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第33話・預けたのは、命だけではなかった
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琴葉がリビングを出たあと、しばらく静寂が落ちた。
奏一は静かに湯飲みに口をつけ、白崎夫妻もそれに倣うようにして茶を含む。
やがて、先に口を開いたのは母だった。
「……先生、本当にありがとうございます。今日のあの子……なんだか、すごく穏やかな顔をしていて、驚いたんです。
ここ数年は、ずっと張り詰めたような空気をまとっていて……まるで、呼吸するのも忘れてしまっているような顔でした。なのに、今日は……」
言葉がそこで途切れる。
隣に座る父が、そっと目を伏せた。
「最初は、先生に対しても……本当に目も当てられないような態度でしたから」
自嘲気味に笑う母に、奏一は静かに頷く。
「琴葉さんは、きっと長い間、苦しかったのだと思います。
病気そのものより、“生き方”の方に。
……けれど今は、少しずつご自分の足で歩こうとしていらっしゃる」
「……そうですね」
奏一の言葉に、母はうっすらと微笑むが、その目はどこか影を落としていた。
「でも……本当に、遠野先生のおかげです。
正直に言えば、私たちは――あの子の命に、他の子とは違う制限があることを、ずっと突きつけられてきました。
それが“今すぐ終わってしまう”という意味ではないと、頭ではわかっていても……」
言葉を探すように、母の声が少し揺れる。
「中学に入った頃から、あの子は制限の多い生活に強く反発するようになって……
思春期も重なり、無理を重ねて、体調を崩すことも増えていきました。
倒れるたびに、“もし間に合わなかったら”と考えてしまって……
外に出すこと、やりたいことを許すことが、どうしても怖くなってしまったんです」
父は黙って視線を落とし、そっと妻の隣に気配を寄せた。
「……高2のとき、心肺停止を起こしたでしょう。
あのとき、私たちは――守るために、さらに強く制限するしかありませんでした」
「私も……同じでした」
父が静かに言葉を継ぐ。
「あの頃の琴葉は私とほとんど口をきいてくれなくて……
どう接していいのか、正直わからなかった。
それでも、ただ一日でも長く、少しでも幸せに生きてほしいと、それだけを願っていました」
母は小さく頷く。
「反抗期そのものが悪いわけじゃない。
でも、琴葉の場合は……その“反発”が、命に直結してしまう。
だから、早く落ち着いてほしいと祈るしかなかった。
それが、あの子を責める理由になってしまったことも……今なら、わかります」
「いえ。ご両親としてのご心配は、痛いほどわかります」
奏一は静かに頷く。
だが、その目は真っすぐで、揺るがなかった。
「私は……琴葉さんが生きたいと願う限り、その命を最後まで支えるつもりです。その覚悟を持って、お預かりしています」
その言葉に、母は思わず息をのんだ。
そして、そっと口を開く。
「……先生。もし、もしもあの子が――」
その先は、言葉にならなかった。
だが奏一は、その続きを察したように、穏やかに答える。
「もしも“あの子が、あなたのことを好きになったら”というお話でしたら……」
母は目を見開く。
奏一は一呼吸おいて、続けた。
「そのときは……一人の女性として、誠意をもって向き合います。私の中で、琴葉さんは既に“患者”だけではありませんから」
その言葉に、正継も目を伏せる。
大人3人の間に、短い沈黙が落ちた。
――そして、そのとき。
リビングのドアが静かに開いた。
「……準備、終わった」
そう告げて部屋に入ってきた琴葉の腕には、大きめのトートバッグが抱えられていた。
肩にかけるには少し重そうで、歩くたびに中の荷物がかすかに揺れている。
「お疲れさまでした。荷物、持ちますよ」
すぐに立ち上がった奏一が、迷いなく手を伸ばす。
「自分で――」
反射的に口にしかけた琴葉だったが、奏一の手が自然すぎて、結局その言葉は喉奥で飲み込んだ。
母はその様子を、どこか感慨深そうに目で追っている。
父もまた、視線の奥に微かな安心の色をにじませていた。
「本日は、本当にありがとうございました」
母が改めて頭を下げ、父も静かに頷く。
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました。
今後も、琴葉さんが少しでも落ち着いて過ごせるなら、私も安心できます」
静かに、けれど確かに込められたその言葉に、琴葉の心がじんわりと温かくなる。
(……ほんと、変わったな、私)
少し前の自分なら、こんなふうに家族と顔を合わせるのすら重荷だったはずなのに。
今は――ほんの少し、ほっとしている自分がいる。
「では、そろそろ……」
奏一がそう切り出すと、両親が同時に頷いた。
「気をつけてね、琴葉」
「何かあったら、いつでも連絡してくれて構わないからな」
母の言葉は以前より少し柔らかく、父の声音も穏やかだった。
「……うん、ありがとう」
ぎこちなく返したその言葉に、父母が微笑む。
奏一が荷物を持って先に玄関へ向かい、琴葉がその背を追うように歩き出す。
その背中を、両親は黙って見送っていた。
ドアが閉まる間際、母の声が小さく響いた。
「……琴葉、本当に、いい顔をしていたわ」
「……ああ」
父が静かに答える。
2人の目には、確かな安堵の光が浮かんでいた。
奏一は静かに湯飲みに口をつけ、白崎夫妻もそれに倣うようにして茶を含む。
やがて、先に口を開いたのは母だった。
「……先生、本当にありがとうございます。今日のあの子……なんだか、すごく穏やかな顔をしていて、驚いたんです。
ここ数年は、ずっと張り詰めたような空気をまとっていて……まるで、呼吸するのも忘れてしまっているような顔でした。なのに、今日は……」
言葉がそこで途切れる。
隣に座る父が、そっと目を伏せた。
「最初は、先生に対しても……本当に目も当てられないような態度でしたから」
自嘲気味に笑う母に、奏一は静かに頷く。
「琴葉さんは、きっと長い間、苦しかったのだと思います。
病気そのものより、“生き方”の方に。
……けれど今は、少しずつご自分の足で歩こうとしていらっしゃる」
「……そうですね」
奏一の言葉に、母はうっすらと微笑むが、その目はどこか影を落としていた。
「でも……本当に、遠野先生のおかげです。
正直に言えば、私たちは――あの子の命に、他の子とは違う制限があることを、ずっと突きつけられてきました。
それが“今すぐ終わってしまう”という意味ではないと、頭ではわかっていても……」
言葉を探すように、母の声が少し揺れる。
「中学に入った頃から、あの子は制限の多い生活に強く反発するようになって……
思春期も重なり、無理を重ねて、体調を崩すことも増えていきました。
倒れるたびに、“もし間に合わなかったら”と考えてしまって……
外に出すこと、やりたいことを許すことが、どうしても怖くなってしまったんです」
父は黙って視線を落とし、そっと妻の隣に気配を寄せた。
「……高2のとき、心肺停止を起こしたでしょう。
あのとき、私たちは――守るために、さらに強く制限するしかありませんでした」
「私も……同じでした」
父が静かに言葉を継ぐ。
「あの頃の琴葉は私とほとんど口をきいてくれなくて……
どう接していいのか、正直わからなかった。
それでも、ただ一日でも長く、少しでも幸せに生きてほしいと、それだけを願っていました」
母は小さく頷く。
「反抗期そのものが悪いわけじゃない。
でも、琴葉の場合は……その“反発”が、命に直結してしまう。
だから、早く落ち着いてほしいと祈るしかなかった。
それが、あの子を責める理由になってしまったことも……今なら、わかります」
「いえ。ご両親としてのご心配は、痛いほどわかります」
奏一は静かに頷く。
だが、その目は真っすぐで、揺るがなかった。
「私は……琴葉さんが生きたいと願う限り、その命を最後まで支えるつもりです。その覚悟を持って、お預かりしています」
その言葉に、母は思わず息をのんだ。
そして、そっと口を開く。
「……先生。もし、もしもあの子が――」
その先は、言葉にならなかった。
だが奏一は、その続きを察したように、穏やかに答える。
「もしも“あの子が、あなたのことを好きになったら”というお話でしたら……」
母は目を見開く。
奏一は一呼吸おいて、続けた。
「そのときは……一人の女性として、誠意をもって向き合います。私の中で、琴葉さんは既に“患者”だけではありませんから」
その言葉に、正継も目を伏せる。
大人3人の間に、短い沈黙が落ちた。
――そして、そのとき。
リビングのドアが静かに開いた。
「……準備、終わった」
そう告げて部屋に入ってきた琴葉の腕には、大きめのトートバッグが抱えられていた。
肩にかけるには少し重そうで、歩くたびに中の荷物がかすかに揺れている。
「お疲れさまでした。荷物、持ちますよ」
すぐに立ち上がった奏一が、迷いなく手を伸ばす。
「自分で――」
反射的に口にしかけた琴葉だったが、奏一の手が自然すぎて、結局その言葉は喉奥で飲み込んだ。
母はその様子を、どこか感慨深そうに目で追っている。
父もまた、視線の奥に微かな安心の色をにじませていた。
「本日は、本当にありがとうございました」
母が改めて頭を下げ、父も静かに頷く。
「いえ。こちらこそ、ありがとうございました。
今後も、琴葉さんが少しでも落ち着いて過ごせるなら、私も安心できます」
静かに、けれど確かに込められたその言葉に、琴葉の心がじんわりと温かくなる。
(……ほんと、変わったな、私)
少し前の自分なら、こんなふうに家族と顔を合わせるのすら重荷だったはずなのに。
今は――ほんの少し、ほっとしている自分がいる。
「では、そろそろ……」
奏一がそう切り出すと、両親が同時に頷いた。
「気をつけてね、琴葉」
「何かあったら、いつでも連絡してくれて構わないからな」
母の言葉は以前より少し柔らかく、父の声音も穏やかだった。
「……うん、ありがとう」
ぎこちなく返したその言葉に、父母が微笑む。
奏一が荷物を持って先に玄関へ向かい、琴葉がその背を追うように歩き出す。
その背中を、両親は黙って見送っていた。
ドアが閉まる間際、母の声が小さく響いた。
「……琴葉、本当に、いい顔をしていたわ」
「……ああ」
父が静かに答える。
2人の目には、確かな安堵の光が浮かんでいた。
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