6 / 40
6話|小さな歪み
しおりを挟む
6話|小さな歪み
エルゼリア・クローヴェルが王宮を去って三日目。
その朝、執務棟の一室で、最初の「違和感」が生まれた。
「……数字が合いません」
財務官の一人が、困惑した声で呟く。
机の上には、税収報告書と支出予定表が広げられていた。
「合わない、とは?」
問い返したのは、ロネスが新たに重用し始めた若い側近だった。
彼は書類を覗き込み、眉をひそめる。
「先月分の穀物関税収入が、予定より少ない。
いや、正確には――記載の前提条件が分からない」
「前提条件?」
財務官は報告書をめくりながら、戸惑いを隠せない様子で首を振る。
「この数値、どう見ても通常の算出方法ではありません。
何かしらの調整が入っているはずなのですが……その理由が、どこにも」
室内に、重たい沈黙が落ちた。
――おかしい。
だが、誰もそれ以上を言葉にできない。
これまでは、こうした疑問が生じる前に、すでに答えが用意されていた。
気づけば整理され、説明され、処理されている。
それが当たり前だった。
だが今は、その「当たり前」がない。
「……まあ、細かい誤差だろう」
側近は軽く言い切った。
「全体に影響はないはずだ。
とりあえず、このまま進めよう」
財務官は口を開きかけ、やがて何も言わずに頷いた。
反論するだけの根拠も、自信もなかった。
その同じ頃、外交部門でも似たような空気が漂い始めていた。
「この書簡、帝国からの返答ですが……」
文官が差し出した封書を開き、担当者が目を通す。
「……曖昧だな」
「はい。以前なら、こうした文面の裏にある意図を
エルゼリア様が整理してくださっていたのですが……」
言葉の途中で、文官は口を噤んだ。
その名前を出すことが、どこかタブーになりつつあるのを、誰もが感じていた。
「もう、彼女はいない」
担当者は、少し強い口調で言った。
「我々で判断するしかない」
そう言って書簡を机に置くが、表情は硬い。
――判断する。
その言葉が、これほど重いものだったとは。
昼過ぎ、ロネスは執務室で報告を受けていた。
「特に、大きな問題はありません」
側近の言葉に、彼は満足そうに頷く。
「そうだろう。
あれほど大げさに言われていたが、いなくても回る」
その言葉に、周囲は同調するように頷いた。
誰も、反対しない。
だが、報告書の端に書かれた小さな注記。
保留、再確認、要検討――
そうした文字が、確実に増え始めていた。
夕刻、ロネスは新婚約者と共に庭を歩いていた。
「ねえ、ロネス様。
本当に、何も問題はないの?」
柔らかな声で問われ、彼は笑って肩をすくめる。
「心配いらない。
これまでが、彼女に頼りすぎていただけだ」
「……そうよね」
少女は微笑みながらも、どこか不安げに視線を落とした。
ロネスは気づかない。
この数日で、彼のもとに届く報告の質が、わずかに落ちていることを。
夜、王宮の回廊では、文官たちが小声で話していた。
「今日の会議、時間がかかりすぎたな」
「結論が出ないまま、先送りばかりだ」
「……前は、こんなことなかった」
誰かが、ぽつりと呟く。
「エルゼリア様がいらした頃は……」
その名を口にした瞬間、周囲が静まり返った。
誰も否定しない。
誰も、肯定もしない。
ただ、言葉にしなくても分かっていることがあった。
――小さな歪みは、確実に生まれている。
それはまだ、致命的ではない。
だが、放置すれば必ず広がる。
その夜、ロネスは書斎で一人、書類を眺めていた。
「……面倒だな」
以前なら、すでに整理されていたはずの案件。
今は、判断を迫られている。
「まあ、後でいいか」
彼は書類を脇に置き、立ち上がった。
その判断が、どれほど危ういものか。
まだ、彼は知らない。
この国を支えていたのは、
目立つ王太子でも、甘い言葉でもなく――
静かに積み重ねられてきた、無数の「小さな判断」だったということを。
そして、その判断を下していた存在が、
もう王宮にはいないという事実を。
小さな歪みは、音もなく広がっていく。
誰にも止められないまま。
エルゼリア・クローヴェルが王宮を去って三日目。
その朝、執務棟の一室で、最初の「違和感」が生まれた。
「……数字が合いません」
財務官の一人が、困惑した声で呟く。
机の上には、税収報告書と支出予定表が広げられていた。
「合わない、とは?」
問い返したのは、ロネスが新たに重用し始めた若い側近だった。
彼は書類を覗き込み、眉をひそめる。
「先月分の穀物関税収入が、予定より少ない。
いや、正確には――記載の前提条件が分からない」
「前提条件?」
財務官は報告書をめくりながら、戸惑いを隠せない様子で首を振る。
「この数値、どう見ても通常の算出方法ではありません。
何かしらの調整が入っているはずなのですが……その理由が、どこにも」
室内に、重たい沈黙が落ちた。
――おかしい。
だが、誰もそれ以上を言葉にできない。
これまでは、こうした疑問が生じる前に、すでに答えが用意されていた。
気づけば整理され、説明され、処理されている。
それが当たり前だった。
だが今は、その「当たり前」がない。
「……まあ、細かい誤差だろう」
側近は軽く言い切った。
「全体に影響はないはずだ。
とりあえず、このまま進めよう」
財務官は口を開きかけ、やがて何も言わずに頷いた。
反論するだけの根拠も、自信もなかった。
その同じ頃、外交部門でも似たような空気が漂い始めていた。
「この書簡、帝国からの返答ですが……」
文官が差し出した封書を開き、担当者が目を通す。
「……曖昧だな」
「はい。以前なら、こうした文面の裏にある意図を
エルゼリア様が整理してくださっていたのですが……」
言葉の途中で、文官は口を噤んだ。
その名前を出すことが、どこかタブーになりつつあるのを、誰もが感じていた。
「もう、彼女はいない」
担当者は、少し強い口調で言った。
「我々で判断するしかない」
そう言って書簡を机に置くが、表情は硬い。
――判断する。
その言葉が、これほど重いものだったとは。
昼過ぎ、ロネスは執務室で報告を受けていた。
「特に、大きな問題はありません」
側近の言葉に、彼は満足そうに頷く。
「そうだろう。
あれほど大げさに言われていたが、いなくても回る」
その言葉に、周囲は同調するように頷いた。
誰も、反対しない。
だが、報告書の端に書かれた小さな注記。
保留、再確認、要検討――
そうした文字が、確実に増え始めていた。
夕刻、ロネスは新婚約者と共に庭を歩いていた。
「ねえ、ロネス様。
本当に、何も問題はないの?」
柔らかな声で問われ、彼は笑って肩をすくめる。
「心配いらない。
これまでが、彼女に頼りすぎていただけだ」
「……そうよね」
少女は微笑みながらも、どこか不安げに視線を落とした。
ロネスは気づかない。
この数日で、彼のもとに届く報告の質が、わずかに落ちていることを。
夜、王宮の回廊では、文官たちが小声で話していた。
「今日の会議、時間がかかりすぎたな」
「結論が出ないまま、先送りばかりだ」
「……前は、こんなことなかった」
誰かが、ぽつりと呟く。
「エルゼリア様がいらした頃は……」
その名を口にした瞬間、周囲が静まり返った。
誰も否定しない。
誰も、肯定もしない。
ただ、言葉にしなくても分かっていることがあった。
――小さな歪みは、確実に生まれている。
それはまだ、致命的ではない。
だが、放置すれば必ず広がる。
その夜、ロネスは書斎で一人、書類を眺めていた。
「……面倒だな」
以前なら、すでに整理されていたはずの案件。
今は、判断を迫られている。
「まあ、後でいいか」
彼は書類を脇に置き、立ち上がった。
その判断が、どれほど危ういものか。
まだ、彼は知らない。
この国を支えていたのは、
目立つ王太子でも、甘い言葉でもなく――
静かに積み重ねられてきた、無数の「小さな判断」だったということを。
そして、その判断を下していた存在が、
もう王宮にはいないという事実を。
小さな歪みは、音もなく広がっていく。
誰にも止められないまま。
0
あなたにおすすめの小説
婚約破棄を本当にありがとう
あんど もあ
ファンタジー
ラブラブな婚約者のパトリシアとラルフ。そんなパトリシアに、隣国の王立高等学院に留学しないかとのお誘いが。「私、もうこの国の王立学園を卒業してますよ?」「高等学園にはブライト博士がいるわよ」「行きます!」
当然、ラルフも付いて行くのだが、そこでパトリシアは王太子の婚約者と思われて……。
「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして
東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。
破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。
次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛
Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。
全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)
妹の初恋は私の婚約者
あんど もあ
ファンタジー
卒業パーティーで、第一王子から婚約破棄を宣言されたカミーユ。王子が選んだのは、カミーユの妹ジョフロアだった。だが、ジョフロアには王子との婚約が許されない秘密があった。
【完結】この運命を受け入れましょうか
なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」
自らの夫であるルーク陛下の言葉。
それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。
「承知しました。受け入れましょう」
ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。
彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。
みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。
だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。
そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。
あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。
これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。
前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。
ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。
◇◇◇◇◇
設定は甘め。
不安のない、さっくり読める物語を目指してます。
良ければ読んでくだされば、嬉しいです。
婚約者の幼馴染って、つまりは赤の他人でしょう?そんなにその人が大切なら、自分のお金で養えよ。貴方との婚約、破棄してあげるから、他
猿喰 森繁
恋愛
完結した短編まとめました。
大体1万文字以内なので、空いた時間に気楽に読んでもらえると嬉しいです。
「君を愛することはない」と言われたので、私も愛しません。次いきます。 〜婚約破棄はご褒美です!
放浪人
恋愛
【「愛さない」と言ったのはあなたです。私はもっとハイスペックな次(夫)と幸せになりますので、どうぞお構いなく!】
侯爵令嬢リディアは、建国記念舞踏会の最中に、婚約者である王太子レオンハルトから婚約破棄を宣言される。 「君を愛することはない!」という王太子の言葉は、国中に響く『公的拒絶誓約』となってしまった。
しかし、リディアは泣かなかった。 「承知しました。私も愛しません。次いきます」 彼女は即座に撤退し、その場で慰謝料請求と名誉回復の手続きを開始する。その潔さと有能さに目をつけたのは、国の行政を牛耳る『氷の宰相』アシュ・ヴァレンシュタインだった。
「私の政治的盾になれ。条件は『恋愛感情の禁止』と『嘘がつけない契約』だ」
利害の一致した二人は、愛のない契約結婚を結ぶ。 はずだったのだが――『嘘がつけない契約』のせいで、冷徹なはずの宰相の本音が暴走! 「君を失うのは非合理だ(=大好きだ)」「君は私の光だ(=愛してる)」 隠せない溺愛と、最強の夫婦による論理的で容赦のない『ざまぁ』。
一方、リディアを捨てた王太子は「愛さない誓約」の呪いに苦しみ、自滅していく。 これは、悪役令嬢と呼ばれた女が、嘘のない真実の愛を手に入れ、国中を巻き込んで幸せになるまでの物語。
拝啓、許婚様。私は貴方のことが大嫌いでした
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
【ある日僕の元に許婚から恋文ではなく、婚約破棄の手紙が届けられた】
僕には子供の頃から決められている許婚がいた。けれどお互い特に相手のことが好きと言うわけでもなく、月に2度の『デート』と言う名目の顔合わせをするだけの間柄だった。そんなある日僕の元に許婚から手紙が届いた。そこに記されていた内容は婚約破棄を告げる内容だった。あまりにも理不尽な内容に不服を抱いた僕は、逆に彼女を遣り込める計画を立てて許婚の元へ向かった――。
※他サイトでも投稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる