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第九章:永遠の途 ― 祈りは光に還る ―
第158話・静寂の書庫で、あなたを想う
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読み終えた手紙を、そっと閉じた。
ふわりと紙の擦れる音がして――その瞬間、ルナフィエラはようやく息をつく。
さっきまで胸の奥にあった冬の気配が、静かにほどけていく。
ヴィクトルの最期と、その手の温度。
――もう戻らない過去。
静かな余韻に包まれたまま、彼女はしばらくその場から動けなかった。
窓の向こうでは、夕暮れの橙が薄れ、柔らかな紺がゆっくりと城を満たし始めている。
それでもルナフィエラは椅子に座わり、手紙を胸に抱えた姿勢のまま、ただ時間が落ちていくのを感じていた。
やがてルナフィエラは、ゆっくりと立ち上がり、折り目の柔らかくなった手紙を机の引き出しへ戻す。
指先が紙から離れる瞬間、胸の奥がほんのわずかに揺れた。
それが“寂しさ”なのか“懐かしさ”なのか――自分でも判別がつかない。
引き出しを閉めると、古城の静けさが再び満ちてくる。
気がつけば足は、自然と廊下の方へと向かっていた。
ゆっくりと歩いて、ヴィクトルの部屋の前に辿り着く。
扉は閉じられたまま。
あの日から、誰も触れていない。
手を伸ばせば開けられる。
ほんの指先ひとつの距離。
けれど、その一歩だけがどうしても踏み出せなかった。
長い沈黙ののち、ルナフィエラはそっと視線を落とし、扉に背を向けた。
歩き出す足は自然と別の場所へ向かう。
行き着いた先は、書庫だった。
別に、一人になりたいわけではない。
――今の彼女は、どこにいても一人なのだから。
ただ、この場所にはユリウスとの静かな時間が詰まっている。
本を読み聞かせてもらった日。
古代文字の解説を聞いた日。
ヴィクトルが淹れた紅茶を三人で飲んだ穏やかな午後。
書庫の扉を押すと、ひんやりとした空気が頬に触れた。
薄暗い灯に照らされて、無数の本が静かに眠っている。
もともと古城には数えきれないほどの本があった。
けれど――
ユリウスと出会ってからの年月で、その数はさらに増えていった。
専門書、魔術理論、薬草学、歴史書。
そして、ささやかなロマンス小説まで。
ルナフィエラの指先が、ゆっくりと背表紙を撫でる。
ほとんどの本が、ユリウスと二人きりで過ごした時間の名残だった。
(……ここで、ずっと)
フィンがいなくなり、シグを見送り、そして、ヴィクトルの部屋が静かになってしまってから、ルナフィエラとユリウスは、自然とこの書庫で過ごすことが習慣になっていた。
本を読むだけ。
言葉を交わさなくても、同じ時間の中に並んで座っていれば、それで十分だった。
話してしまえば、この空白の重さがどれほど深いものかを直視することになる。
だから、誰のことも話題にしなかった。
フィンのことも、シグのことも、ヴィクトルのことも。
触れなければ、“今だけは”二人でいられたから。
ルナフィエラは棚に手を預けたまま、しばらく動かなかった。
静かだった。
あまりにも静かで――
かつてここにあった“ぬくもり”だけが、胸の奥でそっと疼いた。
ユリウスがいた頃の気配が、まだ薄く空気に溶け残っている。
(……ユリウス)
ふと、書庫の中央に置かれた長机の端に、古びた装丁の本が目に入る。
――初めて街へ行った日のことが蘇った。
フィンが手を引き、シグが周囲を見張り、
ヴィクトルが荷物を受け取ってくれて、
ユリウスは本の価値を丁寧に教えてくれた。
その日、まだ何も知らなかった自分が、タイトルとただ“挿絵が綺麗”というだけで選んだ古語の本。
ルナフィエラは静かにそれを手に取る。
ページをそっと開いた。
ぱらり、と紙が空気を震わせる音。
目に飛び込んでくる古語の文章は、もう辞書なしでも読めてしまう。
昔は、一文字ずつユリウスが教えてくれたのに。
「これは古い精霊語の派生だよ」
「ここの単語は文脈で意味が変わるんだ」
難しい説明に、ルナフィエラはよく首をかしげた。
そのたび、ユリウスは柔らかく微笑んで教えてくれた。
(あの時は、すごく難しかったのに……)
今は、たった一人で理解できてしまう。
成長した証なのに、誇らしくなんてなかった。
ユリウスと一緒にいた時間が、もう手の中には“ない”のだと気づかされるだけだったから。
静かな息をひとつ落とす。
気づけば、視線は文字ではなく遠い記憶へと向かっていた。
書庫の空気が、ふと変わった気がする。
ユリウスと過ごした時間の気配が、淡く、そっと揺れる。
本の上で止まった指先に、かすかな熱が宿った。
ページの向こう側――
その先にある記憶が、静かに、けれど確かな力で引き寄せていく。
そして――
ルナフィエラの意識は、ゆっくりと沈みはじめた。
ユリウスとの、最期の記憶へ。
ふわりと紙の擦れる音がして――その瞬間、ルナフィエラはようやく息をつく。
さっきまで胸の奥にあった冬の気配が、静かにほどけていく。
ヴィクトルの最期と、その手の温度。
――もう戻らない過去。
静かな余韻に包まれたまま、彼女はしばらくその場から動けなかった。
窓の向こうでは、夕暮れの橙が薄れ、柔らかな紺がゆっくりと城を満たし始めている。
それでもルナフィエラは椅子に座わり、手紙を胸に抱えた姿勢のまま、ただ時間が落ちていくのを感じていた。
やがてルナフィエラは、ゆっくりと立ち上がり、折り目の柔らかくなった手紙を机の引き出しへ戻す。
指先が紙から離れる瞬間、胸の奥がほんのわずかに揺れた。
それが“寂しさ”なのか“懐かしさ”なのか――自分でも判別がつかない。
引き出しを閉めると、古城の静けさが再び満ちてくる。
気がつけば足は、自然と廊下の方へと向かっていた。
ゆっくりと歩いて、ヴィクトルの部屋の前に辿り着く。
扉は閉じられたまま。
あの日から、誰も触れていない。
手を伸ばせば開けられる。
ほんの指先ひとつの距離。
けれど、その一歩だけがどうしても踏み出せなかった。
長い沈黙ののち、ルナフィエラはそっと視線を落とし、扉に背を向けた。
歩き出す足は自然と別の場所へ向かう。
行き着いた先は、書庫だった。
別に、一人になりたいわけではない。
――今の彼女は、どこにいても一人なのだから。
ただ、この場所にはユリウスとの静かな時間が詰まっている。
本を読み聞かせてもらった日。
古代文字の解説を聞いた日。
ヴィクトルが淹れた紅茶を三人で飲んだ穏やかな午後。
書庫の扉を押すと、ひんやりとした空気が頬に触れた。
薄暗い灯に照らされて、無数の本が静かに眠っている。
もともと古城には数えきれないほどの本があった。
けれど――
ユリウスと出会ってからの年月で、その数はさらに増えていった。
専門書、魔術理論、薬草学、歴史書。
そして、ささやかなロマンス小説まで。
ルナフィエラの指先が、ゆっくりと背表紙を撫でる。
ほとんどの本が、ユリウスと二人きりで過ごした時間の名残だった。
(……ここで、ずっと)
フィンがいなくなり、シグを見送り、そして、ヴィクトルの部屋が静かになってしまってから、ルナフィエラとユリウスは、自然とこの書庫で過ごすことが習慣になっていた。
本を読むだけ。
言葉を交わさなくても、同じ時間の中に並んで座っていれば、それで十分だった。
話してしまえば、この空白の重さがどれほど深いものかを直視することになる。
だから、誰のことも話題にしなかった。
フィンのことも、シグのことも、ヴィクトルのことも。
触れなければ、“今だけは”二人でいられたから。
ルナフィエラは棚に手を預けたまま、しばらく動かなかった。
静かだった。
あまりにも静かで――
かつてここにあった“ぬくもり”だけが、胸の奥でそっと疼いた。
ユリウスがいた頃の気配が、まだ薄く空気に溶け残っている。
(……ユリウス)
ふと、書庫の中央に置かれた長机の端に、古びた装丁の本が目に入る。
――初めて街へ行った日のことが蘇った。
フィンが手を引き、シグが周囲を見張り、
ヴィクトルが荷物を受け取ってくれて、
ユリウスは本の価値を丁寧に教えてくれた。
その日、まだ何も知らなかった自分が、タイトルとただ“挿絵が綺麗”というだけで選んだ古語の本。
ルナフィエラは静かにそれを手に取る。
ページをそっと開いた。
ぱらり、と紙が空気を震わせる音。
目に飛び込んでくる古語の文章は、もう辞書なしでも読めてしまう。
昔は、一文字ずつユリウスが教えてくれたのに。
「これは古い精霊語の派生だよ」
「ここの単語は文脈で意味が変わるんだ」
難しい説明に、ルナフィエラはよく首をかしげた。
そのたび、ユリウスは柔らかく微笑んで教えてくれた。
(あの時は、すごく難しかったのに……)
今は、たった一人で理解できてしまう。
成長した証なのに、誇らしくなんてなかった。
ユリウスと一緒にいた時間が、もう手の中には“ない”のだと気づかされるだけだったから。
静かな息をひとつ落とす。
気づけば、視線は文字ではなく遠い記憶へと向かっていた。
書庫の空気が、ふと変わった気がする。
ユリウスと過ごした時間の気配が、淡く、そっと揺れる。
本の上で止まった指先に、かすかな熱が宿った。
ページの向こう側――
その先にある記憶が、静かに、けれど確かな力で引き寄せていく。
そして――
ルナフィエラの意識は、ゆっくりと沈みはじめた。
ユリウスとの、最期の記憶へ。
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