【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第6話・わからない

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(――顔色が悪い)

最初に気づいたのは、退職の意向を伝えてきた日の翌朝だった。
普段と変わらない様子で出社していたが、目の下には薄く影があった。
そのときは、気のせいだと思った。

けれど、日に日にその影は濃くなり、
表情の柔らかさも、声の張りも、少しずつ削れていった。

(……本当に、辞める気か…)

あの日、彼女が真剣な眼差しで「退職を考えている」と言ったとき。
頭では冷静を装っていたつもりだった。
でも、心は凍りつくように、ざわついていた。

理由は、わからない。
ただ――“失う”という言葉が浮かんだ瞬間、息が詰まった。


彼女は優秀だ。
真面目で、責任感があって、与えられた仕事を手を抜かずにこなす。
そして、人当たりも良い。
だからこそ、少しずつ重たい業務が集まりやすい。

(……だから、調整した)

苦手なクライアントの案件を他に回し、
イレギュラー対応を任せられそうになったときは、先回りして止めた。

“特別扱い”だとわかっている。
でも、気づいたときにはそうしていた。


今日もまた、別部署から余計な仕事が彼女に振られそうになった。
黙って見ていれば済んだ。
でも――口が、勝手に動いた。

「その案件、既にこちらで振り分け済みです」

言い切ったあと、相手が下がるのを確認し、何も言わずに去った。

振り返らなかったけれど、彼女が何かを言ったのが聞こえた。

(……ありがとう、か)

追いかけるようなことはしなかった。
でも、胸の奥で何かが、確かに動いた。

(――どうして、ここまで気にしているんだ?)

自問するたび、答えは出ない。
ただ、目で追ってしまう。
気づけば、他の社員と話している姿に目が留まり、
男と談笑していると、心がざらつく。

こんな感情、今までなかった。

彼女は、よく笑う。
でも最近は、その笑顔がぎこちなく見えることが増えた。

気づいてしまった以上、もう放っておけなかった。

(理由なんて、どうでもいい)
(辞めさせたくない。それだけだ)

もし本当に辞めてしまったら。
顔を合わせることもなくなり、二度と会えないかもしれない。

それが、たまらなく怖かった。

次の行動は、すでに決まっている。
彼女の限界が来る前に――言葉にできない想いが、形になって動き出す。


——————

仕事が終わった帰り道。
執務フロアを出て、エレベーターに乗り込んだとき。
突然、視界がにじんだ。

(……あれ?)

涙が出ていることに、自分で気づかなかった。
何かが決壊したように、頬を伝っていく。

声は出さずに、ただ静かに。

辞めたかった。限界だった。
けれど、あの人は優しかった。
優しすぎて、怖くなった。


思えば、最近の彼は、言葉こそないけれど、
まるで自分のすべてを見透かしているようだった。

無理をしていれば、先に動く。
押し付けられそうになれば、守る。

それが余計に、澪の中で“なかったことにされた感情”を掘り返していった。

(辞めたいって言ったのに……なぜ、こんなふうにされるの?)

心は揺れていた。
でも、言葉にはできなかった。

仕事は減っていない。
それでも、精神的な負担は確実に軽くなっている。

(優しいのが、余計につらい)
(あの人が無表情でいるたび、私だけが勝手に苦しくなっていく)

その日の夜、自宅のソファでぼんやり座っていた。

帰宅してからも、気持ちは落ち着かなかった。
いつもなら仕事のメモを整理して、明日の準備をするのに。
何も手につかない。

スマホの通知が鳴る。
見ると、同僚からの何気ないLINE。

「明日、澪が担当の例のミーティング早まったって。部長、気づいてたみたい。対応済だってさ」

そこに悪気はない。
ただの連絡。
でも、なぜか――それが引き金になった。

(……もう、わからない)

目の前が、じわっとにじんだ。
音も、色も、空気も、全部ぼやけていく。

どうしてあの人は、何も言ってくれないんだろう。

“辞めるな”とも、“頑張れ”とも、“期待している”とも言われてない。

なのに。
行動だけが、優しすぎた。

期待なんて、してなかったのに。
あの人だけは、最後まで変わらないと思っていたのに。

涙が止まらなかった。
崩れ落ちるみたいに、何もかもが溶けていく。

(――私は、どうしたいんだろう)

答えの出ない問いだけが、静かに澪の胸を締めつけていた。
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