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第17話 婚約の儀という舞台
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第17話 婚約の儀という舞台
婚約の儀は、静かに、しかし確実に準備されていた。
派手な告知はない。招かれるのは限られた者だけ。
男爵家は「慎み」を装い、公爵家の体面を立てる形を取った。
――表向きは。
実際のところ、屋敷の中は慌ただしい。
使用人たちは動線を整え、調度は磨き上げられ、細部にまで神経が行き届いている。
(……“失礼”が許されない場)
ウェイフは、用意された淡色の礼装に身を包み、鏡の前に立っていた。
花嫁教育で叩き込まれた所作を、頭の中で反芻する。
歩幅。
視線。
沈黙。
完璧を目指すほど、危険が増す。
過不足なく――それが今日の目標だ。
扉を叩く音がした。
「準備は?」
年嵩の教育係が、短く尋ねる。
「整っています」
「良いわ。
今日のあなたは、話さなくていい。
立ち、受け、頷く。それだけで十分」
(……つまり、“物”として)
ウェイフは、内心で整理した。
役割は明確だ。自分は主役ではない。
象徴だ。
会場は、男爵家の大広間。
装飾は控えめだが、視線の集まる配置が取られている。
先に、来賓が着席する。
次に、男爵夫妻。
その横に、実の娘。
娘は、得意げに微笑んでいた。
(……安心している)
身代わりが、前に立つことに。
やがて、扉が開いた。
「公爵家より――」
声が響く。
入ってきたのは、よぼよぼの老人だった。
背は曲がり、白髪は薄く、歩みは遅い。
杖をつき、二人の従者に支えられている。
会場に、かすかなざわめき。
「……あれが、公爵様?」
娘が、わざと聞こえる声で囁いた。
「ウェイフに、お似合いよね」
嘲笑が、含まれている。
(……なるほど)
ウェイフは、表情を変えなかった。
驚きも、嫌悪も、顔には出さない。
(婚約?
……介護要員かしら)
内心だけで、淡々と結論を出す。
儀は、形式通りに進む。
紹介。
誓約。
署名。
老人は、ほとんど言葉を発しない。
だが、その沈黙は、場を支配していた。
男爵は、終始、満足そうだ。
自分の策が、成功したと確信している。
儀が終わり、会場がざわつく中、
老人が――ウェイフを見た。
その目は、濁っていない。
(……演技)
一瞬で、理解した。
だが、今は踏み込まない。
視線を逸らし、礼を取る。
やがて、移動の時間となった。
「では、こちらへ」
老人の従者が告げる。
ウェイフは、振り返らなかった。
男爵夫妻も、娘も、視界に入れない。
馬車は一台。
ウェイフ一人が、乗せられる。
扉が閉まる直前、娘が言った。
「せいぜい、長生きなさって?」
祝福の形をした、別れの言葉。
(……はいはい)
心の中でだけ、返す。
馬車が動き出す。
窓の外、男爵家の屋敷が遠ざかる。
(……戻らない)
感傷はない。
未練もない。
向かう先は、公爵邸。
道中、老人は静かに言った。
「……怖くは、ないかね」
声は、意外なほど張りがある。
「いいえ」
ウェイフは、短く答えた。
「役割は、理解しています」
老人は、低く笑った。
「賢い。
……だが、ここからは“役割”が変わる」
馬車が、大きな門をくぐる。
視界が一気に開けた。
広大な敷地。
整えられた庭園。
そして――
いくつもの建物。
(……公爵家)
唖然とするほどの規模だ。
馬車は、最も大きな建物の前で止まった。
中へ案内され、さらに奥へ。
一番奥の部屋。
重厚な扉が、ゆっくりと開く。
「こちらの方が――
アバルト・ハウザー公爵様です」
紹介されたのは、
美丈夫な、好青年風の若者だった。
ウェイフは、一瞬、思考が止まる。
「……え?」
老人が、肩をすくめる。
「私は、世間体のために公爵を演じる影武者。
本職は、執事の一人だ」
「……何でも、ありなんですね」
思わず、口をついて出た。
青年――アバルトは、穏やかに微笑んだ。
「噂は、知っているだろう?」
「三百年も生きている化け物……
根も葉もない噂、ですよね?」
「事実だ。
三百年生きて、年も取らん。
だから、人前に姿をさらしたくない」
ウェイフは、青年を見る。
澄んだ瞳。
整った顔立ち。
(……化け物)
その言葉が、場違いに思えた。
アバルトは、静かに言った。
「君は、逃げなかった」
「逃げ場が、ありませんでしたから」
正直な答え。
青年は、笑った。
「それでいい。
……ここでは、君を“道具”とは呼ばない」
その一言で、胸の奥に、何かが落ちた。
(……舞台は、変わった)
婚約の儀は、終わった。
だが、本当の物語は、ここからだ。
ウェイフは、静かに背筋を伸ばす。
役割は変わる。
だが――
自分で、選び取る余地は、確かにあった。
そのことを、彼女ははっきりと感じていた。
婚約の儀は、静かに、しかし確実に準備されていた。
派手な告知はない。招かれるのは限られた者だけ。
男爵家は「慎み」を装い、公爵家の体面を立てる形を取った。
――表向きは。
実際のところ、屋敷の中は慌ただしい。
使用人たちは動線を整え、調度は磨き上げられ、細部にまで神経が行き届いている。
(……“失礼”が許されない場)
ウェイフは、用意された淡色の礼装に身を包み、鏡の前に立っていた。
花嫁教育で叩き込まれた所作を、頭の中で反芻する。
歩幅。
視線。
沈黙。
完璧を目指すほど、危険が増す。
過不足なく――それが今日の目標だ。
扉を叩く音がした。
「準備は?」
年嵩の教育係が、短く尋ねる。
「整っています」
「良いわ。
今日のあなたは、話さなくていい。
立ち、受け、頷く。それだけで十分」
(……つまり、“物”として)
ウェイフは、内心で整理した。
役割は明確だ。自分は主役ではない。
象徴だ。
会場は、男爵家の大広間。
装飾は控えめだが、視線の集まる配置が取られている。
先に、来賓が着席する。
次に、男爵夫妻。
その横に、実の娘。
娘は、得意げに微笑んでいた。
(……安心している)
身代わりが、前に立つことに。
やがて、扉が開いた。
「公爵家より――」
声が響く。
入ってきたのは、よぼよぼの老人だった。
背は曲がり、白髪は薄く、歩みは遅い。
杖をつき、二人の従者に支えられている。
会場に、かすかなざわめき。
「……あれが、公爵様?」
娘が、わざと聞こえる声で囁いた。
「ウェイフに、お似合いよね」
嘲笑が、含まれている。
(……なるほど)
ウェイフは、表情を変えなかった。
驚きも、嫌悪も、顔には出さない。
(婚約?
……介護要員かしら)
内心だけで、淡々と結論を出す。
儀は、形式通りに進む。
紹介。
誓約。
署名。
老人は、ほとんど言葉を発しない。
だが、その沈黙は、場を支配していた。
男爵は、終始、満足そうだ。
自分の策が、成功したと確信している。
儀が終わり、会場がざわつく中、
老人が――ウェイフを見た。
その目は、濁っていない。
(……演技)
一瞬で、理解した。
だが、今は踏み込まない。
視線を逸らし、礼を取る。
やがて、移動の時間となった。
「では、こちらへ」
老人の従者が告げる。
ウェイフは、振り返らなかった。
男爵夫妻も、娘も、視界に入れない。
馬車は一台。
ウェイフ一人が、乗せられる。
扉が閉まる直前、娘が言った。
「せいぜい、長生きなさって?」
祝福の形をした、別れの言葉。
(……はいはい)
心の中でだけ、返す。
馬車が動き出す。
窓の外、男爵家の屋敷が遠ざかる。
(……戻らない)
感傷はない。
未練もない。
向かう先は、公爵邸。
道中、老人は静かに言った。
「……怖くは、ないかね」
声は、意外なほど張りがある。
「いいえ」
ウェイフは、短く答えた。
「役割は、理解しています」
老人は、低く笑った。
「賢い。
……だが、ここからは“役割”が変わる」
馬車が、大きな門をくぐる。
視界が一気に開けた。
広大な敷地。
整えられた庭園。
そして――
いくつもの建物。
(……公爵家)
唖然とするほどの規模だ。
馬車は、最も大きな建物の前で止まった。
中へ案内され、さらに奥へ。
一番奥の部屋。
重厚な扉が、ゆっくりと開く。
「こちらの方が――
アバルト・ハウザー公爵様です」
紹介されたのは、
美丈夫な、好青年風の若者だった。
ウェイフは、一瞬、思考が止まる。
「……え?」
老人が、肩をすくめる。
「私は、世間体のために公爵を演じる影武者。
本職は、執事の一人だ」
「……何でも、ありなんですね」
思わず、口をついて出た。
青年――アバルトは、穏やかに微笑んだ。
「噂は、知っているだろう?」
「三百年も生きている化け物……
根も葉もない噂、ですよね?」
「事実だ。
三百年生きて、年も取らん。
だから、人前に姿をさらしたくない」
ウェイフは、青年を見る。
澄んだ瞳。
整った顔立ち。
(……化け物)
その言葉が、場違いに思えた。
アバルトは、静かに言った。
「君は、逃げなかった」
「逃げ場が、ありませんでしたから」
正直な答え。
青年は、笑った。
「それでいい。
……ここでは、君を“道具”とは呼ばない」
その一言で、胸の奥に、何かが落ちた。
(……舞台は、変わった)
婚約の儀は、終わった。
だが、本当の物語は、ここからだ。
ウェイフは、静かに背筋を伸ばす。
役割は変わる。
だが――
自分で、選び取る余地は、確かにあった。
そのことを、彼女ははっきりと感じていた。
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