152 / 177
第九章:永遠の途 ― 祈りは光に還る ―
第150話・君の名を呼ぶ森
しおりを挟む
──光が、静かに消えていった。
指の間に残るぬくもりだけが、過ぎ去った時間の確かさを伝えている。
ルナフィエラはゆっくりと息を吸い込み、手の中のブローチを見つめた。
翠の魔石は、今もかすかに輝きを宿している。
けれど、その光に心が動くことはもうなかった。
「……ねえ、フィン」
呟く声は、風に溶けて消える。
静寂だけが、寄り添うようにそこ残った。
ルナフィエラはブローチを両手で包み、机の引き出しの奥へとそっと戻す。
“もう、守られる必要はない”
そんなふうに思ったわけではない。
ただ――胸の奥で感じていた“痛み”さえ、いつの間にか薄れてしまったのだ。
引き出しを閉める音が、古城の静けさに溶けていく。
閉じた引き出しに視線を落としたまま、小さく息を吸い、吐いた。
ふと、部屋の片隅に置かれたティーポットが目に入る。
ずっと使わずにいたそれを、なぜか今、使ってみようと思った。
ヴィクトルに教わった紅茶の淹れ方。
正確な分量も、抽出の時間も覚えている。
けれど、もう誰かと飲むための紅茶ではない。
キッチンの棚の奥から取り出した小瓶には、少しだけ残った茶葉が入っていた。
封を開けると、淡い香りが空気に広がる。
「……まだ、香るんだ」
誰にともなく呟いて、ルナフィエラは小さく笑った。
湯を注ぐ音だけが静かに響く。
その音に重なるように、遠くで鳥の声がした。
やがてカップに紅茶を注ぎ、ひと口、口に含む。
温かいはずの液体が、喉を通っても何の味もしなかった。
「やっぱり……ヴィクトルみたいには、いかないね」
微かな笑みとともに呟いた声が、陽だまりの中に溶けて消える。
窓の外では、春の風が庭を撫でていた。
咲き誇る花々が見える。
けれど、その名を思い出そうとしても、言葉が出てこなかった。
空になったカップをそっと置き、窓辺から壁へと視線を移す。
そこには、鈍く光を放つ大斧が立てかけられていた。
シグが最後まで使い続けた、彼の象徴。
ルナフィエラは静かに立ち上がり、窓辺から射す光が寝室の片隅にある大斧を淡く照らすのを見つめた。
その鈍い輝きに、胸の奥がひとつ、波打つ。
指先が勝手に伸びる。
冷たい鉄に触れた瞬間、微かなぬくもりが蘇った気がした。
「……シグ」
かすれた声が漏れる。
言葉は風に溶け、どこか遠くへ消えていく。
目を閉じると、森の匂いがした。
湿った土の香り、夜露に濡れた草の感触。
そのすべてが――あの夜の記憶を呼び覚ます。
あの夜も、ルナフィエラはひとりで森を歩いていた。
灯りも持たず、ただ月明かりだけを頼りに。
冷たい夜気が頬を刺すたびに、涙がにじんだ。
「……シグ、どこにいるの……」
震える声が闇に吸い込まれる。
何度呼んでも返事はない。
あの大きな背中も、穏やかに笑う声も、どこにも見つからなかった。
足元の枝が折れる音が、やけに大きく響く。
夜は深く、息をするたびに胸が締めつけられる。
それでも止まれなかった。
――また誰かを失うなんて、嫌だった。
涙がこぼれても拭わず、ただ歩き続ける。
やがて、木々の隙間から小さな光が見えた。
崩れた岩壁の向こう、薄闇に灯る微かな焔。
その場所に――彼はいた。
岩に背を預け、穏やかに目を閉じている。
肩で浅く息をしながらも、表情はどこまでも優しかった。
「……ルナ」
その声を聞いた瞬間、彼女は駆け出していた。
考えるより先に、身体が動いていた。
「どうして……どうして何も言わずにいなくなったの!」
涙で滲む視界の中、彼の胸に飛び込む。
力強い腕が、かすかに震えながらも彼女を抱きとめた。
「ごめんな……泣かせたくなかったんだ」
シグの声は、深く、あたたかく、そしてどこか遠い。
大きな手が、震える指でルナフィエラの髪を撫でた。
「……怖かったんだ。また、ルナが悲しい顔をするのが」
「でも、いなくなるのは嫌だよ……。どこにも行かないで」
抱きしめる腕に力がこもる。
シグの鼓動が、ゆっくりと、確かに響いた。
それだけで、生きていると信じられた。
洞窟の入口から、かすかな月の光が差し込んでいる。
薄い靄を透かして届くその光は、二人の影をゆらりと揺らした。
シグの頬に、淡い光が触れる。
それが、ルナフィエラの涙の雫と重なって――
ひとしずく、静かに彼の胸へと落ちた。
指の間に残るぬくもりだけが、過ぎ去った時間の確かさを伝えている。
ルナフィエラはゆっくりと息を吸い込み、手の中のブローチを見つめた。
翠の魔石は、今もかすかに輝きを宿している。
けれど、その光に心が動くことはもうなかった。
「……ねえ、フィン」
呟く声は、風に溶けて消える。
静寂だけが、寄り添うようにそこ残った。
ルナフィエラはブローチを両手で包み、机の引き出しの奥へとそっと戻す。
“もう、守られる必要はない”
そんなふうに思ったわけではない。
ただ――胸の奥で感じていた“痛み”さえ、いつの間にか薄れてしまったのだ。
引き出しを閉める音が、古城の静けさに溶けていく。
閉じた引き出しに視線を落としたまま、小さく息を吸い、吐いた。
ふと、部屋の片隅に置かれたティーポットが目に入る。
ずっと使わずにいたそれを、なぜか今、使ってみようと思った。
ヴィクトルに教わった紅茶の淹れ方。
正確な分量も、抽出の時間も覚えている。
けれど、もう誰かと飲むための紅茶ではない。
キッチンの棚の奥から取り出した小瓶には、少しだけ残った茶葉が入っていた。
封を開けると、淡い香りが空気に広がる。
「……まだ、香るんだ」
誰にともなく呟いて、ルナフィエラは小さく笑った。
湯を注ぐ音だけが静かに響く。
その音に重なるように、遠くで鳥の声がした。
やがてカップに紅茶を注ぎ、ひと口、口に含む。
温かいはずの液体が、喉を通っても何の味もしなかった。
「やっぱり……ヴィクトルみたいには、いかないね」
微かな笑みとともに呟いた声が、陽だまりの中に溶けて消える。
窓の外では、春の風が庭を撫でていた。
咲き誇る花々が見える。
けれど、その名を思い出そうとしても、言葉が出てこなかった。
空になったカップをそっと置き、窓辺から壁へと視線を移す。
そこには、鈍く光を放つ大斧が立てかけられていた。
シグが最後まで使い続けた、彼の象徴。
ルナフィエラは静かに立ち上がり、窓辺から射す光が寝室の片隅にある大斧を淡く照らすのを見つめた。
その鈍い輝きに、胸の奥がひとつ、波打つ。
指先が勝手に伸びる。
冷たい鉄に触れた瞬間、微かなぬくもりが蘇った気がした。
「……シグ」
かすれた声が漏れる。
言葉は風に溶け、どこか遠くへ消えていく。
目を閉じると、森の匂いがした。
湿った土の香り、夜露に濡れた草の感触。
そのすべてが――あの夜の記憶を呼び覚ます。
あの夜も、ルナフィエラはひとりで森を歩いていた。
灯りも持たず、ただ月明かりだけを頼りに。
冷たい夜気が頬を刺すたびに、涙がにじんだ。
「……シグ、どこにいるの……」
震える声が闇に吸い込まれる。
何度呼んでも返事はない。
あの大きな背中も、穏やかに笑う声も、どこにも見つからなかった。
足元の枝が折れる音が、やけに大きく響く。
夜は深く、息をするたびに胸が締めつけられる。
それでも止まれなかった。
――また誰かを失うなんて、嫌だった。
涙がこぼれても拭わず、ただ歩き続ける。
やがて、木々の隙間から小さな光が見えた。
崩れた岩壁の向こう、薄闇に灯る微かな焔。
その場所に――彼はいた。
岩に背を預け、穏やかに目を閉じている。
肩で浅く息をしながらも、表情はどこまでも優しかった。
「……ルナ」
その声を聞いた瞬間、彼女は駆け出していた。
考えるより先に、身体が動いていた。
「どうして……どうして何も言わずにいなくなったの!」
涙で滲む視界の中、彼の胸に飛び込む。
力強い腕が、かすかに震えながらも彼女を抱きとめた。
「ごめんな……泣かせたくなかったんだ」
シグの声は、深く、あたたかく、そしてどこか遠い。
大きな手が、震える指でルナフィエラの髪を撫でた。
「……怖かったんだ。また、ルナが悲しい顔をするのが」
「でも、いなくなるのは嫌だよ……。どこにも行かないで」
抱きしめる腕に力がこもる。
シグの鼓動が、ゆっくりと、確かに響いた。
それだけで、生きていると信じられた。
洞窟の入口から、かすかな月の光が差し込んでいる。
薄い靄を透かして届くその光は、二人の影をゆらりと揺らした。
シグの頬に、淡い光が触れる。
それが、ルナフィエラの涙の雫と重なって――
ひとしずく、静かに彼の胸へと落ちた。
0
あなたにおすすめの小説
【長編版】孤独な少女が異世界転生した結果
下菊みこと
恋愛
身体は大人、頭脳は子供になっちゃった元悪役令嬢のお話の長編版です。
一話は短編そのまんまです。二話目から新しいお話が始まります。
純粋無垢な主人公テレーズが、年上の旦那様ボーモンと無自覚にイチャイチャしたり様々な問題を解決して活躍したりするお話です。
小説家になろう様でも投稿しています。
この世界に転生したらいろんな人に溺愛されちゃいました!
キムチ鍋
恋愛
前世は不慮の事故で死んだ(主人公)公爵令嬢ニコ・オリヴィアは最近前世の記憶を思い出す。
だが彼女は人生を楽しむことができなっかたので今世は幸せな人生を送ることを決意する。
「前世は不慮の事故で死んだのだから今世は楽しんで幸せな人生を送るぞ!」
そこからいろいろな人に愛されていく。
作者のキムチ鍋です!
不定期で投稿していきます‼️
19時投稿です‼️
異世界から来た娘が、たまらなく可愛いのだが(同感)〜こっちにきてから何故かイケメンに囲まれています〜
京
恋愛
普通の女子高生、朱璃はいつのまにか異世界に迷い込んでいた。
右も左もわからない状態で偶然出会った青年にしがみついた結果、なんとかお世話になることになる。一宿一飯の恩義を返そうと懸命に生きているうちに、国の一大事に巻き込まれたり巻き込んだり。気付くと個性豊かなイケメンたちに大切に大切にされていた。
そんな乙女ゲームのようなお話。
【受賞&書籍化】先視の王女の謀(さきみのおうじょのはかりごと)
神宮寺 あおい
恋愛
謎解き×恋愛
女神の愛し子は神託の謎を解き明かす。
月の女神に愛された国、フォルトゥーナの第二王女ディアナ。
ある日ディアナは女神の神託により隣国のウィクトル帝国皇帝イーサンの元へ嫁ぐことになった。
そして閉鎖的と言われるくらい国外との交流のないフォルトゥーナからウィクトル帝国へ行ってみれば、イーサンは男爵令嬢のフィリアを溺愛している。
さらにディアナは仮初の皇后であり、いずれ離縁してフィリアを皇后にすると言い出す始末。
味方の少ない中ディアナは女神の神託にそって行動を起こすが、それにより事態は思わぬ方向に転がっていく。
誰が敵で誰が味方なのか。
そして白日の下に晒された事実を前に、ディアナの取った行動はーー。
カクヨムコンテスト10 ファンタジー恋愛部門 特別賞受賞。
英雄の番が名乗るまで
長野 雪
恋愛
突然発生した魔物の大侵攻。西の果てから始まったそれは、いくつもの集落どころか国すら飲みこみ、世界中の国々が人種・宗教を越えて協力し、とうとう終息を迎えた。魔物の駆逐・殲滅に目覚ましい活躍を見せた5人は吟遊詩人によって「五英傑」と謳われ、これから彼らの活躍は英雄譚として広く知られていくのであろう。
大侵攻の終息を祝う宴の最中、己の番《つがい》の気配を感じた五英傑の一人、竜人フィルは見つけ出した途端、気を失ってしまった彼女に対し、番の誓約を行おうとするが失敗に終わる。番と己の寿命を等しくするため、何より番を手元に置き続けるためにフィルにとっては重要な誓約がどうして失敗したのか分からないものの、とにかく庇護したいフィルと、ぐいぐい溺愛モードに入ろうとする彼に一歩距離を置いてしまう番の女性との一進一退のおはなし。
※小説家になろうにも投稿
捕まり癒やされし異世界
波間柏
恋愛
飲んでものまれるな。
飲まれて異世界に飛んでしまい手遅れだが、そう固く決意した大学生 野々村 未来の異世界生活。
異世界から来た者は何か能力をもつはずが、彼女は何もなかった。ただ、とある声を聞き閃いた。
「これ、売れる」と。
自分の中では砂糖多めなお話です。
銀狼の花嫁~動物の言葉がわかる獣医ですが、追放先の森で銀狼さんを介抱したら森の聖女と呼ばれるようになりました~
川上とむ
恋愛
森に囲まれた村で獣医として働くコルネリアは動物の言葉がわかる一方、その能力を気味悪がられていた。
そんなある日、コルネリアは村の習わしによって森の主である銀狼の花嫁に選ばれてしまう。
それは村からの追放を意味しており、彼女は絶望する。
村に助けてくれる者はおらず、銀狼の元へと送り込まれてしまう。
ところが出会った銀狼は怪我をしており、それを見たコルネリアは彼の傷の手当をする。
すると銀狼は彼女に一目惚れしたらしく、その場で結婚を申し込んでくる。
村に戻ることもできないコルネリアはそれを承諾。晴れて本当の銀狼の花嫁となる。
そのまま森で暮らすことになった彼女だが、動物と会話ができるという能力を活かし、第二の人生を謳歌していく。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる