お昼ごはんはすべての始まり

山いい奈

文字の大きさ
4 / 41
1章 あらたなる挑戦

第4話 ビジネス研修の憂鬱

しおりを挟む
 翌日から通常勤務である。朝ごはんを食べ終えた紗奈さなは部屋に戻って準備をする。服はネイビーのカットソーに淡いグレイのカーディガンを合わせ、下はミモレ丈のカーキのフレアスカートにする。アクセサリーは無し。あまり華美で無い方が良い気がするからだ。紗奈はまだ入社2日目のぺーぺーなのである。

 お化粧もいつもの様に軽く。CCクリームを指先で薄く伸ばしてから粉をはたき、アイメイクは細くアイラインを引いて、ブラウンのシャドーを淡く、眉も隙間を埋める程度。口紅もベージュに近いピンクを薄っすらと。

 バッグも今日からは大きめの淡いベージュのトートだ。お財布やスマートフォンなど、必要なものを詰める。おっと、ハンカチも入れなければ。昨日買い揃えたペンなども入れている。

 マグカップも緩衝材かんしょうざいに包んで収めた。食器棚の奥に使っていないカップがいくつかあったので、その中から好みのものをもらった。黄色地に浅葱あさぎ色の大きなドット柄だ。容量も大きいのでたっぷり淹れられるだろう。

 黒のサブバッグには大学生の時から使っていたデザインの指南書を数冊入れた。課題などで何度もお世話になったものたちだ。これからもきっと役に立ってくれるだろう。

 準備を整えてダイニングに戻り、万里子まりこが作ってくれたお弁当をトートバッグの隙間に入れた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃーい」

 笑顔の万里子に見送られて家を出た。



 そして約30後、紗奈は事務所のデスクでiMacも立ち上げないまま、所長さんに与えられたビジネスマナーの本を開いていた。

 電話での受け答えの仕方、名刺の渡し方に受け取り方、お茶の入れ方や出し方、報告・連絡・相談、いわゆるほうれんそうの重要性、ビジネスメールの作成方法、などなど。

 昨日の気合いはどこへやら、正直言って退屈だった。社会人として、会社勤めをする人間として必要なことなのだと分かっていても、きっちりとした活字を前に目が滑ってしまう。

 だが紗奈はどうにか集中しようと本を開く。傍らにはルーズリーフのレフィルと黒のボールペン。目の前にパソコンがあるのだから、まとめるのならエディタなどのアプリを使えば良いのだが、自分の手で書くことで覚えられると、所長さんに言われたのだ。

 デジタルネイティブの紗奈にとっては非効率の様な気もするが、確かに記憶するには実際に書いた方が良いと聞いたことがある。紗奈は本から重要だと思われることを抽出してレフィルに丁寧に書いて行った。

 そうしていると、どうにか時間も進む。ふと壁に掛けてある時計を見ると、もうすぐ11時になろうとしていた。あと1時間と少しがんばろう。紗奈は事務所の備品であるティーパッグの紅茶を淹れたマグカップを傾け、また本に向き直った。

 その数分後、紗奈の正面で静かに仕事をしていた牧田まきたさんが立ち上がる。紗奈はつられる様に顔を上げ、その勢いのまま給湯室きゅうとうしつのドアの上に掛けられている丸い時計に視線を移すと、11時になっていた。

 牧田さんは背面にある給湯室に入って行く。少しすると戻って来て、黒いショルダーバッグを肩に掛けた。

「所長さん、行って来ますね」

「あ、もうそんな時間か。行ってらっしゃい」

 畑中なたなかさんと岡薗おかぞのさんも「行ってらっしゃい」と声を掛ける。紗奈も少し戸惑いつつ「行ってらっしゃい」と続く。牧田さんはぺこっと頭を下げ、事務所を出て行った。事務員の牧田さんには銀行に行ったりそういう業務もあるのだろう。

 紗奈はまた本に集中した。



 牧田さんが帰って来たのは、そのおよそ30分後。

「ただいま戻りました~」

 皆さんが「お帰りなさい」と迎える。牧田さんの肩には膨らんだエコバッグが掛けられていた。仕事中にお買い物? 紗奈は不思議に思うが、それを声には出せない。まだそこまでこの事務所に馴染んでいない。

 牧田さんはショルダーバッグをデスクに置き、エコバッグをかついで給湯室へと入って行った。そこで紗奈は、ああ、事務所に必要な買い物だったのだなと思い至る。来客もあるだろうし、お茶やお茶菓子などが要るのだろう。

 しかし牧田さんはしばらくしても給湯室から出て来なかった。確かにエコバッグの大きさからしてそれなりの量を買い込んで来たのだろうから、片付けるのにも時間が掛かるのかも知れない。



 それから何分経ったのか、所長さんが声を上げる。
「そろそろ昼ごはんにしよか」

 紗奈はその声に弾かれる様に顔を上げ、時計を見ると確かに12時になっていた。牧田さんはまだ給湯室から出て来ていない。さすがに長過ぎないか? そう思った時、がちゃりと給湯室のドアが開いた。

 出て来た牧田さんの手にはトレイがあり、その上には湯気を上げるお料理がふた皿乗せられていた。給湯室は牧田さんのデスクの後ろ、応接セットの近くにあるので、紗奈のデスクからは向かって正面になる。ばちっと目が合った牧田さんはふんわりと微笑んだ。

 そこで横の岡薗さんが立ち上がる。

「牧田さん、ありがとうございます」

「はいはい。あとはご飯とお汁物持って来るからね~」

「俺、運びますよ」

 牧田さんがトレイのお料理を応接セットのテーブルに置き、入れ替わる様に岡薗さんが給湯室に入る。出て来た時には別のトレイを持っていて、そこにはご飯を盛ったお茶碗とお椀が乗っていた。

 一体何事? もしかして牧田さんは給湯室でお料理をしていたのか? 紗奈が首を傾げると、紗奈の後ろを通った所長さんが言った。

「これはな、うちのお料理部やねん」

 紗奈はビジネスチェアごと振り返る。

「お料理部、ですか」

「そう。岡薗くんと牧田さんのふたりな。交代で昼ごはん作ってんねん」

「所長さんはされへんのですか?」

「僕は奥さんの愛妻弁当があるから」

 所長さんは口角を上げ、唐草模様の巾着に入れられたお弁当を胸元に持ち上げた。

「畑中さんは」

 斜め前の畑中さんを見ると、畑中さんはネイビーのハンドバッグを手に立ち上がった。

「私は潔癖けっぺき気味で、家族以外の手作り苦手やねん。所長、行って来ます」

「はい、行ってらっしゃい」

 牧田さんと岡薗さんも「行ってらっしゃい」と声を掛け、「行ってきます」と畑中さんは事務所を出て行った。

「畑中さんはいつも外食や。天野さん、お昼は?」

「あ、私もお弁当です」

 紗奈はデスクの下に置いた自分のバッグから、赤いナフキンに包まれたお弁当を出した。

「お、自分で作ってるん?」

「いえ、母が。父と姉の分と一緒に」

「そら羨ましい。いや、僕も奥さんに作ってもらってるんやけどな。詰めるのは自分でしとるけど」

 紗奈は詰めるのはもちろん、ナフキンに包んでもらうまで全て万里子にしてもらっている。なんとなく後ろめたくなってしまって、ごまかす様に「あはは」と小さく笑った。

「僕らと一緒にソファで食べる? 席ででもええし」

「あ、ご一緒させてください」

 そう応えてお弁当を手に立ち上がる。

 紗奈は職場でのコミニュケーションは大事だと思っている。就職活動中にたくさんの先輩にお話を聞いたが、人間関係が大切だと言う先輩と、必要無いと言う先輩とにはっきりと別れていた。

 紗奈の印象としては、前者の先輩ほど生き生きとしている様に見えたのだ。

 確かに職場は仕事をするところなのだから、不要だと言うのも判る。そう言う先輩たちは飲み会などもほとんど断っているのだと言う。

 だが紗奈はどうせなら少しでも楽しく仕事がしたい。仕事中の私語は褒められたことでは無いだろうが、上司や先輩と話しやすくするのは、仕事の上でも重要だと思うのだった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

お隣さんはヤのつくご職業

古亜
恋愛
佐伯梓は、日々平穏に過ごしてきたOL。 残業から帰り夜食のカップ麺を食べていたら、突然壁に穴が空いた。 元々薄い壁だと思ってたけど、まさか人が飛んでくるなんて……ん?そもそも人が飛んでくるっておかしくない?それにお隣さんの顔、初めて見ましたがだいぶ強面でいらっしゃいますね。 ……え、ちゃんとしたもん食え? ちょ、冷蔵庫漁らないでくださいっ!! ちょっとアホな社畜OLがヤクザさんとご飯を食べるラブコメ 建築基準法と物理法則なんて知りません 登場人物や団体の名称や設定は作者が適当に生み出したものであり、現実に類似のものがあったとしても一切関係ありません。 2020/5/26 完結

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

神様がくれた時間―余命半年のボクと記憶喪失のキミの話―

コハラ
ライト文芸
余命半年の夫と記憶喪失の妻のラブストーリー! 愛妻の推しと同じ病にかかった夫は余命半年を告げられる。妻を悲しませたくなく病気を打ち明けられなかったが、病気のことが妻にバレ、妻は家を飛び出す。そして妻は駅の階段から転落し、病院で目覚めると、夫のことを全て忘れていた。妻に悲しい思いをさせたくない夫は妻との離婚を決意し、妻が入院している間に、自分の痕跡を消し出て行くのだった。一ヶ月後、千葉県の海辺の町で生活を始めた夫は妻と遭遇する。なぜか妻はカフェ店員になっていた。はたして二人の運命は? ―――――――― ※第8回ほっこりじんわり大賞奨励賞ありがとうございました!

下っ端宮女のひたむき後宮恋譚 ~前世の夢を追いかけていたらいつのまにか寵愛されていました~

紀本明
キャラ文芸
妃嬪から嫌がらせを受けつつも耐え忍んでいた下っ端宮女の鈴風(りんふぁ)はある日突然前世の記憶を取り戻す。料理人になるのが夢だった彼女は、今世でもその夢を叶えようと決意した矢先、ぼさぼさ頭の宦官・雲嵐(うんらん)と出会い、毎晩夕飯をつくることになる。料理人になるべく奮闘するも、妃嬪からの嫌がらせはひどくなる一方だった。そんなある日、事件が起こり、鈴風は窮地に立たされるが……――?

【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜

一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m ✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。 【あらすじ】 神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!   そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!  事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます! 仕事繁忙期の為、2月中旬まで更新を週一に致します。 カクヨム(吉野 ひな)様にも投稿しています。

極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。

猫菜こん
児童書・童話
 私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。  だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。 「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」  優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。  ……これは一体どういう状況なんですか!?  静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん  できるだけ目立たないように過ごしたい  湖宮結衣(こみやゆい)  ×  文武両道な学園の王子様  実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?  氷堂秦斗(ひょうどうかなと)  最初は【仮】のはずだった。 「結衣さん……って呼んでもいい?  だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」 「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」 「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、  今もどうしようもないくらい好きなんだ。」  ……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。

新しい家族は保護犬きーちゃん

ゆきむらさり
エッセイ・ノンフィクション
〔あらすじ〕📝初めて🐶保護犬ちゃんを迎え入れる我が家。 過去の哀しい実情のせいで人間不信で怯える保護犬きーちゃん。 初日から試行錯誤の日々と保護犬きーちゃんがもたらす至福の日々。 ◇ 🔶保護犬ちゃん達の過去・現在の実情の記述もあります🐾 🔶日々の些細な出来事を綴っています。現在進行形のお話となります🐾 🔶🐶挿絵画像入りです。 🔶拙いエッセイにもかかわらず、HOTランキングに入れて頂き(2025.7.1、最高位31位)ありがとうございます🙇‍♀️

魅了持ちの執事と侯爵令嬢【完結済】

tii
恋愛
あらすじ ――その執事は、完璧にして美しき存在。 だが、彼が仕えるのは、”魅了の魔”に抗う血を継ぐ、高貴なる侯爵令嬢だった。 舞踏会、陰謀、政略の渦巻く宮廷で、誰もが心を奪われる彼の「美」は、決して無害なものではない。 その美貌に隠された秘密が、ひとりの少女を、ひとりの弟を、そして侯爵家、はたまた国家の運命さえも狂わせていく。 愛とは何か。忠誠とは、自由とは―― これは、決して交わることを許されぬ者たちが、禁忌に触れながらも惹かれ合う、宮廷幻想譚。

処理中です...