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第8話 壊れそうな距離
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移動の話は、月曜の朝に降ってきた。
会議が終わる直前、総務の人間がドアを叩いて入ってきて、淡々と読み上げた数名の名前のなかに、自分の名字が混じっていた。
行き先は同じ沿線の別支社。電車で3駅、距離にすれば大したことはない。
しかし、勤務時間が変わる。夜の残務が減り、朝型の体制に統一――つまり、金曜深夜の道を歩く理由が、ひとつ消える。
席に戻ると、隣の同僚が肩をつついた。
「おめでとう。こっちより人は多いけど、待遇は悪くないって」
「……そう」
「顔、暗いよ? 栄転なのに」
うまく笑えない。口角だけ上に引いて、モニターに視線を戻した。
おめでとう、は正しい。
けれど、胸の奥では、薄い紙を破くような音がした。週のリズムが、静かに断ち切られていく音。
昼休み、上司から個別に呼ばれた。
「芹沢くん、きみは安定してる。向こうで即戦力になってくれ」
「はい」
返事をしながら、頭の中で別の言葉が渦を巻く。
――午前2時、コンビニの灯りの下で。
レジカウンターの奥、控えめな笑み。
“また来ます”“お待ちしてます”
やり取りの端に残る、柔らかい余韻。
それらはあまりに温かく、失くしたくないものだった。
***
その週の金曜の夜、いつもの道を靴底がアスファルトを打つたび、何かが少しずつ離れていくような気がした。
真っ直ぐ帰れば、きっと眠れないだろう。
自然と足は別の角を曲がった。
白い灯りが見える。
きっと彼は、いつものようにそこにいる。
ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
声を聞いた瞬間、喉が詰まった。
海が顔を上げ、すぐに目元をゆるめる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
たったこの短い会話で、体温が揺れる。
商品棚を回りながら、自分に言い聞かせる。――言わなくていい。言ってしまえば、何かが動く。
けれど、言わなければ、何も始まらない。
レジに並ぶと、海がいつもより少しだけ手を止めた。
「顔色、あまりよくないです」
「大丈夫。……少し、考え事をしてただけ」
「眠れていますか」
頷く代わりに視線を落とす。袋に入るサンドイッチの角が、丁寧に整えられていく。
気遣いに甘えたい。だけど、甘え方がわからない。
会計を終え、受け皿みたいな沈黙が二人の間に置かれる。
ふいに、口が先に動いた。
「……もしかしたら、来月から、来る時間が変わります」
海の目が瞬く。
「勤務地が、変わるんです。移動があって。3駅先に」
「移動……」
短く繰り返した声に、微かな影が落ちる。
「おめでとうございます、でいいんですよね」
仕事上の正しさを選んだ語尾。
胸の内側がきしんだ。
「……たぶん」
それ以上の言葉が出てこない。
“さみしい”の一語を喉で丸めて、袋の取っ手を握る。
「気をつけて帰ってください」
いつもと同じ台詞。
同じなのに、夜の温度が一度下がったように感じた。
外に出ると、風が強い。街路樹の葉が擦れ、乾いた音を出す。
ガラス越しに振り返る。
海は、次の客に会釈をしていた。
それは、いつも見慣れた“店員の顔”。
こちらを見ないのは、忙しいからだ。
そう言い聞かせて歩き出す。
けれど、背中の真ん中に、目に見えない空洞ができていく。
……来月から、ここに来ない金曜が増える。
来ない、ではなく、来られない。
だって、来られる時間に彼はいない。
――“ただ、会いたい”だけなんて。
エレベーターの鏡に映る自分は、見慣れない顔をしている。
サンドイッチの角は潰れていなかった。
彼の丁寧さだけが、今夜も形を保っている。
灯りを落として横になると、天井の暗さがやけに近い。
移動の辞令。新しい席。新しい通勤路。
次々に浮かぶ実務の影の向こう、額に落ちたあの夜のキスの感触がふと浮かんでくる。
今日も眠れない。
***
同じ頃、店のバックヤードで、海はエプロンの紐を解いた。
ロッカーの扉に額を預け、深く息を吐く。
――移動
3駅先。時間が変わる。
頭の中で、彼の言い方を反芻する。
“もしかしたら” “変わります”
確定ではない曖昧さに、彼の躊躇いが滲む。
おめでとう、と言った。言うしかなかった。
でも、胸の内側では、別の言葉が喉に詰まっていた。
行かないで、の短い言葉。
その自分本位な音を、仕事の正しさで包んで飲み込んだ。
***
1週間が過ぎるのは遅かった。
移動の準備は淡々と進む。引き継ぎ、データの整理、社内チャットのチャンネル移動。
夕方の空は早く暗くなる季節で、帰宅するころには街の灯りがすでに滲んでいる。
金曜の夜。
行くべきか、行かないべきか。
判断を保留したまま、時計は一時半を越えた。
冷蔵庫のモーター音が単調に鳴る。
部屋の隅に落ちる影が深くなり、呼吸が浅くなる。
行かなければ、今夜は壊れてしまう。
行っても、別のものが壊れるかもしれない。
それでも――ドアに手をかけた。
コンビニの灯りは、相変わらず過不足なくそこにあった。
ドアベルが鳴る。
海が、すぐに気づいた。
いつもより、笑顔が少しだけ拙い。
こちらも、うまく笑えなかった。
棚を回っていると、店内放送が小さく流れる。
“来週、棚卸しに伴い、一部時間帯でレジを縮小運用……”
聞き流す情報のはずが、耳の奥で引っかかった。
レジに商品を置いたとき、海が言った。
「来週、僕、棚卸しで金曜日の夜勤がないかもしれません。……だから、会える日が1日減っちゃいます」
言いながら、目はまっすぐこちらを見ている。
“会える日”。
たった4文字が、胸の内側の空洞にふわりと落ちた。
――店員の、客に対する言葉じゃないよね。
心のどこかが、静かに確信する。
彼もまた、この距離の名前を探しているのかもしれない。
「そう、ですか」
声が掠れた。
海は、袋を渡す手を途中で止め、ゆっくり置くように前に差し出す。
手が触れた。
指先に、短い電流。
あの夜の記憶が、体温を伴って蘇る。
「……無理はしないでください」
彼はそれだけ言った。
「か、海くんも」
返す声は、やっとのことで形になった。
外に出ると、風は弱まっていた。
夜の底は浅く、東のほうがわずかに色を変え始めている。
壊れそうな距離は、相変わらずそこにあった。
でも、その距離の上に、細い橋の影が見える気がした。
来週、世界が少し変わる。
変わる手前の夜が、いちばん脆い。
それでも――壊れるだけが結果じゃない。
そう信じたいと思った。
その灯りの下で交わした“また”の数だけ、まだ行ける場所が残っている。
そう思えたところで、初めて、深く息が吸えた。
会議が終わる直前、総務の人間がドアを叩いて入ってきて、淡々と読み上げた数名の名前のなかに、自分の名字が混じっていた。
行き先は同じ沿線の別支社。電車で3駅、距離にすれば大したことはない。
しかし、勤務時間が変わる。夜の残務が減り、朝型の体制に統一――つまり、金曜深夜の道を歩く理由が、ひとつ消える。
席に戻ると、隣の同僚が肩をつついた。
「おめでとう。こっちより人は多いけど、待遇は悪くないって」
「……そう」
「顔、暗いよ? 栄転なのに」
うまく笑えない。口角だけ上に引いて、モニターに視線を戻した。
おめでとう、は正しい。
けれど、胸の奥では、薄い紙を破くような音がした。週のリズムが、静かに断ち切られていく音。
昼休み、上司から個別に呼ばれた。
「芹沢くん、きみは安定してる。向こうで即戦力になってくれ」
「はい」
返事をしながら、頭の中で別の言葉が渦を巻く。
――午前2時、コンビニの灯りの下で。
レジカウンターの奥、控えめな笑み。
“また来ます”“お待ちしてます”
やり取りの端に残る、柔らかい余韻。
それらはあまりに温かく、失くしたくないものだった。
***
その週の金曜の夜、いつもの道を靴底がアスファルトを打つたび、何かが少しずつ離れていくような気がした。
真っ直ぐ帰れば、きっと眠れないだろう。
自然と足は別の角を曲がった。
白い灯りが見える。
きっと彼は、いつものようにそこにいる。
ドアベルが鳴る。
「いらっしゃいませ」
声を聞いた瞬間、喉が詰まった。
海が顔を上げ、すぐに目元をゆるめる。
「こんばんは」
「……こんばんは」
たったこの短い会話で、体温が揺れる。
商品棚を回りながら、自分に言い聞かせる。――言わなくていい。言ってしまえば、何かが動く。
けれど、言わなければ、何も始まらない。
レジに並ぶと、海がいつもより少しだけ手を止めた。
「顔色、あまりよくないです」
「大丈夫。……少し、考え事をしてただけ」
「眠れていますか」
頷く代わりに視線を落とす。袋に入るサンドイッチの角が、丁寧に整えられていく。
気遣いに甘えたい。だけど、甘え方がわからない。
会計を終え、受け皿みたいな沈黙が二人の間に置かれる。
ふいに、口が先に動いた。
「……もしかしたら、来月から、来る時間が変わります」
海の目が瞬く。
「勤務地が、変わるんです。移動があって。3駅先に」
「移動……」
短く繰り返した声に、微かな影が落ちる。
「おめでとうございます、でいいんですよね」
仕事上の正しさを選んだ語尾。
胸の内側がきしんだ。
「……たぶん」
それ以上の言葉が出てこない。
“さみしい”の一語を喉で丸めて、袋の取っ手を握る。
「気をつけて帰ってください」
いつもと同じ台詞。
同じなのに、夜の温度が一度下がったように感じた。
外に出ると、風が強い。街路樹の葉が擦れ、乾いた音を出す。
ガラス越しに振り返る。
海は、次の客に会釈をしていた。
それは、いつも見慣れた“店員の顔”。
こちらを見ないのは、忙しいからだ。
そう言い聞かせて歩き出す。
けれど、背中の真ん中に、目に見えない空洞ができていく。
……来月から、ここに来ない金曜が増える。
来ない、ではなく、来られない。
だって、来られる時間に彼はいない。
――“ただ、会いたい”だけなんて。
エレベーターの鏡に映る自分は、見慣れない顔をしている。
サンドイッチの角は潰れていなかった。
彼の丁寧さだけが、今夜も形を保っている。
灯りを落として横になると、天井の暗さがやけに近い。
移動の辞令。新しい席。新しい通勤路。
次々に浮かぶ実務の影の向こう、額に落ちたあの夜のキスの感触がふと浮かんでくる。
今日も眠れない。
***
同じ頃、店のバックヤードで、海はエプロンの紐を解いた。
ロッカーの扉に額を預け、深く息を吐く。
――移動
3駅先。時間が変わる。
頭の中で、彼の言い方を反芻する。
“もしかしたら” “変わります”
確定ではない曖昧さに、彼の躊躇いが滲む。
おめでとう、と言った。言うしかなかった。
でも、胸の内側では、別の言葉が喉に詰まっていた。
行かないで、の短い言葉。
その自分本位な音を、仕事の正しさで包んで飲み込んだ。
***
1週間が過ぎるのは遅かった。
移動の準備は淡々と進む。引き継ぎ、データの整理、社内チャットのチャンネル移動。
夕方の空は早く暗くなる季節で、帰宅するころには街の灯りがすでに滲んでいる。
金曜の夜。
行くべきか、行かないべきか。
判断を保留したまま、時計は一時半を越えた。
冷蔵庫のモーター音が単調に鳴る。
部屋の隅に落ちる影が深くなり、呼吸が浅くなる。
行かなければ、今夜は壊れてしまう。
行っても、別のものが壊れるかもしれない。
それでも――ドアに手をかけた。
コンビニの灯りは、相変わらず過不足なくそこにあった。
ドアベルが鳴る。
海が、すぐに気づいた。
いつもより、笑顔が少しだけ拙い。
こちらも、うまく笑えなかった。
棚を回っていると、店内放送が小さく流れる。
“来週、棚卸しに伴い、一部時間帯でレジを縮小運用……”
聞き流す情報のはずが、耳の奥で引っかかった。
レジに商品を置いたとき、海が言った。
「来週、僕、棚卸しで金曜日の夜勤がないかもしれません。……だから、会える日が1日減っちゃいます」
言いながら、目はまっすぐこちらを見ている。
“会える日”。
たった4文字が、胸の内側の空洞にふわりと落ちた。
――店員の、客に対する言葉じゃないよね。
心のどこかが、静かに確信する。
彼もまた、この距離の名前を探しているのかもしれない。
「そう、ですか」
声が掠れた。
海は、袋を渡す手を途中で止め、ゆっくり置くように前に差し出す。
手が触れた。
指先に、短い電流。
あの夜の記憶が、体温を伴って蘇る。
「……無理はしないでください」
彼はそれだけ言った。
「か、海くんも」
返す声は、やっとのことで形になった。
外に出ると、風は弱まっていた。
夜の底は浅く、東のほうがわずかに色を変え始めている。
壊れそうな距離は、相変わらずそこにあった。
でも、その距離の上に、細い橋の影が見える気がした。
来週、世界が少し変わる。
変わる手前の夜が、いちばん脆い。
それでも――壊れるだけが結果じゃない。
そう信じたいと思った。
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そう思えたところで、初めて、深く息が吸えた。
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