病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

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第34話・言葉より先に、安心があった

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帰り道、車内は穏やかな静けさに包まれていた。

窓の外を流れていく景色をぼんやりと眺めながら、琴葉は、胸の奥に張りついていた緊張が、少しずつほどけていくのを感じていた。

(……何か言われると思ってた)

家に戻ってきなさい、とか。
勝手なことをしないで、とか。

そんな言葉を向けられる覚悟をして、ずっと息を潜めていたのに。

(……違った)

母も父も、責めなかった。
否定もしなかった。

拍子抜けするほど、穏やかな時間だった。

きっと――
それは、彼が一緒にいてくれたから。

奏一のそばにいると、不思議と安心する。
守られている、というよりも、大丈夫だと思える場所に立たせてもらっているような感覚。

「……っ」

喉の奥がつまる。

(何でだろ、なんか……泣きそう)

ただ家に行って、戻ってきただけなのに。
それだけなのに、どうしてこんなにも胸があたたかいんだろう。

言うつもりはなかった。
けれど、言葉にした瞬間、抑えていたものが一気に溢れ出る。

「……ありがとう、先生」

声は、思っていたよりも小さくて掠れていた。
それでも、隣に座る奏一にはきちんと届いたらしい。

「……いえ」

いつもと変わらない、穏やかな声音。
その静けさが、かえって胸に染みる。

「本当に……ありがとう」

止まらなかった。

「行きたくなかったわけじゃないの。でも、怖くて……」

「もし、何か言われたらって思ったら……、ずっと心が重くて、苦しくて……」

膝の上で、手のひらをぎゅっと握りしめる。
涙ではなく、言葉だけが、ぽろぽろとこぼれていく。

「でも……先生が一緒にいてくれて、だから、何も言われなかったのかもしれないけど……
それでも、嬉しかった。安心したの」

目の奥が熱い。
泣くつもりなんてなかったのに。

「私、ちゃんと息ができた気がする。……久しぶりに」

奏一は、黙ったままハンドルを握っていた。

けれど、その沈黙は冷たくない。
どんな言葉よりも、そばにいることが伝わってくる。

「――ありがとうございました。遠野先生」

ようやく整えた声音で、丁寧にそう告げる。

視線を前に向けたまま、奏一が小さく息を吐いた。

「……どういたしまして。琴葉さん」

ゆっくりとカーブを曲がる車内で、琴葉の胸の奥に、あたたかな光が灯っていた。


マンションのエントランスを抜け、エレベーターで自宅へと戻る。
鍵を開ける音、玄関に灯る照明、ひんやりとした室内の空気。

そのすべてが、琴葉に「戻ってきた」と感じさせた。

(ああ……やっぱり、ここが“今の私の家”なんだ)

部屋に入ると、奏一はいつものように無駄のない動きで荷物を受け取り、キッチンへと向かった。

「シャワーを浴びてきてください。今日は蒸し暑かったので」

「……うん」

短く返事をして、浴室へと向かう。
ただ汗を流すだけなのに、心まで少し軽くなった気がした。

リビングへ戻ると、テーブルには涼しげなガラスのカップと、ほんのりと湯気の立つミントティーが置かれている。

冷たい飲み物ではなく、体を落ち着かせるような温かい一杯――そういうところが奏一らしい。

「……ありがと」

小さく呟いて、カップに手を伸ばす。

奏一はソファに座り、ノートパソコンを開いていた。
きっと何か仕事の確認でもしているのだろう。いつも通り、変わらない姿。

だけど今日は、その背中が、少しだけ近く見えた。

「先生」

「はい」

「……ううん、なんでもない」

(……もうちょっと、話したいのに)

車の中では、あんなに感情が溢れ出したのに。
今はまた、ほんの少し距離が戻った気がして、胸がきゅっとなる。

けれどその時――

「琴葉さん」

名を呼ばれて顔を上げると、奏一がこちらを見ていた。
既にノートパソコンは閉じられている。

「……無理をなさらないでくださいね。今日は、精神的に少し疲れたはずですから」

「……うん。わかってる」

「何かあれば、いつでも言ってください」

「……わかった」

今度は、少しだけ素直に。
少しだけ、あたたかい声で答えられた気がした。

そのまま、ふたりで静かな夜を過ごした。

特別なことはなかった。
言葉も多くなかった。

けれど、優しい空気に包まれていた。
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