしていたのである。
婚約者の本性を知ったラナシアは、二人の計画を止めるべく行動を開始した。
そこで彼女は、公爵と平民との間にできた妾の子の公爵令息ジオルトと出会う。
その出自故に第三王子と対立している彼は、ラナシアに協力を申し出てきた。
半ば強引なその申し出をラナシアが受け入れたことで、二人は協力関係となる。
二人は王家や公爵家、侯爵家の協力を取り付けながら、着々と準備を進めた。
その結果、妹と第三王子が計画を実行するよりも前に、ラナシアとジオルトの作戦が始まったのだった。
捨てた私をもう一度拾うおつもりですか?
ミィタソ
恋愛
「みんな聞いてくれ! 今日をもって、エルザ・ローグアシュタルとの婚約を破棄する! そして、その妹——アイリス・ローグアシュタルと正式に婚約することを決めた! 今日という祝いの日に、みんなに伝えることができ、嬉しく思う……」
ローグアシュタル公爵家の長女――エルザは、マクーン・ザルカンド王子の誕生日記念パーティーで婚約破棄を言い渡される。
それどころか、王子の横には舌を出して笑うエルザの妹――アイリスの姿が。
傷心を癒すため、父親の勧めで隣国へ行くのだが……
【完結】私ではなく義妹を選んだ婚約者様
水月 潮
恋愛
セリーヌ・ヴォクレール伯爵令嬢はイアン・クレマン子爵令息と婚約している。
セリーヌは留学から帰国した翌日、イアンからセリーヌと婚約解消して、セリーヌの義妹のミリィと新たに婚約すると告げられる。
セリーヌが外国に短期留学で留守にしている間、彼らは接触し、二人の間には子までいるそうだ。
セリーヌの父もミリィの母もミリィとイアンが婚約することに大賛成で、二人でヴォクレール伯爵家を盛り立てて欲しいとのこと。
お父様、あなたお忘れなの? ヴォクレール伯爵家は亡くなった私のお母様の実家であり、お父様、ひいてはミリィには伯爵家に関する権利なんて何一つないことを。
※設定は緩いので、物語としてお楽しみ頂けたらと思います
※最終話まで執筆済み
完結保証です
*HOTランキング10位↑到達(2021.6.30)
感謝です*.*
HOTランキング2位(2021.7.1)
「誰もお前なんか愛さない」と笑われたけど、隣国の王が即プロポーズしてきました
ゆっこ
恋愛
「アンナ・リヴィエール、貴様との婚約は、今日をもって破棄する!」
王城の大広間に響いた声を、私は冷静に見つめていた。
誰よりも愛していた婚約者、レオンハルト王太子が、冷たい笑みを浮かべて私を断罪する。
「お前は地味で、つまらなくて、礼儀ばかりの女だ。華もない。……誰もお前なんか愛さないさ」
笑い声が響く。
取り巻きの令嬢たちが、まるで待っていたかのように口元を隠して嘲笑した。
胸が痛んだ。
けれど涙は出なかった。もう、心が乾いていたからだ。
婚約破棄された令嬢のささやかな幸福
香木陽灯
恋愛
田舎の伯爵令嬢アリシア・ローデンには婚約者がいた。
しかし婚約者とアリシアの妹が不貞を働き、子を身ごもったのだという。
「結婚は家同士の繋がり。二人が結ばれるなら私は身を引きましょう。どうぞお幸せに」
婚約破棄されたアリシアは潔く身を引くことにした。
婚約破棄という烙印が押された以上、もう結婚は出来ない。
ならば一人で生きていくだけ。
アリシアは王都の外れにある小さな家を買い、そこで暮らし始める。
「あぁ、最高……ここなら一人で自由に暮らせるわ!」
初めての一人暮らしを満喫するアリシア。
趣味だった刺繍で生計が立てられるようになった頃……。
「アリシア、頼むから戻って来てくれ! 俺と結婚してくれ……!」
何故か元婚約者がやってきて頭を下げたのだ。
しかし丁重にお断りした翌日、
「お姉様、お願いだから戻ってきてください! あいつの相手はお姉様じゃなきゃ無理です……!」
妹までもがやってくる始末。
しかしアリシアは微笑んで首を横に振るばかり。
「私はもう結婚する気も家に戻る気もありませんの。どうぞお幸せに」
家族や婚約者は知らないことだったが、実はアリシアは幸せな生活を送っていたのだった。
【完結】私に可愛げが無くなったから、離縁して使用人として雇いたい? 王妃修行で自立した私は離縁だけさせてもらいます。
西東友一
恋愛
私も始めは世間知らずの無垢な少女でした。
それをレオナード王子は可愛いと言って大層可愛がってくださいました。
大した家柄でもない貴族の私を娶っていただいた時には天にも昇る想いでした。
だから、貴方様をお慕いしていた私は王妃としてこの国をよくしようと礼儀作法から始まり、国政に関わることまで勉強し、全てを把握するよう努めてまいりました。それも、貴方様と私の未来のため。
・・・なのに。
貴方様は、愛人と床を一緒にするようになりました。
貴方様に理由を聞いたら、「可愛げが無くなったのが悪い」ですって?
愛がない結婚生活などいりませんので、離縁させていただきます。
そう、申し上げたら貴方様は―――
婚約破棄にはなりました。が、それはあなたの「ため」じゃなく、あなたの「せい」です。
百谷シカ
恋愛
「君がふしだらなせいだろう。当然、この婚約は破棄させてもらう」
私はシェルヴェン伯爵令嬢ルート・ユングクヴィスト。
この通りリンドホルム伯爵エドガー・メシュヴィツに婚約破棄された。
でも、決して私はふしだらなんかじゃない。
濡れ衣だ。
私はある人物につきまとわれている。
イスフェルト侯爵令息フィリップ・ビルト。
彼は私に一方的な好意を寄せ、この半年、あらゆる接触をしてきた。
「君と出会い、恋に落ちた。これは運命だ! 君もそう思うよね?」
「おやめください。私には婚約者がいます……!」
「関係ない! その男じゃなく、僕こそが君の愛すべき人だよ!」
愛していると、彼は言う。
これは運命なんだと、彼は言う。
そして運命は、私の未来を破壊した。
「さあ! 今こそ結婚しよう!!」
「いや……っ!!」
誰も助けてくれない。
父と兄はフィリップ卿から逃れるため、私を修道院に入れると決めた。
そんなある日。
思いがけない求婚が舞い込んでくる。
「便宜上の結婚だ。私の妻となれば、奴も手出しできないだろう」
ランデル公爵ゴトフリート閣下。
彼は愛情も跡継ぎも求めず、ただ人助けのために私を妻にした。
これは形だけの結婚に、ゆっくりと愛が育まれていく物語。
「役立たず」と婚約破棄されたけれど、私の価値に気づいたのは国中であなた一人だけでしたね?
ゆっこ
恋愛
「――リリアーヌ、お前との婚約は今日限りで破棄する」
王城の謁見の間。高い天井に声が響いた。
そう告げたのは、私の婚約者である第二王子アレクシス殿下だった。
周囲の貴族たちがくすくすと笑うのが聞こえる。彼らは、殿下の隣に寄り添う美しい茶髪の令嬢――伯爵令嬢ミリアが勝ち誇ったように微笑んでいるのを見て、もうすべてを察していた。
「理由は……何でしょうか?」
私は静かに問う。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる