午前2時、 コンビニの灯りの下で

結衣可

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第7話 すれ違う微笑み

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 週が変わっても、胸の奥のざわめきは消えなかった。
 智也は、自分の生活が“元に戻った”ように見えて、どこか違うことを知っていた。
 仕事をして、帰って、食事をして、眠る――それだけの毎日。
 けれど、その一つひとつの間に、思考の隙間のように彼が現れる。

 レジの奥で微笑む横顔。
 そして、あの夜、自分を支えた腕の温度、額に感じた熱。

 忘れようとしても、ふとした拍子に蘇る。
 まるで生活の中に彼の呼吸だけが残り続けているようだった。

 金曜の夜、疲れた頭で家に帰り、鞄を置く。
 窓を開けると、風が湿っている。
 部屋に灯りを点けたまま、じっとしていられなくなった。

 時計を見ると、1時半を少し過ぎていた。
 「行ってはいけない」と心のどこかが言っている。
 あの夜以来、彼の前ではどうしても平静でいられない。
 けれど、別の声が囁く。

 ――「ただ、会いたいだけだろう」

 迷いながらも、傘を手に取って外に出た。
 冷たい雨の匂いが街に満ちている。
 風が頬を撫で、遠くで車のタイヤが水を跳ねる音がした。

 いつもの道を歩く。
 濡れた舗道を踏む音が、自分の鼓動と重なる。
 もう理由なんてどうでもよかった。
 ただ、彼の声を聞きたかった。

 コンビニの灯りが見える。
 いつもと同じ明るさなのに、今夜は少し滲んで見えた。
 ドアを押すと、ベルの音が鳴る。
 「いらっしゃいませ」――その声。
 耳がそれを探していたのだと、自覚する。

 カウンターに立つ海が顔を上げた。
 目が合った瞬間、胸の奥が締め付けられる。
 いつも通りの笑顔。
 でも、そこに一瞬の驚きが混ざった。

 「こんばんは」

 智也は、なるべく平静に言った。
 海は一拍遅れて微笑む。

 「こんばんは。またお仕事帰りですか?」

 何気ない会話。
 それなのに、言葉の選び方ひとつで、距離が測れてしまう。
 “また”――それは、忘れられていない証拠でもあり、同時に、“前と同じ関係に戻りたい”というサインにも聞こえた。

 「ええ、少し遅くなって」

 「お疲れさまです。雨、冷たいですね」

 智也は頷き、棚を回る。
 指先が触れる商品はいつもと同じ。
 コーヒーと、サンドイッチ。
 けれど手が少し震えた。

 レジに並ぶと、海は手早くバーコードを通す。
 視線が一瞬交差する。
 あの夜、彼が近くで見た自分の顔を、今も覚えているのだろうか。

 会話を交わすたびに、どこかぎこちない。
 互いに、何かを隠そうとするように笑う。

 「いつもありがとうございます」

 「こちらこそ」

 短い言葉だけが行き交い、空気の中に余白が残る。
 その余白が、かえって息苦しい。

 智也は会計を終えると、無意識のうちに問いかけていた。

 「……あの、最近、ちゃんと寝てますか?」

 自分が聞く側になっていることに気づき、すぐに後悔した。
 海は少し驚いたように目を瞬かせ、すぐに笑った。

 「僕ですか? 寝たり、寝なかったりですね」

 その笑みが、少しだけ寂しげに見えた。
 彼もまた、眠れない夜を抱えているのだろうか。
 言葉を続けようとして、喉が詰まる。
 何を話していいかわからない。
 踏み込めば壊れてしまいそうな、薄い硝子のような関係。

 「……また、来ます」

 やっと出てきたのは、それだけだった。
 海は静かに頷いた。

 「はい。お待ちしてます」

 その言葉が、“店員として”なのか、“成瀬海として”なのか、もうわからなかった。
 袋を受け取り、ドアのベルを鳴らす。
 冷たい風が頬を打つ。
 外に出てからも、心臓の鼓動がうるさい。

 店のガラス越しに振り返る。
 海が他の客に笑顔を向けていた。
 自分にも同じ笑顔を見せてくれた。
 それでも、今はそれが少しだけ痛い。

***

 その夜、海もまた、ガラス越しに彼の背中を見送っていた。

 “また、来ます”

 その言葉の響きが、耳の奥に残って離れない。

 彼の顔色はまだ優れなかった。
 目の下の影も、少し濃くなっていた。

(無理してるんだろうな)

 何度も心の中でそう呟く。
 けれど、今は“店員”という肩書きに縛られて、手を伸ばすことができない。

 ガラスの向こうで傘を開く彼の背中が、街灯の下で淡く光った。
 雨の粒がその傘の上に散っていく。
 その光景が、やけに遠く感じた。

 「……また来ます」

 あの声を思い出す。
 “また”という言葉に、どれほどの想いが込められていたのだろう。

 その夜、海はレジを閉める直前まで、ガラスの外を見つめていた。
 街灯の下で誰かが立ち止まるたび、自分の胸の奥で何かが微かに跳ねるのを止められなかった。

***

 智也は帰り道、足を止めた。
 傘の布に当たる雨音が、規則的なリズムを刻んでいる。
 それがどこかで、彼の呼吸に似ている気がして、思わず目を閉じた。

 会えば苦しい。
 会わなければ、もっと苦しい。
 名前を呼べば距離が縮まる。
 でも、それ以上の言葉を口にする勇気がない。

 雨の冷たさが、夜の温度を曖昧にする。
 けれど、確かに感じる。
 この胸の痛みは、もう孤独とは違う。

 海の笑顔が頭から離れない。
 すれ違っただけの微笑みが、心に焼きついて離れない。

 その夜、智也は久しぶりに夢を見た気がした。
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