婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

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第36話:内部的な完成

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 朝の魔導庁は、珍しく人が多かった。

 騒がしいわけではない。
 むしろ皆、必要以上に声を潜め、
 廊下の足音さえ控えめだった。

 理由は一つ。

 制度改修の最終日だった。

 これまで段階的に進められてきた権限移譲、判断基準の明文化、責任分散――
 それらが、今日をもって正式運用へ移行する。

 失敗すれば、
 誰かの判断が宙に浮く。

 成功すれば、
 何も起こらない。

 アラルガンは、その境目に立っていた。

 机の上には、分厚い綴じ書類。
 表紙には簡素な文字。

 《魔導運用制度・最終改訂版》

「……ここまで来たか」

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 かつてなら、
 自分の名が大きく刻まれた文書だっただろう。

 だが今は違う。

 署名欄は最後の一頁。
 そこにあるのは――
 部署名と、役職名だけ。

 個人名は、
 補足欄に小さく記されているだけだった。

 ◇

 午前。

 最終確認会議。

 参加者は、各区画の責任者と技師長、
 そしてアラルガン。

「本日零時をもって、
 旧判断フローは完全に廃止されます」

 技師長が淡々と告げる。

「緊急時の判断は、
 各区画責任者が即時実行。
 事後報告のみ義務化」

 誰も異議を唱えない。

 資料は、
 何度も読まれてきた。

 だが――
 理解と実行は、別物だ。

「質問は?」

 静寂。

 やがて、
 一人の区画責任者が口を開いた。

「……補佐官」

「何だ」

「判断を誤った場合、
 本当に……
 個人責任は問われないのですか」

 会議室の空気が、
 わずかに張りつめる。

 アラルガンは、
 即答しなかった。

 視線を落とし、
 一拍置いてから口を開く。

「問われる」

 一瞬、
 ざわりとする。

「ただし」

 言葉を続ける。

「制度が想定した範囲内なら」

 区画責任者は、
 息を呑む。

「……想定外の場合は」

「制度を直す」

 きっぱりと。

「個人を切って、
 制度を温存することは、
 二度としない」

 沈黙。

 やがて、
 技師長が深く頷いた。

「……それを聞けて、
 安心しました」

 会議は、
 それで終わった。

 拍手も、
 宣言もない。

 ただ、
 静かに立ち上がり、
 それぞれの持ち場へ戻っていく。

 ◇

 昼。

 アラルガンは、
 一人で資料室にいた。

 棚の奥に、
 古い箱がある。

 かつての制度案、
 未採用の草稿、
 修正される前の決裁文。

 その中から、
 一枚の紙を取り出す。

 ――旧王太子時代の、
 最終決裁書。

 自分の署名が、
 大きく書かれている。

「……これが、
 全てだった頃も、
 あったな」

 破棄はしない。

 だが、
 もう使わない。

 そっと箱に戻し、
 棚を閉める。

 過去は、
 残しておく。

 だが、
 引きずらない。

 ◇

 午後。

 現場巡回。

 各区画で、
 最終フローの動作確認が行われている。

「判断ライン、
 問題ありません」

「代替経路、
 即時起動可能」

「責任者不在時の代理指定、
 確認済みです」

 報告は、
 整っていた。

 若い技師が、
 少し緊張した顔で言う。

「……何か、
 あればいいんですが」

「何もないのが、
 一番いい」

 アラルガンは、
 そう答える。

「制度は、
 “何かあった時”のためにある」

「はい」

「だが、
 使われない日が続くほど、
 良い制度だ」

 若い技師は、
 ゆっくりと頷いた。

 ◇

 夕方。

 最終署名。

 アラルガンは、
 改訂版文書の最後の頁を開く。

 部署名。
 役職名。

 その下に、
 小さく自分の名。

 ペンを取る。

 一瞬だけ、
 手が止まる。

 王冠を被っていた頃、
 署名は力だった。

 今は違う。

 署名は、
 手放すための線だ。

 静かに、
 名前を書く。

 それで終わりだった。

 ◇

 夜。

 帰路の廊下。

 照明は落とされ、
 人影もまばらだ。

 アラルガンは、
 歩きながら思う。

 この制度は、
 自分がいなくなっても動く。

 それが、
 何よりの成果だ。

 英雄が不要な仕組み。
 裁きも不要な仕組み。

 ただ、
 淡々と、
 街を守るための仕組み。

「……ようやく、
 終わったな」

 呟きは、
 誰にも届かない。

 だが、
 それでいい。

 灯りの消えた庁舎を背に、
 アラルガンは外へ出た。

 夜風が、
 静かに吹く。

 明日から、
 彼がいなくても、
 魔導庁は回る。

 その事実を、
 誇りに思いながら。

 彼は、
 ゆっくりと歩き出した。

 ――それが、
 引き継がれた責任の、
 正しい形だった。
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