病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜

来栖れいな

文字の大きさ
32 / 69

第32話・帰る場所が変わっていく

しおりを挟む
リビングに足を踏み入れると、ソファに腰掛けていた父が顔を上げた。
相変わらず穏やかな空気をまとっていて、その落ち着きはどこか奏一にも通じるものがある。

「遠野先生、ようこそ、お越しくださいました。本日はお忙しいなか、ありがとうございます」

立ち上がりながら差し出された手を、奏一は丁寧に取る。

「こちらこそ、こうしてご挨拶の機会をいただき恐縮です。琴葉さんも、体調に気をつけながらしっかり過ごされています」

「……そうですか。娘のこと、どうかよろしくお願いします」

言葉は簡潔ながら、そこに込められた信頼と託す想いは十分すぎるほどに伝わってくる。
父は、娘の命を守ってくれる者として奏一を信じている――そんな空気があった。

「さ、どうそ、座ってください。冷たいお茶を出しますね」

母がキッチンへ向かうと、父はふたりに視線を向けた。

「琴葉、大学はどうだ。無理はしていないか?」

「……うん、大丈夫。ちゃんと行ってるし、先生が送り迎えしてくれてる」

「そうか。それは安心だな」

ぎこちなくなるかと思った会話は、父の自然な口ぶりのおかげでほぐれていく。
琴葉の肩からも、少しだけ緊張が解けた。

やがて母が食卓に昼食を並べ、4人でテーブルを囲む。
冷やし茶碗蒸しに、彩り豊かなサラダ、ちらし寿司に、冷製スープ。
――どれも涼しげで、優しい色合いだった。

「いつも簡単なものしか作らないけど、今日は頑張ったのよ」

母が少し照れたように笑うと、父が頷く。

「母の味だな。久しぶりだろう、琴葉」

「……うん、美味しそう」

まだ少しぎこちないけれど、自然と笑みがこぼれる。

「遠野先生のお口に合うかわかりませんが……よろしければ、どうぞ」

「ありがとうございます。どれもとても美味しそうですね」

奏一は、箸を丁寧に取り、静かに口をつける。
その所作ひとつひとつが丁寧で、琴葉は隣に座っているその姿をぼんやりと見ていた。

少しして、母が琴葉に尋ねる。

「どう?味、変じゃない?」

琴葉はわずかに眉を上げてから、箸を動かした。

「ううん。おいしいよ。このスープも好きな味」

「そう、よかった」

和やかなやり取りがあって、また静かに食事が進む。
ふと、父が奏一に目を向ける。

「先生……娘はご迷惑をおかけしていませんか?」

この言葉に、琴葉の手が一瞬止まりかけた。
しかし奏一は、いつもと変わらぬ穏やかな声で返す。

「ご心配には及びません。琴葉さんは、無理のない範囲でしっかりと日々を過ごされています。
必要な休息も取れていますし、食事もきちんと摂れています。体調は安定していますよ。
私も、できるかぎりのサポートをさせていただいています」 

父も母も、どこかほっとしたように表情を和らげた。

「……この子なりに、前を向こうとしてるんですね」

「はい。それが何よりも大切なことだと思っています」

湯気は立たないけれど、温かい会話が続く。
いつもの自宅とは違う空気のなかで、琴葉は黙々と箸を進めた。

いつもなら、母の言葉に何かしら身構えてしまうのに。
今日は不思議と、それがなかった。

奏一がそばにいてくれる――
その事実を自覚した瞬間、胸の奥がじんわりと熱を帯びた。


「ごちそうさまでした。どれも本当に美味しかったです」

奏一がそう言って箸を置くと、母はどこか安堵したように微笑む。

「先生のお口に合ってよかったです」

「……私も、もう食べ終わった」

琴葉も空になった皿を見下ろし、小さく息を吐く。
気を張っていたのだと、今さらながら気づいた。

「先生、荷物、取りに行ってきてもいい?」

「ええ、もちろん。持って帰りたいものがあれば、遠慮なくどうぞ」

何気ない言葉なのに、その声が少しだけ優しく響いて、琴葉の胸に残った。

「……うん、じゃあちょっと行ってくる」

立ち上がり、廊下を抜けて、久しぶりの自分の部屋へ向かう。

ドアを開けると、そこは以前のままだった。
整えられたベッド、壁にかけられたカレンダー。
使っていた勉強机と、本棚。

「……変わってないんだ」

漏れた声は、とても小さかった。

昔は、ここが自分の世界のすべてだった。
外出することも叶わず、ベッドと机の往復だけの日々。
それでも、大事にしていた空間だった――はずなのに。

今は、少しだけ遠く感じる。

琴葉は、ゆっくりとクローゼットを開ける。
お気に入りだったけれど、持ち出す機会のなかったワンピースや、読みかけの小説。
少し迷ってから、それらをトートバッグに入れた。

「……ここに帰る、って感じがしない」

思わず、ぽつりと呟く。
帰ってきたのに、“帰る”と感じない。
今、自分が帰るべき場所は――

荷物をまとめ、深く息を吐いた。
なんとなく、さっきより心が軽くなっている気がした。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写と他もすべて架空です。

ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~

cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。 同棲はかれこれもう7年目。 お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。 合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。 焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。 何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。 美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。 私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな? そしてわたしの30歳の誕生日。 「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」 「なに言ってるの?」 優しかったはずの隼人が豹変。 「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」 彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。 「絶対に逃がさないよ?」

大丈夫のその先は…

水姫
恋愛
実来はシングルマザーの母が再婚すると聞いた。母が嬉しそうにしているのを見るとこれまで苦労かけた分幸せになって欲しいと思う。 新しくできた父はよりにもよって医者だった。新しくできた兄たちも同様で…。 バレないように、バレないように。 「大丈夫だよ」 すいません。ゆっくりお待ち下さい。m(_ _)m

婚活に疲れたアラサーOLの私、癒やし的存在の弟分(高校生)に「もう待てない」と外堀を埋められています ~10年分の執着は、甘すぎて重すぎる~

ダルい
恋愛
「29歳? 子供産むならもっと若い子がよかったな」  中堅企業で働く早川結衣(29)は、婚活市場における年齢の壁と、デリカシーのない男たちにすり減らされる日々を送っていた。  そんな結衣の唯一の癒やしは、マンションの隣に住む幼馴染の高校生・瀬戸湊(16)。  両親が共働きの彼に代わって、幼い頃はお世話をしてあげていた……はずが、いつの間にか立場は逆転。 手料理を振る舞われ、愚痴を聞かれ、マッサージまでされる始末。「湊がお嫁さんならいいのに」なんて冗談を言っていたけれど。 「今の結衣姉が一番綺麗だよ。……早く、誰も手出しできない『おばさん』になってくれればいいのに」  可愛い弟分だと思っていた彼が、時折見せる『オス』の顔。 16歳の高校生と、もうすぐ30歳のアラサー。  13歳差の常識と理性に抗いながら、生意気な年下男子に外堀を埋められていく、甘くて重い現状維持(ラブストーリー)。 「俺が大人になるまで、誰とも結婚しないで」 癒やされたいすべての女性に贈る、最強の年下幼馴染による溺愛包囲網、開始。

毒味役の私がうっかり皇帝陛下の『呪い』を解いてしまった結果、異常な執着(物理)で迫られています

白桃
恋愛
「触れるな」――それが冷酷と噂される皇帝レオルの絶対の掟。 呪いにより誰にも触れられない孤独な彼に仕える毒味役のアリアは、ある日うっかりその呪いを解いてしまう。 初めて人の温もりを知った皇帝は、アリアに異常な執着を見せ始める。 「私のそばから離れるな」――物理的な距離感ゼロの溺愛(?)に戸惑うアリア。しかし、孤独な皇帝の心に触れるうち、二人の関係は思わぬ方向へ…? 呪いが繋いだ、凸凹主従(?)ラブファンタジー!

25番目の花嫁 ~妹の身代わりで嫁いだら、冷徹公爵が私を溺愛し始めました~

朝日みらい
恋愛
王都の春。 貴族令嬢リリアーナ・エインズワースは、第一王子ライオネル殿下との婚約を一方的に破棄された。 涙を見せないことが、彼女に残された唯一の誇りだった。だが運命は、彼女を思いがけない方向へ導く。 「氷の公爵」と呼ばれる孤高の男、ヴァレンティーヌ公爵。 二十四人の花嫁候補を断り続けた彼の元へ、「二十五番目の花嫁」として赴いたリリアーナ。 家の体裁のための結婚――そう割り切っていたはずなのに、氷のような瞳の奥に垣間見えた孤独が、彼女の心に小さな炎を灯してゆく。

初恋に見切りをつけたら「氷の騎士」が手ぐすね引いて待っていた~それは非常に重い愛でした~

ひとみん
恋愛
メイリフローラは初恋の相手ユアンが大好きだ。振り向いてほしくて会う度求婚するも、困った様にほほ笑まれ受け入れてもらえない。 それが十年続いた。 だから成人した事を機に勝負に出たが惨敗。そして彼女は初恋を捨てた。今までたった 一人しか見ていなかった視野を広げようと。 そう思っていたのに、巷で「氷の騎士」と言われているレイモンドと出会う。 好きな人を追いかけるだけだった令嬢が、両手いっぱいに重い愛を抱えた令息にあっという間に捕まってしまう、そんなお話です。 ツッコミどころ満載の5話完結です。

押しつけられた身代わり婚のはずが、最上級の溺愛生活が待っていました

cheeery
恋愛
名家・御堂家の次女・澪は、一卵性双生の双子の姉・零と常に比較され、冷遇されて育った。社交界で華やかに振る舞う姉とは対照的に、澪は人前に出されることもなく、ひっそりと生きてきた。 そんなある日、姉の零のもとに日本有数の財閥・凰条一真との縁談が舞い込む。しかし凰条一真の悪いウワサを聞きつけた零は、「ブサイクとの結婚なんて嫌」と当日に逃亡。 双子の妹、澪に縁談を押し付ける。 両親はこんな機会を逃すわけにはいかないと、顔が同じ澪に姉の代わりになるよう言って送り出す。 「はじめまして」 そうして出会った凰条一真は、冷徹で金に汚いという噂とは異なり、端正な顔立ちで品位のある落ち着いた物腰の男性だった。 なんてカッコイイ人なの……。 戸惑いながらも、澪は姉の零として振る舞うが……澪は一真を好きになってしまって──。 「澪、キミを探していたんだ」 「キミ以外はいらない」

処理中です...