29 / 40
第29話 判断を誤る音は、静かに響きますわね
しおりを挟む
第29話 判断を誤る音は、静かに響きますわね
王都では、はっきりとした破綻の兆しが、目に見えない形で積み重なり始めていた。
王太子アレクシオスの決裁は、この数日、誰の目にもおかしかった。
即断が多い。
理由を聞かない。
説明を求められると苛立つ。
そして何より――後から修正がきかない。
「殿下、こちらの案件ですが……先日の裁可と矛盾しております」
執務室で、側近が恐る恐る書類を差し出す。
王太子は、机に肘をつき、片手でこめかみを押さえたまま、視線だけを向けた。
「……どこがだ」
「関税を下げるとお決めになった翌日に、国内保護を強化する布告を……」
「だから?」
短く、苛立った声。
「どちらも必要だと思った。それだけだ」
側近は息を呑んだ。
必要かどうかを判断するための思考が、もう成立していない。
だが、それを指摘する勇気を持つ者はいない。
「殿下……これは、商会にも混乱が……」
「混乱するのは、対応が遅いからだ」
王太子は、引き出しに手を伸ばす。
中から取り出したのは、例のチョコレート。
側近の視線が、一瞬、そこに吸い寄せられる。
「……殿下」
「黙れ」
噛みしめるような声だった。
王太子は、チョコを口に入れる。
甘さが広がり、歯の奥に鋭い痛みが走る。
一瞬、眉が歪むが、それもすぐに消えた。
「……ほらな」
誰に向けるでもなく呟く。
「問題ない」
だが、その直後、彼は書類を逆さに持ったまま、署名をしていた。
それに気づいたのは、部屋を出てからだ。
王都では、その日を境に、不可解な決定が続いた。
商会への補助金が急に打ち切られたかと思えば、翌日には再開される。
軍備予算が削減された直後に、新たな装備計画が発表される。
同盟国への使節が派遣されたかと思えば、理由もなく召還される。
どれも、単独なら調整可能な問題だった。
だが同時に起きれば、話は別だ。
「王太子殿下の判断が、読めない……」
貴族たちの間で、そうした声が囁かれ始める。
決して、公にはならない。
だが、水面下では確実に評価が下がっていた。
一方、ファーレ領。
午後のテラスで、エオリア・フロステリアは、クッションに埋もれるように横になっていた。
「……今日は、少し静かすぎますわね」
そう言いながら、チョコを一欠片、口に入れる。
甘さは安定している。
香りも、口溶けも、申し分ない。
「作りすぎましたか?」
ライルが控えめに尋ねる。
「ええ。でも問題ありませんわ」
「売りますか?」
「そのうち」
気のない返事だった。
「急ぐ理由がありませんもの」
彼女にとって、時間は敵ではない。
快適さを保てる限り、何もかも後回しでいい。
その頃、王城では。
王太子が会議の席で、唐突に立ち上がった。
「……もういい。今日は、ここまでだ」
「殿下、まだ議題が――」
「頭が痛い」
それだけで、会議は打ち切られた。
残された者たちは、顔を見合わせる。
判断が止まるということは、国が止まるということだ。
その夜、側近の一人が、ついに口にした。
「……殿下は、もう、限界ではないか」
誰も否定しなかった。
歯の痛み。
甘味への依存。
慢性的な集中力の低下。
それらが絡み合い、王太子アレクシオスという存在を、静かに蝕んでいる。
だが本人だけは、気づいていない。
いや、気づかないふりをしている。
「……明日も、同じでいい」
私室で、チョコを口に運びながら、彼はそう呟いた。
同じでいいはずがないことを、
もう誰もが理解していた。
ファーレ領では、エオリアが昼寝から目を覚ました。
「……あら、もう夕方ですの」
伸びをして、のんびりと起き上がる。
「今日も、特に問題はありませんでしたわね」
彼女の一日は、何一つ変わらない。
だが王都では、確実に、歯車が噛み合わなくなっていた。
その音は小さく、静かで、
しかし、致命的だった。
王都では、はっきりとした破綻の兆しが、目に見えない形で積み重なり始めていた。
王太子アレクシオスの決裁は、この数日、誰の目にもおかしかった。
即断が多い。
理由を聞かない。
説明を求められると苛立つ。
そして何より――後から修正がきかない。
「殿下、こちらの案件ですが……先日の裁可と矛盾しております」
執務室で、側近が恐る恐る書類を差し出す。
王太子は、机に肘をつき、片手でこめかみを押さえたまま、視線だけを向けた。
「……どこがだ」
「関税を下げるとお決めになった翌日に、国内保護を強化する布告を……」
「だから?」
短く、苛立った声。
「どちらも必要だと思った。それだけだ」
側近は息を呑んだ。
必要かどうかを判断するための思考が、もう成立していない。
だが、それを指摘する勇気を持つ者はいない。
「殿下……これは、商会にも混乱が……」
「混乱するのは、対応が遅いからだ」
王太子は、引き出しに手を伸ばす。
中から取り出したのは、例のチョコレート。
側近の視線が、一瞬、そこに吸い寄せられる。
「……殿下」
「黙れ」
噛みしめるような声だった。
王太子は、チョコを口に入れる。
甘さが広がり、歯の奥に鋭い痛みが走る。
一瞬、眉が歪むが、それもすぐに消えた。
「……ほらな」
誰に向けるでもなく呟く。
「問題ない」
だが、その直後、彼は書類を逆さに持ったまま、署名をしていた。
それに気づいたのは、部屋を出てからだ。
王都では、その日を境に、不可解な決定が続いた。
商会への補助金が急に打ち切られたかと思えば、翌日には再開される。
軍備予算が削減された直後に、新たな装備計画が発表される。
同盟国への使節が派遣されたかと思えば、理由もなく召還される。
どれも、単独なら調整可能な問題だった。
だが同時に起きれば、話は別だ。
「王太子殿下の判断が、読めない……」
貴族たちの間で、そうした声が囁かれ始める。
決して、公にはならない。
だが、水面下では確実に評価が下がっていた。
一方、ファーレ領。
午後のテラスで、エオリア・フロステリアは、クッションに埋もれるように横になっていた。
「……今日は、少し静かすぎますわね」
そう言いながら、チョコを一欠片、口に入れる。
甘さは安定している。
香りも、口溶けも、申し分ない。
「作りすぎましたか?」
ライルが控えめに尋ねる。
「ええ。でも問題ありませんわ」
「売りますか?」
「そのうち」
気のない返事だった。
「急ぐ理由がありませんもの」
彼女にとって、時間は敵ではない。
快適さを保てる限り、何もかも後回しでいい。
その頃、王城では。
王太子が会議の席で、唐突に立ち上がった。
「……もういい。今日は、ここまでだ」
「殿下、まだ議題が――」
「頭が痛い」
それだけで、会議は打ち切られた。
残された者たちは、顔を見合わせる。
判断が止まるということは、国が止まるということだ。
その夜、側近の一人が、ついに口にした。
「……殿下は、もう、限界ではないか」
誰も否定しなかった。
歯の痛み。
甘味への依存。
慢性的な集中力の低下。
それらが絡み合い、王太子アレクシオスという存在を、静かに蝕んでいる。
だが本人だけは、気づいていない。
いや、気づかないふりをしている。
「……明日も、同じでいい」
私室で、チョコを口に運びながら、彼はそう呟いた。
同じでいいはずがないことを、
もう誰もが理解していた。
ファーレ領では、エオリアが昼寝から目を覚ました。
「……あら、もう夕方ですの」
伸びをして、のんびりと起き上がる。
「今日も、特に問題はありませんでしたわね」
彼女の一日は、何一つ変わらない。
だが王都では、確実に、歯車が噛み合わなくなっていた。
その音は小さく、静かで、
しかし、致命的だった。
0
あなたにおすすめの小説
愛を騙るな
篠月珪霞
恋愛
「王妃よ、そなた一体何が不満だというのだ」
「………」
「贅を尽くした食事、ドレス、宝石、アクセサリー、部屋の調度も最高品質のもの。王妃という地位も用意した。およそ世の女性が望むものすべてを手に入れているというのに、何が不満だというのだ!」
王妃は表情を変えない。何を言っても宥めてもすかしても脅しても変わらない王妃に、苛立った王は声を荒げる。
「何とか言わぬか! 不敬だぞ!」
「……でしたら、牢に入れるなり、処罰するなりお好きに」
「い、いや、それはできぬ」
「何故? 陛下の望むままなさればよろしい」
「余は、そなたを愛しているのだ。愛するものにそのような仕打ち、到底考えられぬ」
途端、王妃の嘲る笑い声が響く。
「畜生にも劣る陛下が、愛を騙るなどおこがましいですわね」
婚約破棄のススメ!王子の「真実の愛」見つけて差し上げます
パリパリかぷちーの
恋愛
公爵令嬢メロア・クレーベルの隣には、非の打ち所がない完璧すぎる婚約者、ジークハルト王子が君臨している。このまま結婚すれば、待っているのは「王妃教育」と「終わらない公務」という名の過労死コース……。
「嫌ですわ! わたくし、絶対に婚約破棄して隠居してみせますわ!」
決意したメロアは、入学したての学園で、王子の「真実の愛の相手(ヒロイン)」を見つけ出し、自分を捨ててもらうという作戦を開始する。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
【完結】辺境に飛ばされた子爵令嬢、前世の経営知識で大商会を作ったら王都がひれ伏したし、隣国のハイスペ王子とも結婚できました
いっぺいちゃん
ファンタジー
婚約破棄、そして辺境送り――。
子爵令嬢マリエールの運命は、結婚式直前に無惨にも断ち切られた。
「辺境の館で余生を送れ。もうお前は必要ない」
冷酷に告げた婚約者により、社交界から追放された彼女。
しかし、マリエールには秘密があった。
――前世の彼女は、一流企業で辣腕を振るった経営コンサルタント。
未開拓の農産物、眠る鉱山資源、誠実で働き者の人々。
「必要ない」と切り捨てられた辺境には、未来を切り拓く力があった。
物流網を整え、作物をブランド化し、やがて「大商会」を設立!
数年で辺境は“商業帝国”と呼ばれるまでに発展していく。
さらに隣国の完璧王子から熱烈な求婚を受け、愛も手に入れるマリエール。
一方で、税収激減に苦しむ王都は彼女に救いを求めて――
「必要ないとおっしゃったのは、そちらでしょう?」
これは、追放令嬢が“経営知識”で国を動かし、
ざまぁと恋と繁栄を手に入れる逆転サクセスストーリー!
※表紙のイラストは画像生成AIによって作られたものです。
婚約破棄された令嬢、気づけば王族総出で奪い合われています
ゆっこ
恋愛
「――よって、リリアーナ・セレスト嬢との婚約は破棄する!」
王城の大広間に王太子アレクシスの声が響いた瞬間、私は静かにスカートをつまみ上げて一礼した。
「かしこまりました、殿下。どうか末永くお幸せに」
本心ではない。けれど、こう言うしかなかった。
王太子は私を見下ろし、勝ち誇ったように笑った。
「お前のような地味で役に立たない女より、フローラの方が相応しい。彼女は聖女として覚醒したのだ!」
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
婚約破棄されたその後は、何も起きない日々でした
ふわふわ
恋愛
婚約破棄――
それは、多くの令嬢にとって人生を揺るがす一大事件。
けれど彼女は、泣き叫ぶことも、復讐に走ることもなかった。
「……では、私は日常に戻ります」
派手なざまぁも、劇的な逆転劇もない。
彼女が選んだのは、線を引き、基準を守り、同じ判断を繰り返すこと。
王宮では改革が進み、領地では生活が整えられていく。
誰かが声高に称えられることもなく、
誰かが悪役として裁かれることもない。
それでも――
混乱は起きず、争いは減り、
人々は「明日も今日と同じである」ことを疑わなくなっていく。
選ばない勇気。
変えない決断。
名を残さず、英雄にならない覚悟。
これは、
婚約破棄をきっかけに
静かに日常を守り続けた一人の令嬢と、
その周囲が“当たり前”を取り戻していく物語。
派手ではない。
けれど、確かに強い。
――それでも、日常は続く。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる