本物聖女の力は無力でした ――見世物レベルの聖女のおかげで婚約破棄されました――**

鷹 綾

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32話 初めての言葉

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32話 初めての言葉

 謁見の間は、ひどく静かだった。

 先ほどまで確かに存在していたざわめきは、嘘のように消えている。
 誰もが言葉を失い、ただ一人の少女に向けて視線を注いでいた。

 ジャンヌ・テレーゼ。

 平民の少女。
 奇跡を起こすと祭り上げられ、聖女と呼ばれ、王太子の婚約者にまで据えられた存在。

 だが今、彼女は肩書きを剥がされ、
 ただ「一人の人間」として、王の前に立っていた。

 国王は、静かに問いを重ねる。

「もう一度、確認する」

 その声には、急かす色も、威圧もない。
 事務的ですらあった。

 だからこそ、逃げ場はなかった。

「余が聞いているのは、
 誰かの期待でも、国の都合でもない」

「あなた自身の意思だ」

 ジャンヌは、小さく息を吸った。

 これまでの人生で、
 “自分の意思”というものを、ここまで真正面から問われたことはなかった。

 親もいない。
 後ろ盾もない。
 守ってくれる肩書きもない。

 だからこそ、
 これまでは常に「求められる役」を演じてきた。

 聖女と言われれば、そうなのだと思い込もうとした。
 期待されれば、応えなければならないと信じた。

 拒否するという選択肢は、
 最初から存在しなかった。

 ――でも。

 ジャンヌは、ゆっくりと口を開いた。

 今度は、迷いがなかった。

「……望んでいません」

 はっきりとした声だった。

 大きくもなく、強くもない。
 だが、揺らぎがなかった。

「私は、聖女になることを望んでいません」
「王太子殿下との婚約も、望んでいません」

 それは、短い言葉だった。

 だが、その一言が持つ重みは、
 先ほどの長い説明よりも、はるかに大きかった。

 謁見の間にいた誰もが理解する。

 これは言い訳ではない。
 感情的な否定でもない。

 選択だ。

 ジャンヌ自身が、自分の人生について下した、初めての選択。

 ルートヴィヒ・マシアス王太子は、顔を青くしてその様子を見つめていた。
 口を開きかけ、しかし何も言えない。

 「望んでいない」

 その言葉は、
 彼が積み上げてきたすべての理屈を、一瞬で無意味にした。

 国のため。
 未来のため。
 象徴として必要だった。

 ――それらはすべて、
 本人の意思が否定された瞬間、成立しなくなる。

 アルトリア・カストゥスは、静かに目を伏せた。

 胸の奥で、確かな感情が広がる。

 安堵。
 そして、わずかな誇り。

 ――よく、言えましたわ。

 助け舟は出していない。
 導きもしていない。

 それでもジャンヌは、自分の言葉で、自分の意思を示した。

 国王は、ゆっくりと頷いた。

「……確かに聞いた」

 それだけを告げる。

 だが、その一言で十分だった。

 王は、ジャンヌの言葉を
 “個人の感情”ではなく、
 “正式な意思表示”として受け取ったのだ。

 謁見の間に、再び沈黙が訪れる。

 だがそれは、先ほどまでの重苦しい沈黙とは違う。

 結論を待つための、静けさだった。

 ジャンヌは、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 怖さが消えたわけではない。
 未来が見えたわけでもない。

 それでも――

 彼女は初めて、
 自分の人生について「望んでいない」と言えた。

 その一言は、
 奇跡よりも、
 どんな力よりも、
 確かな重みを持っていた。

 次に下されるのは、
 もはや“裁定”ではない。

 これは、
 一人の少女の人生を、元に戻すための宣言だ。

 その瞬間が、静かに近づいていた。
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