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5話|引き継ぎという名の置き土産
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5話|引き継ぎという名の置き土産
朝の鐘が鳴るよりも早く、エルゼリア・クローヴェルは執務棟に入っていた。
この数日で、王宮における彼女の立場は目に見えて変わった。廊下ですれ違う者たちは、以前よりも露骨に距離を取るか、あるいは気まずそうに視線を逸らす。
――もう、私は「過去の人間」なのね。
その事実を、彼女は淡々と受け止めていた。
今日の予定は、ただ一つ。
王太子府における政務全般の引き継ぎを、形式上、完了させること。
机の上には、厚くまとめられた書類の束が整然と並んでいる。
財政管理の流れ、外交交渉の進捗、諸侯との暗黙の取り決め。
どれも表に出ることはないが、王国を安定させるために欠かせない情報ばかりだった。
「……これで、最後ですね」
独り言のように呟き、エルゼリアは最後の確認に入る。
引き継ぎ文書は、意図的に「過不足なく」まとめていた。
教えすぎず、隠しすぎず。
読めば理解できるが、運用には経験が要る――そんな内容だ。
それは、復讐でも罠でもない。
ただの、現実だった。
ほどなくして、執務室の扉がノックされる。
「入ってください」
現れたのは、ロネスが新たに信任した若い側近と、数名の文官だった。
彼らの表情には、緊張と、わずかな困惑が浮かんでいる。
「本日、引き継ぎを行うと伺いましたが……」
「はい。こちらが全てです」
エルゼリアは、淡々と書類を差し出した。
側近は、その厚みに一瞬たじろぐ。
「……これを、すべて?」
「必要なものは、すべて揃えています」
事実だった。
だが同時に、それ以上の補足や助言は、一切ない。
文官の一人が、恐る恐る問いかける。
「エルゼリア様、こちらの外交文書ですが……この条件の背景は?」
エルゼリアは、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。
「背景は、文中に記されています。
それ以上の判断は、今後の担当者の裁量です」
それ以上は語らない。
彼女の沈黙に、文官たちは微妙な表情を浮かべる。
――難しい。
――だが、読めば確かに理解できる。
それが、エルゼリアの作った「置き土産」だった。
引き継ぎが終盤に差しかかったころ、ロネス本人が姿を現した。
「……終わったのか」
「はい。こちらで全てです」
エルゼリアは、最後の書類を机に置き、一礼する。
「明日以降、私が関与することはありません」
その言葉に、ロネスは一瞬だけ表情を歪めた。
「ずいぶん、あっさりしているな」
「引き延ばす理由がありませんので」
「……本当に、それでいいのか」
何を期待しているのか、自分でも分かっていない問いだった。
エルゼリアは、静かにロネスを見返す。
「殿下がお選びになった道です。
私が口を出す余地はありません」
それ以上、言葉は交わされなかった。
ロネスは書類に目を落とし、軽く鼻を鳴らす。
「これで、政務も滞らずに済むな」
「……そうですね」
エルゼリアは否定しなかった。
否定できない事実だけを、そこに置いて去る。
引き継ぎを終えたあと、彼女は執務室をゆっくりと見回した。
この部屋で過ごした時間は、決して短くない。
夜を徹して数字と向き合い、誰にも知られず問題を潰してきた。
だが、感慨はない。
役目を終えた。
それだけだ。
王宮を出る途中、若い文官が小走りで追いかけてきた。
「エルゼリア様……!」
「何でしょうか」
「あの……
本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げるその姿に、エルゼリアは一瞬だけ目を細める。
「お礼を言われることは、していません」
それでも、文官は顔を上げなかった。
エルゼリアは、それ以上何も言わず、王宮の門をくぐる。
背後で閉じる重い扉の音が、ひどく遠くに聞こえた。
この日、王太子ロネスは理解していなかった。
引き継がれたのは、書類だけだということを。
――判断力も、経験も、責任感も。
それらはすべて、王宮を去るエルゼリアと共に失われたのだと。
それに気づくのは、
もう少し先の話になる。
王国が、目に見えて軋み始めてからのことだった。
朝の鐘が鳴るよりも早く、エルゼリア・クローヴェルは執務棟に入っていた。
この数日で、王宮における彼女の立場は目に見えて変わった。廊下ですれ違う者たちは、以前よりも露骨に距離を取るか、あるいは気まずそうに視線を逸らす。
――もう、私は「過去の人間」なのね。
その事実を、彼女は淡々と受け止めていた。
今日の予定は、ただ一つ。
王太子府における政務全般の引き継ぎを、形式上、完了させること。
机の上には、厚くまとめられた書類の束が整然と並んでいる。
財政管理の流れ、外交交渉の進捗、諸侯との暗黙の取り決め。
どれも表に出ることはないが、王国を安定させるために欠かせない情報ばかりだった。
「……これで、最後ですね」
独り言のように呟き、エルゼリアは最後の確認に入る。
引き継ぎ文書は、意図的に「過不足なく」まとめていた。
教えすぎず、隠しすぎず。
読めば理解できるが、運用には経験が要る――そんな内容だ。
それは、復讐でも罠でもない。
ただの、現実だった。
ほどなくして、執務室の扉がノックされる。
「入ってください」
現れたのは、ロネスが新たに信任した若い側近と、数名の文官だった。
彼らの表情には、緊張と、わずかな困惑が浮かんでいる。
「本日、引き継ぎを行うと伺いましたが……」
「はい。こちらが全てです」
エルゼリアは、淡々と書類を差し出した。
側近は、その厚みに一瞬たじろぐ。
「……これを、すべて?」
「必要なものは、すべて揃えています」
事実だった。
だが同時に、それ以上の補足や助言は、一切ない。
文官の一人が、恐る恐る問いかける。
「エルゼリア様、こちらの外交文書ですが……この条件の背景は?」
エルゼリアは、ほんの一瞬だけ言葉を選んだ。
「背景は、文中に記されています。
それ以上の判断は、今後の担当者の裁量です」
それ以上は語らない。
彼女の沈黙に、文官たちは微妙な表情を浮かべる。
――難しい。
――だが、読めば確かに理解できる。
それが、エルゼリアの作った「置き土産」だった。
引き継ぎが終盤に差しかかったころ、ロネス本人が姿を現した。
「……終わったのか」
「はい。こちらで全てです」
エルゼリアは、最後の書類を机に置き、一礼する。
「明日以降、私が関与することはありません」
その言葉に、ロネスは一瞬だけ表情を歪めた。
「ずいぶん、あっさりしているな」
「引き延ばす理由がありませんので」
「……本当に、それでいいのか」
何を期待しているのか、自分でも分かっていない問いだった。
エルゼリアは、静かにロネスを見返す。
「殿下がお選びになった道です。
私が口を出す余地はありません」
それ以上、言葉は交わされなかった。
ロネスは書類に目を落とし、軽く鼻を鳴らす。
「これで、政務も滞らずに済むな」
「……そうですね」
エルゼリアは否定しなかった。
否定できない事実だけを、そこに置いて去る。
引き継ぎを終えたあと、彼女は執務室をゆっくりと見回した。
この部屋で過ごした時間は、決して短くない。
夜を徹して数字と向き合い、誰にも知られず問題を潰してきた。
だが、感慨はない。
役目を終えた。
それだけだ。
王宮を出る途中、若い文官が小走りで追いかけてきた。
「エルゼリア様……!」
「何でしょうか」
「あの……
本当に、ありがとうございました」
深く頭を下げるその姿に、エルゼリアは一瞬だけ目を細める。
「お礼を言われることは、していません」
それでも、文官は顔を上げなかった。
エルゼリアは、それ以上何も言わず、王宮の門をくぐる。
背後で閉じる重い扉の音が、ひどく遠くに聞こえた。
この日、王太子ロネスは理解していなかった。
引き継がれたのは、書類だけだということを。
――判断力も、経験も、責任感も。
それらはすべて、王宮を去るエルゼリアと共に失われたのだと。
それに気づくのは、
もう少し先の話になる。
王国が、目に見えて軋み始めてからのことだった。
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