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第28話 痛みは、判断力を奪いますわね
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第28話 痛みは、判断力を奪いますわね
王城の朝は、静かに始まるはずだった。
だが、その静けさは、王太子アレクシオスの私室には存在しない。彼は夜明け前から目を覚まし、額に浮かぶ汗を乱暴に拭っていた。
「……っ、く……」
歯の奥が、脈打つたびに痛む。
鈍く、重く、逃げ場のない痛みだ。
医師の言葉が、頭の片隅をよぎる。
このままでは神経まで侵される。早急な治療が必要だ、と。
「……大げさだ」
呟きながら、王太子は引き出しを開けた。
中にあるのは、いつものチョコレート。
痛みがある。
だからこそ、甘さが欲しい。
そう考えること自体が、すでに歪んでいるとは気づかないまま、彼は一欠片を口に入れた。
甘さが広がる。
同時に、鋭い痛みが走る。
「……っ!」
一瞬、視界が揺れた。
だが次の瞬間、脳がじんわりと満たされる。
安心感。
逃避。
「……ほらな」
誰に向けるでもなく、そう呟いた。
痛みはあるが、耐えられる。
耐えられるのだから、問題ではない。
それが、彼の中での結論だった。
その日の政務は、混乱を極めた。
謁見の時間を二度間違え、
同じ書類に三度署名し、
報告書の数字を読み違えた。
「殿下、こちらの条項ですが……」
「……ああ、うむ」
側近の説明を、王太子は途中で遮る。
「それでいい。進めろ」
「ですが、それは昨日とは真逆の判断で――」
「いいと言っている」
声が荒くなる。
苛立ちの理由が、痛みなのか、空腹なのか、甘味への渇望なのか、自分でもわからなくなっていた。
側近は言葉を飲み込んだ。
目の前の主は、確実に鈍っている。
だが、それを指摘すれば、激怒を招く。
誰もが、気づいていた。
王太子の判断は、以前より遅く、浅く、粗い。
だが原因が「虫歯」だとは、口に出せなかった。
一方、ファーレ領。
昼下がりのテラスで、エオリア・フロステリアは椅子に身を預け、冷やしたチョコレートを静かに味わっていた。
「……今日は、少し香りが弱いですわね」
「気温は安定していますが……」
ライルが首を傾げる。
「問題ありませんわ。味というのは、作り手の状態も反映しますもの」
「……エオリア様は、体調が?」
「いいえ。わたくしは快適です」
即答だった。
エアコン魔法で温度は一定。
湿度も完璧。
騒音もない。
「なら、なぜ……?」
「たぶん」
エオリアは、空を見上げる。
「遠くで、誰かが無理をしていますわね」
意味ありげな言葉だったが、それ以上の説明はなかった。
彼女は、残りのチョコを一口で食べきる。
「美味しいですけれど……焦って食べる味ではありません」
その頃、王城では。
王太子が激しい痛みに耐えながら、重要な会議に出席していた。
議題は、隣国との通商条件の見直し。
本来なら、慎重な交渉が必要な場だ。
「では、関税率については……」
「下げろ」
唐突な一言。
会議室が静まり返る。
「……殿下?」
「下げればいい。面倒だ」
側近が青ざめた。
「ですが、それでは国内産業が――」
「うるさい」
王太子は、こめかみを押さえる。
「頭が痛い。早く終わらせろ」
それが、決定だった。
その場にいた誰もが悟った。
この人は、今、まともな判断ができていない。
だが、王太子自身だけが、それに気づいていない。
夜。
私室に戻った彼は、机に突っ伏し、荒い息を吐いた。
歯の痛みは、もはや波ではなく、常にそこにあった。
「……まだだ」
それでも、手は伸びる。
チョコレートへ。
甘さは、確かに、痛みを忘れさせてくれる。
一瞬だけ。
だが、その代償として、
思考は鈍り、
判断は崩れ、
王太子としての資質は、静かに削られていく。
ファーレ領では、エオリアが穏やかに昼寝をしていた。
何も知らず、
何もせず、
ただ、自分の快適さだけを守りながら。
そして、その差は、
もう、取り返しのつかないところまで、広がり始めていた。
王城の朝は、静かに始まるはずだった。
だが、その静けさは、王太子アレクシオスの私室には存在しない。彼は夜明け前から目を覚まし、額に浮かぶ汗を乱暴に拭っていた。
「……っ、く……」
歯の奥が、脈打つたびに痛む。
鈍く、重く、逃げ場のない痛みだ。
医師の言葉が、頭の片隅をよぎる。
このままでは神経まで侵される。早急な治療が必要だ、と。
「……大げさだ」
呟きながら、王太子は引き出しを開けた。
中にあるのは、いつものチョコレート。
痛みがある。
だからこそ、甘さが欲しい。
そう考えること自体が、すでに歪んでいるとは気づかないまま、彼は一欠片を口に入れた。
甘さが広がる。
同時に、鋭い痛みが走る。
「……っ!」
一瞬、視界が揺れた。
だが次の瞬間、脳がじんわりと満たされる。
安心感。
逃避。
「……ほらな」
誰に向けるでもなく、そう呟いた。
痛みはあるが、耐えられる。
耐えられるのだから、問題ではない。
それが、彼の中での結論だった。
その日の政務は、混乱を極めた。
謁見の時間を二度間違え、
同じ書類に三度署名し、
報告書の数字を読み違えた。
「殿下、こちらの条項ですが……」
「……ああ、うむ」
側近の説明を、王太子は途中で遮る。
「それでいい。進めろ」
「ですが、それは昨日とは真逆の判断で――」
「いいと言っている」
声が荒くなる。
苛立ちの理由が、痛みなのか、空腹なのか、甘味への渇望なのか、自分でもわからなくなっていた。
側近は言葉を飲み込んだ。
目の前の主は、確実に鈍っている。
だが、それを指摘すれば、激怒を招く。
誰もが、気づいていた。
王太子の判断は、以前より遅く、浅く、粗い。
だが原因が「虫歯」だとは、口に出せなかった。
一方、ファーレ領。
昼下がりのテラスで、エオリア・フロステリアは椅子に身を預け、冷やしたチョコレートを静かに味わっていた。
「……今日は、少し香りが弱いですわね」
「気温は安定していますが……」
ライルが首を傾げる。
「問題ありませんわ。味というのは、作り手の状態も反映しますもの」
「……エオリア様は、体調が?」
「いいえ。わたくしは快適です」
即答だった。
エアコン魔法で温度は一定。
湿度も完璧。
騒音もない。
「なら、なぜ……?」
「たぶん」
エオリアは、空を見上げる。
「遠くで、誰かが無理をしていますわね」
意味ありげな言葉だったが、それ以上の説明はなかった。
彼女は、残りのチョコを一口で食べきる。
「美味しいですけれど……焦って食べる味ではありません」
その頃、王城では。
王太子が激しい痛みに耐えながら、重要な会議に出席していた。
議題は、隣国との通商条件の見直し。
本来なら、慎重な交渉が必要な場だ。
「では、関税率については……」
「下げろ」
唐突な一言。
会議室が静まり返る。
「……殿下?」
「下げればいい。面倒だ」
側近が青ざめた。
「ですが、それでは国内産業が――」
「うるさい」
王太子は、こめかみを押さえる。
「頭が痛い。早く終わらせろ」
それが、決定だった。
その場にいた誰もが悟った。
この人は、今、まともな判断ができていない。
だが、王太子自身だけが、それに気づいていない。
夜。
私室に戻った彼は、机に突っ伏し、荒い息を吐いた。
歯の痛みは、もはや波ではなく、常にそこにあった。
「……まだだ」
それでも、手は伸びる。
チョコレートへ。
甘さは、確かに、痛みを忘れさせてくれる。
一瞬だけ。
だが、その代償として、
思考は鈍り、
判断は崩れ、
王太子としての資質は、静かに削られていく。
ファーレ領では、エオリアが穏やかに昼寝をしていた。
何も知らず、
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ただ、自分の快適さだけを守りながら。
そして、その差は、
もう、取り返しのつかないところまで、広がり始めていた。
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