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第31話
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「聞こえてしまったものは仕方がないだろう? それに、君の瞳がそうさせている」
「私の、瞳?」
何を言っているのだろう、この男は。腹の内を探るように、彼をじっと見返す。彼はゆっくりと影から一歩踏み出し、月明かりの下にその姿を現した。
「……その目。仮面越しでも、嘘がつけない目をしている」
深い黒の仮面の隙間から、鋭い光がのぞく。そのまなざしに、胸の奥が一瞬で静かになった。私は息を呑むしかなかった。
嘘がつけない目、ですって? 今までそんなことを言われたことなんて、一度もなかった。誰もが私の目を見て、ただ『バランシュナイル公爵令嬢』という記号しか読み取らなかったのに。
この男は、違う。まるで、仮面どころか、私の心の奥まで見透かしているような。
動揺を悟られまいと、私はわざとらしく笑ってみせた。
「まあ、お上手。誰にでも、そんな、甘い言葉をかけているのですか?」
「“誰にでも”じゃない。君だけが”特別”に決まってる」
即座に返ってきた言葉に、私は思わず口ごもった。
なんだろう、この感じ。まるで、言葉の剣で軽く突き合っているような。肌を撫でるような静かな電流と、甘く張りつめた空気。それは心地よい緊張だった。
退屈な社交の場では決して味わえない感覚だった。
彼は私の反応を楽しんでいるかのように、低く笑みを含ませたような声が、喉の奥からこぼれる。その声が、やけに色っぽく耳に響く。
「ここは息が詰まる。そうだろう?」
「……ええ、まあ」
「見せかけの笑顔と、腹の探り合い。面白いと思う者もいるだろうが、俺はごめんだ」
まるで私の心を代弁するかのような言葉に、驚いて彼を見た。
「あなたも、そう思って?」
「でなければ、こんな場所に一人でいるものか」
彼はそう言って、手すりに肘をついた。その横顔は、仮面で隠されていても、驚くほど端正なのが分かった。すっと通った鼻筋、引き結ばれた唇。そして、仮面の隙間から見える、夜の闇よりも深い色の髪。
どうしてだろう。会ったばかりの、名前も知らない男なのに、昔から知っているような不思議な感覚がした。
「少し、気分が良くなりましたわ。ありがとう」
「それは良かった」
言葉のないひとときが訪れた。それは気まずさではなく、静かな共鳴のようだった。隣に誰かがいるのに、一人でいる時のような安らぎがあった。夜風が私たちの間を通り過ぎていく。
不意に、広間から流れてくる音楽が、優雅なワルツに変わった。
「……会場に、戻らないと」
姉たちが心配しているかもしれない。そう思って立ち去ろうとした、その時だった。
「一曲、いかがですか」
彼が、私に向かって手を差し出した。白い手袋に包まれた、大きな手。
そのあまりに突然の申し出に、私は軽やかにまばたきを返した。
「……ここで?」
「いや、せっかくなら音楽のある場所で」
彼は悪戯っぽく笑うと、私の返事を待たずに広間へと歩き出す。私はまるで何かに引かれるように、彼の後をついていった。
にぎわいの中へ舞い戻ったはずなのに、不思議と胸の重さは感じなかった。
フロアの中心で、彼はもう一度、優雅な仕草で手を差し出す。周囲では、たくさんの貴族たちが楽しげにワルツを踊っている。けれど、私の目には、目の前の彼しか映らなかった。
まるで、私たち二人だけが、分厚いガラスで仕切られた別の空間にいるみたいだった。
そっと、彼の手を取る。指先が触れた瞬間、ほのかな電流のようなものが走った。彼のもう片方の手が、慣れた仕草で私の腰に回される。ぐっと引き寄せられ、彼の胸元にすっぽりと収まってしまった。上品な木の香りが、そっと鼻をかすめた。心臓が、やかましいくらいに鳴っている。
音楽に合わせて、私たちの体がゆっくりと動き出す。
彼のリードは完璧だった。私が次にどう動けばいいのか、まるで分かっているかのように導いてくれる。一歩、また一歩とステップを踏むたびに、私の体から余計な力が抜けていくのが分かった。
始めは緊張でこわばっていたのに、いつの間にか、私はこの不思議な安らぎに身を預けていた。くるりとターンをさせられる。視界の端で、シャンデリアの光がきらめいて流れていった。
「私の、瞳?」
何を言っているのだろう、この男は。腹の内を探るように、彼をじっと見返す。彼はゆっくりと影から一歩踏み出し、月明かりの下にその姿を現した。
「……その目。仮面越しでも、嘘がつけない目をしている」
深い黒の仮面の隙間から、鋭い光がのぞく。そのまなざしに、胸の奥が一瞬で静かになった。私は息を呑むしかなかった。
嘘がつけない目、ですって? 今までそんなことを言われたことなんて、一度もなかった。誰もが私の目を見て、ただ『バランシュナイル公爵令嬢』という記号しか読み取らなかったのに。
この男は、違う。まるで、仮面どころか、私の心の奥まで見透かしているような。
動揺を悟られまいと、私はわざとらしく笑ってみせた。
「まあ、お上手。誰にでも、そんな、甘い言葉をかけているのですか?」
「“誰にでも”じゃない。君だけが”特別”に決まってる」
即座に返ってきた言葉に、私は思わず口ごもった。
なんだろう、この感じ。まるで、言葉の剣で軽く突き合っているような。肌を撫でるような静かな電流と、甘く張りつめた空気。それは心地よい緊張だった。
退屈な社交の場では決して味わえない感覚だった。
彼は私の反応を楽しんでいるかのように、低く笑みを含ませたような声が、喉の奥からこぼれる。その声が、やけに色っぽく耳に響く。
「ここは息が詰まる。そうだろう?」
「……ええ、まあ」
「見せかけの笑顔と、腹の探り合い。面白いと思う者もいるだろうが、俺はごめんだ」
まるで私の心を代弁するかのような言葉に、驚いて彼を見た。
「あなたも、そう思って?」
「でなければ、こんな場所に一人でいるものか」
彼はそう言って、手すりに肘をついた。その横顔は、仮面で隠されていても、驚くほど端正なのが分かった。すっと通った鼻筋、引き結ばれた唇。そして、仮面の隙間から見える、夜の闇よりも深い色の髪。
どうしてだろう。会ったばかりの、名前も知らない男なのに、昔から知っているような不思議な感覚がした。
「少し、気分が良くなりましたわ。ありがとう」
「それは良かった」
言葉のないひとときが訪れた。それは気まずさではなく、静かな共鳴のようだった。隣に誰かがいるのに、一人でいる時のような安らぎがあった。夜風が私たちの間を通り過ぎていく。
不意に、広間から流れてくる音楽が、優雅なワルツに変わった。
「……会場に、戻らないと」
姉たちが心配しているかもしれない。そう思って立ち去ろうとした、その時だった。
「一曲、いかがですか」
彼が、私に向かって手を差し出した。白い手袋に包まれた、大きな手。
そのあまりに突然の申し出に、私は軽やかにまばたきを返した。
「……ここで?」
「いや、せっかくなら音楽のある場所で」
彼は悪戯っぽく笑うと、私の返事を待たずに広間へと歩き出す。私はまるで何かに引かれるように、彼の後をついていった。
にぎわいの中へ舞い戻ったはずなのに、不思議と胸の重さは感じなかった。
フロアの中心で、彼はもう一度、優雅な仕草で手を差し出す。周囲では、たくさんの貴族たちが楽しげにワルツを踊っている。けれど、私の目には、目の前の彼しか映らなかった。
まるで、私たち二人だけが、分厚いガラスで仕切られた別の空間にいるみたいだった。
そっと、彼の手を取る。指先が触れた瞬間、ほのかな電流のようなものが走った。彼のもう片方の手が、慣れた仕草で私の腰に回される。ぐっと引き寄せられ、彼の胸元にすっぽりと収まってしまった。上品な木の香りが、そっと鼻をかすめた。心臓が、やかましいくらいに鳴っている。
音楽に合わせて、私たちの体がゆっくりと動き出す。
彼のリードは完璧だった。私が次にどう動けばいいのか、まるで分かっているかのように導いてくれる。一歩、また一歩とステップを踏むたびに、私の体から余計な力が抜けていくのが分かった。
始めは緊張でこわばっていたのに、いつの間にか、私はこの不思議な安らぎに身を預けていた。くるりとターンをさせられる。視界の端で、シャンデリアの光がきらめいて流れていった。
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