婚約破棄して「無能」と捨てた元婚約者様へ。私が隣国の魔導予算を握っていますが、今さら戻ってこいなんて冗談ですよね?』

鷹 綾

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第37話:技術・現場としての完成

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 雨は、夜半から音もなく降り続いていた。

 激しい嵐ではない。
 風もなく、雷もない。
 だが、魔導庁の屋上に設置された観測盤は、静かに警告色を帯びていた。

 アラルガンは、その数値を見つめて眉を寄せる。

「……増え方が、綺麗すぎる」

 隣に立つ当直技師が、首を傾げる。

「綺麗、ですか?」

「自然現象なら、必ず揺らぎが出る。
 だがこれは……意図的に整えられた波形だ」

 数値は基準内。
 結界出力も安定。
 警報が鳴るほどではない。

 それでも、胸の奥に引っかかるものがあった。

 ――昔の自分なら、見逃していた違和感。

「第二区画と第八区画、
 同時にデータを出せ」

「了解」

 魔導通信が走り、数分後に結果が揃う。

「……一致しています」

「やはりな」

 アラルガンは、静かに息を吐いた。

「雨そのものが、
 結界に合わせて“調律”されている」

「誰かが……?」

「いや」

 首を横に振る。

「誰か一人ではない」

 ◇

 臨時対応班が招集される。

 会議室に集まったのは、各区画の責任者と技師長、そしてアラルガンだけだった。

「現在の状況をまとめます」

 技師長が淡々と説明する。

「降雨に含まれる魔力が、結界の位相と共振し始めています。
 現時点で破壊の危険はありませんが――」

「蓄積が続けば、
 負荷が一気に跳ね上がる」

 アラルガンが言葉を継ぐ。

「結界が“敵”だと認識する前に、
 自壊する可能性がある」

 室内が、わずかにざわめく。

「結界は守っているのに、
 それが原因で壊れる……?」

「皮肉な話だが、
 よくある」

 アラルガンは地図を広げる。

「雨は、敵意を持っていない。
 だが、魔力は流れを求める」

 指先が、旧市街と新市街の境界線で止まる。

「この境界が、
 一番歪む」

「対応は?」

 技師長が問う。

 アラルガンは、即答しなかった。

 結界を強めるか。
 位相をずらすか。
 一時的に遮断するか。

 どれも、間違いではない。
 だが、どれも対症療法だ。

「……逃がす」

 静かな声だった。

「結界を守るために、
 結界を完全に信じない」

 技師長が、ゆっくりと理解の色を浮かべる。

「排出路を、
 人工的に作る……」

「そうだ」

 アラルガンは頷く。

「雨が悪いのではない。
 溜め込む設計が、
 今の街に合っていないだけだ」

 ◇

 深夜。

 旧市街地下の排出導管が、静かに稼働を始める。

 外から見れば、何も起きていない。
 結界の光も、普段と変わらない。

 だが内部では、魔力が「留まる」のをやめ、
 ゆっくりと流れ始めていた。

「流量、安定」

「結界負荷、下降中」

「市街地への影響は?」

「……ありません」

 報告は淡々と続く。

 誰も歓声を上げない。
 誰も安堵を口にしない。

 それでいい。

 守る仕事は、
 成功が静かであるほど、正しい。

 アラルガンは制御盤の前で、じっと数値を見つめていた。

 かつての自分なら、
 「結界を弱める」という選択を恐れただろう。

 だが今は分かる。

 守るとは、閉じることではない。
 変化を許容することだ。

 ◇

 夜明け。

 雨は止み、雲の切れ間から朝日が差し込む。

「……全区画、異常なし」

「蓄積値、完全に解消」

 最後の報告が上がり、
 対応班は静かに解散した。

 誰も拍手しない。
 誰も名前を呼ばれない。

 街は、ただ普通の朝を迎えただけだ。

 ◇

 後日の簡易記録。

 《結界共振事案:未然対応》
 《市民影響:なし》
 《原因:環境変化に対する設計遅延》

 責任者欄は空白だった。

 代わりに、備考欄に一文だけ記される。

 《制度更新、要検討》

 それで十分だった。

 ◇

 帰路の廊下で、若い技師が声をかけてくる。

「……あの判断、
 怖くなかったんですか」

 アラルガンは、一瞬だけ足を止める。

「怖かった」

「それでも……」

「怖いから、
 考え続けた」

 若い技師は、深く頷いた。

 ◇

 夜。

 窓を少し開けると、雨上がりの空気が流れ込む。

 街は静かで、
 何事もなかったかのように灯っている。

 それでいい。

 危機が知られないこと。
 名前が残らないこと。

 それが、
 この仕事の成功条件だ。

 アラルガンは灯りを落とし、静かに椅子に身を預けた。

 結界は壊れなかった。
 街も壊れなかった。
 そして、誰も裁かれなかった。

 それが、
 制度が生きている証だった。

 ――明日もまた、
 何も起きない日が続く。

 その当たり前を守るために、
 彼は、今日も名前を残さなかった。
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