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第九章:永遠の途 ― 祈りは光に還る ―
第148話・記憶の庭に咲いた花
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朝靄が淡く漂いはじめた頃、ルナフィエラはゆっくりと森をあとにした。
夜露を含んだ風が髪を揺らし、足音だけが静まり返った古城の廊下に吸い込まれていく。
あれから――1000年。
時がどれほど流れても、この場所だけは何ひとつ変わらなかった。
床を覆う絨毯の感触も、壁にかけられた絵画の色も。
まるで、彼らと過ごした日々の続きを生きているかのように。
ふと、机の引き出しの奥から――淡い緑の光が、ほのかに零れた。
ルナフィエラは小さく息を呑み、指先でそれを取り出す。
掌に乗せたのは、エメラルドの宝石をはめこんだ小さなブローチ。
朝の光を受けて、まるで生きているように煌めいていた。
「……フィン」
その名を呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと疼く。
この輝きは、彼の瞳と同じ色。
いつも真っ直ぐで、どこまでも優しかった。
世界が静まり、視界が淡い光に包まれる。
記憶がひらく。
春の風が吹く、彼との最後の朝へ――。
窓の外では花びらが舞い、古城の庭に柔らかな陽が降り注いでいる。
その日も、フィンはいつものように笑っていた。
いつも通りの朝、いつも通りの笑顔。
ただひとつ違っていたのは――まぶたの奥に、ほんのかすかな疲れの影が差していたこと。
けれどそのときのルナフィエラは、まだ気づかなかった。
「ルナ、見て。新しい花が咲いたよ」
「ほんとだ……きれい」
「ね。きっと、ルナが毎日水をあげてくれたからだね」
風に乗って、彼の声が透き通るように響いた。
それが――最後に聞いた“いつもの声”だった。
昼過ぎ。
静かな部屋で、フィンはふっと机に寄りかかるように倒れた。
呼吸の音が止まり、手から離れたペンが床を転がる。
「……フィン?」
その名を呼ぶ声が震えた。
近づいても、彼はもう目を開けない。
「ヴィクトル、シグ、ユリウス!」
駆け込む足音。
手早く魔法が放たれ、温かな光が身体を包む。
けれど、何の反応もなかった。
その場にしゃがみ込んで、ルナフィエラは彼の身体を抱きしめた。
冷たくなっていく指を必死に温めるように。
「フィン……お願い、目を開けて……」
けれど彼は、もう穏やかな寝息を立てることもなかった。
ルナフィエラの頬に、ぽたりと涙が落ちる。
それは静寂の中で、やけに大きく聞こえた。
「……やだ、いや……起きてよ……。ねえ、また一緒に外を歩こうよ……」
呼びかける声はかすれ、言葉のたびに涙が零れた。
「どうして……。どうして、置いていくの……」
嗚咽がこぼれ、胸が締めつけられる。
涙が止まらなかった。
誰かを“失う”ということが、これほど痛いものだとは知らなかった。
儀式で家族を失ったあの日、泣く暇もなく生きるしかなかった。
けれど今は違う。
生きていても、心が壊れてしまいそうだった。
やがて夜が降りてきて、蝋燭の火がゆらめき、部屋の影を揺らす。
ヴィクトルたちが静かに見守る中で、ルナフィエラはフィンの手を握ったまま、動かなかった。
誰かがそっと声をかけようとするたび、その表情に宿る絶望が、言葉を封じた。
長い夜だった。
どれほどの時間、泣いていたのか分からない。
涙はとっくに尽きているのに、胸が痛くて、息ができなかった。
翌朝ー。
うっすらとした光が窓から差し込み、部屋の中を淡く染める。
ルナフィエラはまだ、フィンの手を握っていた。
眠っているのだと信じたかった。
けれど、頬に感じる体温は、もうどこにもなかった。
「……フィン」
掠れた声で名前を呼ぶ。
動かないその身体を、そっと撫でる。
そこに確かにあった命が、もう戻らない。
世界から、音が消える。
鳥のさえずりも、風の音も、遠い。
胸の奥にぽっかりと空いた空白が、静かに彼女を飲み込んでいった。
「……ありがとう」
絞り出すように呟いた。
涙で濡れた頬に、微かな笑みが浮かぶ。
「あなたがいてくれて、楽しかった。だから……どうか、安らかに」
その声は、壊れそうに細くて、けれど確かに届いていた。
まるで――フィンの唇が、最後に微かに笑ったように見えたから。
そしてルナフィエラはそのまま、彼の傍で泣き疲れ、眠りに落ちる。
ヴィクトルがそっと近づき、崩れ落ちるように眠る彼女を抱き上げた。
その瞳に、ひとすじの涙が落ちる。
彼は何も言わず、ただ静かに彼女を寝室へと運んだ。
背後では、ユリウスがフィンの亡骸に祈りを捧げ、シグが無言で拳を握りしめていた。
夜露を含んだ風が髪を揺らし、足音だけが静まり返った古城の廊下に吸い込まれていく。
あれから――1000年。
時がどれほど流れても、この場所だけは何ひとつ変わらなかった。
床を覆う絨毯の感触も、壁にかけられた絵画の色も。
まるで、彼らと過ごした日々の続きを生きているかのように。
ふと、机の引き出しの奥から――淡い緑の光が、ほのかに零れた。
ルナフィエラは小さく息を呑み、指先でそれを取り出す。
掌に乗せたのは、エメラルドの宝石をはめこんだ小さなブローチ。
朝の光を受けて、まるで生きているように煌めいていた。
「……フィン」
その名を呼ぶだけで、胸の奥がきゅっと疼く。
この輝きは、彼の瞳と同じ色。
いつも真っ直ぐで、どこまでも優しかった。
世界が静まり、視界が淡い光に包まれる。
記憶がひらく。
春の風が吹く、彼との最後の朝へ――。
窓の外では花びらが舞い、古城の庭に柔らかな陽が降り注いでいる。
その日も、フィンはいつものように笑っていた。
いつも通りの朝、いつも通りの笑顔。
ただひとつ違っていたのは――まぶたの奥に、ほんのかすかな疲れの影が差していたこと。
けれどそのときのルナフィエラは、まだ気づかなかった。
「ルナ、見て。新しい花が咲いたよ」
「ほんとだ……きれい」
「ね。きっと、ルナが毎日水をあげてくれたからだね」
風に乗って、彼の声が透き通るように響いた。
それが――最後に聞いた“いつもの声”だった。
昼過ぎ。
静かな部屋で、フィンはふっと机に寄りかかるように倒れた。
呼吸の音が止まり、手から離れたペンが床を転がる。
「……フィン?」
その名を呼ぶ声が震えた。
近づいても、彼はもう目を開けない。
「ヴィクトル、シグ、ユリウス!」
駆け込む足音。
手早く魔法が放たれ、温かな光が身体を包む。
けれど、何の反応もなかった。
その場にしゃがみ込んで、ルナフィエラは彼の身体を抱きしめた。
冷たくなっていく指を必死に温めるように。
「フィン……お願い、目を開けて……」
けれど彼は、もう穏やかな寝息を立てることもなかった。
ルナフィエラの頬に、ぽたりと涙が落ちる。
それは静寂の中で、やけに大きく聞こえた。
「……やだ、いや……起きてよ……。ねえ、また一緒に外を歩こうよ……」
呼びかける声はかすれ、言葉のたびに涙が零れた。
「どうして……。どうして、置いていくの……」
嗚咽がこぼれ、胸が締めつけられる。
涙が止まらなかった。
誰かを“失う”ということが、これほど痛いものだとは知らなかった。
儀式で家族を失ったあの日、泣く暇もなく生きるしかなかった。
けれど今は違う。
生きていても、心が壊れてしまいそうだった。
やがて夜が降りてきて、蝋燭の火がゆらめき、部屋の影を揺らす。
ヴィクトルたちが静かに見守る中で、ルナフィエラはフィンの手を握ったまま、動かなかった。
誰かがそっと声をかけようとするたび、その表情に宿る絶望が、言葉を封じた。
長い夜だった。
どれほどの時間、泣いていたのか分からない。
涙はとっくに尽きているのに、胸が痛くて、息ができなかった。
翌朝ー。
うっすらとした光が窓から差し込み、部屋の中を淡く染める。
ルナフィエラはまだ、フィンの手を握っていた。
眠っているのだと信じたかった。
けれど、頬に感じる体温は、もうどこにもなかった。
「……フィン」
掠れた声で名前を呼ぶ。
動かないその身体を、そっと撫でる。
そこに確かにあった命が、もう戻らない。
世界から、音が消える。
鳥のさえずりも、風の音も、遠い。
胸の奥にぽっかりと空いた空白が、静かに彼女を飲み込んでいった。
「……ありがとう」
絞り出すように呟いた。
涙で濡れた頬に、微かな笑みが浮かぶ。
「あなたがいてくれて、楽しかった。だから……どうか、安らかに」
その声は、壊れそうに細くて、けれど確かに届いていた。
まるで――フィンの唇が、最後に微かに笑ったように見えたから。
そしてルナフィエラはそのまま、彼の傍で泣き疲れ、眠りに落ちる。
ヴィクトルがそっと近づき、崩れ落ちるように眠る彼女を抱き上げた。
その瞳に、ひとすじの涙が落ちる。
彼は何も言わず、ただ静かに彼女を寝室へと運んだ。
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