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第29話 判断を誤る音は、静かに響きますわね
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第29話 判断を誤る音は、静かに響きますわね
王都では、はっきりとした破綻の兆しが、目に見えない形で積み重なり始めていた。
王太子アレクシオスの決裁は、この数日、誰の目にもおかしかった。
即断が多い。
理由を聞かない。
説明を求められると苛立つ。
そして何より――後から修正がきかない。
「殿下、こちらの案件ですが……先日の裁可と矛盾しております」
執務室で、側近が恐る恐る書類を差し出す。
王太子は、机に肘をつき、片手でこめかみを押さえたまま、視線だけを向けた。
「……どこがだ」
「関税を下げるとお決めになった翌日に、国内保護を強化する布告を……」
「だから?」
短く、苛立った声。
「どちらも必要だと思った。それだけだ」
側近は息を呑んだ。
必要かどうかを判断するための思考が、もう成立していない。
だが、それを指摘する勇気を持つ者はいない。
「殿下……これは、商会にも混乱が……」
「混乱するのは、対応が遅いからだ」
王太子は、引き出しに手を伸ばす。
中から取り出したのは、例のチョコレート。
側近の視線が、一瞬、そこに吸い寄せられる。
「……殿下」
「黙れ」
噛みしめるような声だった。
王太子は、チョコを口に入れる。
甘さが広がり、歯の奥に鋭い痛みが走る。
一瞬、眉が歪むが、それもすぐに消えた。
「……ほらな」
誰に向けるでもなく呟く。
「問題ない」
だが、その直後、彼は書類を逆さに持ったまま、署名をしていた。
それに気づいたのは、部屋を出てからだ。
王都では、その日を境に、不可解な決定が続いた。
商会への補助金が急に打ち切られたかと思えば、翌日には再開される。
軍備予算が削減された直後に、新たな装備計画が発表される。
同盟国への使節が派遣されたかと思えば、理由もなく召還される。
どれも、単独なら調整可能な問題だった。
だが同時に起きれば、話は別だ。
「王太子殿下の判断が、読めない……」
貴族たちの間で、そうした声が囁かれ始める。
決して、公にはならない。
だが、水面下では確実に評価が下がっていた。
一方、ファーレ領。
午後のテラスで、エオリア・フロステリアは、クッションに埋もれるように横になっていた。
「……今日は、少し静かすぎますわね」
そう言いながら、チョコを一欠片、口に入れる。
甘さは安定している。
香りも、口溶けも、申し分ない。
「作りすぎましたか?」
ライルが控えめに尋ねる。
「ええ。でも問題ありませんわ」
「売りますか?」
「そのうち」
気のない返事だった。
「急ぐ理由がありませんもの」
彼女にとって、時間は敵ではない。
快適さを保てる限り、何もかも後回しでいい。
その頃、王城では。
王太子が会議の席で、唐突に立ち上がった。
「……もういい。今日は、ここまでだ」
「殿下、まだ議題が――」
「頭が痛い」
それだけで、会議は打ち切られた。
残された者たちは、顔を見合わせる。
判断が止まるということは、国が止まるということだ。
その夜、側近の一人が、ついに口にした。
「……殿下は、もう、限界ではないか」
誰も否定しなかった。
歯の痛み。
甘味への依存。
慢性的な集中力の低下。
それらが絡み合い、王太子アレクシオスという存在を、静かに蝕んでいる。
だが本人だけは、気づいていない。
いや、気づかないふりをしている。
「……明日も、同じでいい」
私室で、チョコを口に運びながら、彼はそう呟いた。
同じでいいはずがないことを、
もう誰もが理解していた。
ファーレ領では、エオリアが昼寝から目を覚ました。
「……あら、もう夕方ですの」
伸びをして、のんびりと起き上がる。
「今日も、特に問題はありませんでしたわね」
彼女の一日は、何一つ変わらない。
だが王都では、確実に、歯車が噛み合わなくなっていた。
その音は小さく、静かで、
しかし、致命的だった。
王都では、はっきりとした破綻の兆しが、目に見えない形で積み重なり始めていた。
王太子アレクシオスの決裁は、この数日、誰の目にもおかしかった。
即断が多い。
理由を聞かない。
説明を求められると苛立つ。
そして何より――後から修正がきかない。
「殿下、こちらの案件ですが……先日の裁可と矛盾しております」
執務室で、側近が恐る恐る書類を差し出す。
王太子は、机に肘をつき、片手でこめかみを押さえたまま、視線だけを向けた。
「……どこがだ」
「関税を下げるとお決めになった翌日に、国内保護を強化する布告を……」
「だから?」
短く、苛立った声。
「どちらも必要だと思った。それだけだ」
側近は息を呑んだ。
必要かどうかを判断するための思考が、もう成立していない。
だが、それを指摘する勇気を持つ者はいない。
「殿下……これは、商会にも混乱が……」
「混乱するのは、対応が遅いからだ」
王太子は、引き出しに手を伸ばす。
中から取り出したのは、例のチョコレート。
側近の視線が、一瞬、そこに吸い寄せられる。
「……殿下」
「黙れ」
噛みしめるような声だった。
王太子は、チョコを口に入れる。
甘さが広がり、歯の奥に鋭い痛みが走る。
一瞬、眉が歪むが、それもすぐに消えた。
「……ほらな」
誰に向けるでもなく呟く。
「問題ない」
だが、その直後、彼は書類を逆さに持ったまま、署名をしていた。
それに気づいたのは、部屋を出てからだ。
王都では、その日を境に、不可解な決定が続いた。
商会への補助金が急に打ち切られたかと思えば、翌日には再開される。
軍備予算が削減された直後に、新たな装備計画が発表される。
同盟国への使節が派遣されたかと思えば、理由もなく召還される。
どれも、単独なら調整可能な問題だった。
だが同時に起きれば、話は別だ。
「王太子殿下の判断が、読めない……」
貴族たちの間で、そうした声が囁かれ始める。
決して、公にはならない。
だが、水面下では確実に評価が下がっていた。
一方、ファーレ領。
午後のテラスで、エオリア・フロステリアは、クッションに埋もれるように横になっていた。
「……今日は、少し静かすぎますわね」
そう言いながら、チョコを一欠片、口に入れる。
甘さは安定している。
香りも、口溶けも、申し分ない。
「作りすぎましたか?」
ライルが控えめに尋ねる。
「ええ。でも問題ありませんわ」
「売りますか?」
「そのうち」
気のない返事だった。
「急ぐ理由がありませんもの」
彼女にとって、時間は敵ではない。
快適さを保てる限り、何もかも後回しでいい。
その頃、王城では。
王太子が会議の席で、唐突に立ち上がった。
「……もういい。今日は、ここまでだ」
「殿下、まだ議題が――」
「頭が痛い」
それだけで、会議は打ち切られた。
残された者たちは、顔を見合わせる。
判断が止まるということは、国が止まるということだ。
その夜、側近の一人が、ついに口にした。
「……殿下は、もう、限界ではないか」
誰も否定しなかった。
歯の痛み。
甘味への依存。
慢性的な集中力の低下。
それらが絡み合い、王太子アレクシオスという存在を、静かに蝕んでいる。
だが本人だけは、気づいていない。
いや、気づかないふりをしている。
「……明日も、同じでいい」
私室で、チョコを口に運びながら、彼はそう呟いた。
同じでいいはずがないことを、
もう誰もが理解していた。
ファーレ領では、エオリアが昼寝から目を覚ました。
「……あら、もう夕方ですの」
伸びをして、のんびりと起き上がる。
「今日も、特に問題はありませんでしたわね」
彼女の一日は、何一つ変わらない。
だが王都では、確実に、歯車が噛み合わなくなっていた。
その音は小さく、静かで、
しかし、致命的だった。
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