純血の姫と誓約の騎士たち〜紅き契約と滅びの呪い〜

来栖れいな

文字の大きさ
161 / 177
第九章:永遠の途 ― 祈りは光に還る ―

第159話・指先の微かな返事

しおりを挟む
気がつけば――ユリウスがベッドから起き上がれなくなって、もう数ヶ月が経っていた。

季節は、ゆっくりと巡っていく。
けれど、彼の時間だけが静かに止まりはじめていた。

最初は、座ることが出来なくなり、やがて、手を伸ばすことも難しくなった。

そして今では、
――目を開ける日すら、滅多にない。

それでもルナフィエラは、その全てを傍で見届けていた。

悲鳴を上げることも、涙に崩れることもない。
もう4度目の別れ。
胸の中はとうに擦り切れて、叫ぶ力すら残っていない。

ただ、静かに受け入れていくだけだった。
来るとわかっていた“最後”を。

ユリウスの呼吸は浅く、弱く、途切れそうなほど細い。
それでも――その微かな息づかいさえ、彼女には愛おしかった。

彼の枕元で、ルナフィエラはいつもと変わらない手つきで身体を拭き、薄く乾いた唇に水を含ませ、時折、指先で頬に触れた。

「……あたたかいね、ユリウス」

その囁きは震えていない。
ただ事実を確かめるように、静かに落ちた。

ユリウスはもう返事をしない。
けれど、ルナフィエラは知っていた。

――聞こえている。
――まだ、ここにいる。

その確信だけが、彼女を支えていた。

誰かと過ごす“最後の時”を、焼きつけるように。
誰よりも長く生き残ってしまった自分の胸に刻み込むように。

薄いカーテン越しに夏の光が差し込む。
その明るささえ、今は痛いほど儚かった。

彼女は、ユリウスの手をそっと包む。

「あの頃みたいに……本を読んであげるね」

本棚には、二人で読んだ本が山ほどある。
けれど今日は、なぜか選ぶ必要がなかった。

ユリウスが最初に読んでくれたあの本。
古語で綴られた、あの物語ーー。


ページを読み進め、やがてルナフィエラは本をゆっくり閉じた。

「……ここまで。今日は、ここでおしまいだよ」

返事はない。
ルナフィエラはそっと、ユリウスの手を握る。
細くなった指。
触れれば折れてしまいそうな手。

(……今日も、いつもと同じ。何も変わらない日ね)

その時だった。
――かすかに、指が動いた。

ほんの一瞬。
触れていなければ気づけなかったかもしれないほどの、小さな小さな反応。

「……ユリウス?」

ルナフィエラはわずかに身を乗り出した。

今にも消え入りそうな呼吸の音。
閉じたままのまぶた。
動かない胸。

けれど――指先だけが、確かに返してきた。

「聞こえてるの……?」

風の音かと思うほどの、か細い声が返った。

「……聞こえて…いるよ、ルナ」

それは、どれほどぶりの言葉だっただろう。
けれど、その声は確かに、彼女の名前を呼んでいた。

ルナフィエラは思わず手を握りしめる。
ユリウスの指が、弱々しく握り返した。


しばし、二人の間に夏の静寂が流れた。

そして――
ユリウスは、唇をゆっくり開く。

「ルナ……すまなかった」

「……なにが?」

「きみを……独りに、してしまうことを……
本当は、もっと早く……外の世界と……
他の人々と……触れ合うように、導くべきだった」

細い息を繋ぎながら、彼は続ける。

「けれど……ぼくは……きみが……他の誰かの方を向くのが……耐えられなかったんだ」

ルナフィエラの瞳がわずかに揺れた。
ユリウスは苦しむように、けれどどこか晴れた声で続ける。

「ぼくは……きみといる時間が……欲しかった。
ぼくのわがままだ。
……きみを閉じ込めてしまった」

胸の奥が締めつけられた。
ルナフィエラはそっと首を横に振る。

「ユリウス、それは違うよ」

「……ルナ」

「わたし、誰とも関わる気なんてなかった。
外の世界になんて、行けるわけ……ないよ」

ふっと、微笑む。

「わたしには……あなたたちしかいなかったの。
フィンも、シグも、ヴィクトルも……ユリウスも。
それでよかったんだよ」

ユリウスの瞳が揺れた。
長い罪悪感が溶けるように、静かにほどけていく。

「……そう、か……きみが……そう……言ってくれるなら……」

その表情は、苦悩を手放した子どものように穏やかだった。

少しの沈黙。
そして、ユリウスはかすかに唇を動かした。

「ルナ……研究…室の……机に……箱が……ある……
それは……きみが……これから……生きるために……使って……」

「ユリウス? 箱……って、どれの……」

言葉の途中で、握っていた指から力が抜けた。

呼吸が――音を立てずに途切れる。

「ユリウス……?」

返事はなかった。
胸の上下も、もうどこにもなかった。

ルナフィエラは静かに口を結び、そっとその身体を抱き寄せた。
夏の光が、揺れる影だけを残していた。

「……うん。わかったよ、ユリウス。
ちゃんと見つけるから……ありがとう」

涙は一筋だけ。
頬を伝い、ユリウスの胸に落ちた。

それは、彼の最期を見送るための、静かで優しい涙だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【長編版】孤独な少女が異世界転生した結果

下菊みこと
恋愛
身体は大人、頭脳は子供になっちゃった元悪役令嬢のお話の長編版です。 一話は短編そのまんまです。二話目から新しいお話が始まります。 純粋無垢な主人公テレーズが、年上の旦那様ボーモンと無自覚にイチャイチャしたり様々な問題を解決して活躍したりするお話です。 小説家になろう様でも投稿しています。

異世界から来た娘が、たまらなく可愛いのだが(同感)〜こっちにきてから何故かイケメンに囲まれています〜

恋愛
普通の女子高生、朱璃はいつのまにか異世界に迷い込んでいた。 右も左もわからない状態で偶然出会った青年にしがみついた結果、なんとかお世話になることになる。一宿一飯の恩義を返そうと懸命に生きているうちに、国の一大事に巻き込まれたり巻き込んだり。気付くと個性豊かなイケメンたちに大切に大切にされていた。 そんな乙女ゲームのようなお話。

この世界に転生したらいろんな人に溺愛されちゃいました!

キムチ鍋
恋愛
前世は不慮の事故で死んだ(主人公)公爵令嬢ニコ・オリヴィアは最近前世の記憶を思い出す。 だが彼女は人生を楽しむことができなっかたので今世は幸せな人生を送ることを決意する。 「前世は不慮の事故で死んだのだから今世は楽しんで幸せな人生を送るぞ!」 そこからいろいろな人に愛されていく。 作者のキムチ鍋です! 不定期で投稿していきます‼️ 19時投稿です‼️

眺めるだけならよいでしょうか?〜美醜逆転世界に飛ばされた私〜

波間柏
恋愛
美醜逆転の世界に飛ばされた。普通ならウハウハである。だけど。 ✻読んで下さり、ありがとうございました。✻

花嫁召喚 〜異世界で始まる一妻多夫の婚活記〜

文月・F・アキオ
恋愛
婚活に行き詰まっていた桜井美琴(23)は、ある日突然異世界へ召喚される。そこは女性が複数の夫を迎える“一妻多夫制”の国。 花嫁として召喚された美琴は、生きるために結婚しなければならなかった。 堅実な兵士、まとめ上手な書記官、温和な医師、おしゃべりな商人、寡黙な狩人、心優しい吟遊詩人、几帳面な官僚――多彩な男性たちとの出会いが、美琴の未来を大きく動かしていく。 帰れない現実と新たな絆の狭間で、彼女が選ぶ道とは? 異世界婚活ファンタジー、開幕。

公爵様のバッドエンドを回避したいだけだったのに、なぜか溺愛されています

六花心碧
恋愛
お気に入り小説の世界で名前すら出てこないモブキャラに転生してしまった! 『推しのバッドエンドを阻止したい』 そう思っただけなのに、悪女からは脅されるし、小説の展開はどんどん変わっていっちゃうし……。 推しキャラである公爵様の反逆を防いで、見事バッドエンドを回避できるのか……?! ゆるくて、甘くて、ふわっとした溺愛ストーリーです➴⡱ ◇2025.3 日間・週間1位いただきました!HOTランキングは最高3位いただきました!  皆様のおかげです、本当にありがとうございました(ˊᗜˋ*) (外部URLで登録していたものを改めて登録しました! ◇他サイト様でも公開中です)

能天気な私は今日も愛される

具なっしー
恋愛
日本でJKライフを謳歌していた凪紗は遅刻しそうになって全力疾走してたらトラックとバコーン衝突して死んじゃったー。そんで、神様とお話しして、目が覚めたら男女比50:1の世界に転生してたー!この世界では女性は宝物のように扱われ猿のようにやりたい放題の女性ばっかり!?そんな中、凪紗ことポピーは日本の常識があるから、天使だ!天使だ!と溺愛されている。この世界と日本のギャップに苦しみながらも、楽観的で能天気な性格で周りに心配される女の子のおはなし。 はじめて小説を書くので誤字とか色々拙いところが多いと思いますが優しく見てくれたら嬉しいです。自分で読みたいのをかいてみます。残酷な描写とかシリアスが苦手なのでかかないです。定番な展開が続きます。飽き性なので褒めてくれたら続くと思いますよろしくお願いします。 ※表紙はAI画像です

異世界に落ちて、溺愛されました。

恋愛
満月の月明かりの中、自宅への帰り道に、穴に落ちた私。 落ちた先は異世界。そこで、私を番と話す人に溺愛されました。

処理中です...