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第5話・期待なんてしていないはずなのに
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(どうして、こんなに落ち着かないんだろう)
退職の意向を伝えてから、2週間が過ぎた。
本来なら、今ごろは次の引き継ぎや手続きが始まっていてもおかしくない。
けれど――何も、始まらない。
人事からの連絡もなければ、崇雅からも何もない。
(…本当に、伝わってるよね?)
自分で言い出しておいて、こんなふうに不安になるのは矛盾している。
でも、なにも起きない“静かさ”は、逆に胸をざわつかせた。
午前の業務中。
内線が鳴って、隣の席の先輩が受話器を取り、すぐ澪の方を見た。
「結城さん、ちょっと確認。あの件、A社じゃなくてB社の調整でよかった?」
「え?……はい、そう聞いてますけど……?」
「だよね。部長が資料差し替えてて、確認って」
先輩は軽く首をかしげながらそう言った。
澪は思わず手を止める。
(やっぱり、部長が……)
ここ数日の調整。
苦手だったクライアントやイレギュラー対応の仕事が、
“偶然”では説明しきれないほど外されている。
それだけで、気持ちが少しだけ軽くなる自分がいた。
だけど、それ以上に――困惑の方が大きかった。
(辞めるって言ったのに。どうして私に、こんなことを……)
昼休み。
社内カフェスペースで、澪はいつものように数人で軽く雑談していた。
「結城ちゃんって、お菓子とか作るの得意なんだっけ?」
「はい。たまに作りますよ」
「バレンタインとか、配る系?」
「いえ、あくまで趣味なんで……」
笑いながら返していると、ふと、視線を感じた。
何気なく振り返ると――少し離れた場所から、崇雅がこっちを見ていた。
目が合った瞬間、すっと視線を逸らされる。
でも、その一瞬が、澪の心に妙な緊張を走らせた。
(……見てた?)
別にやましい会話をしていたわけでもない。
なのに、なぜか“咎められた”ような気がした。
(気のせい……だよね?)
だけど、胸の奥がざわつくのは止められなかった。
午後。
資料室で必要なファイルを探していたとき、誰かの気配を感じて振り返ると、また崇雅がいた。
「……部長」
「今朝の資料、よく確認しておいてくれ」
それだけを言い残して、ファイルを棚に戻して立ち去る。
その声も背中も、いつも通りの無表情。
だけど――昨日と違う、今日だけの“何か”を感じてしまう自分がいた。
(……期待なんて、していないはずだった)
退職の意向は、本気だった。
それでも、崇雅の行動ひとつひとつに、いちいち心が反応してしまう。
(もう、どうしたらいいの……)
気持ちは決まっていたはずなのに。
その決意が、少しずつ崩れていく音が、心のどこかで響いていた。
翌日ー。
(……また、やってしまった)
会議用の資料に、誤字。
しかも、関係者名の漢字を間違えるという、初歩的なミス。
配布前に自分で気づいて修正した。
大きなトラブルにはならなかったけれど、それでも。
(こんな凡ミス、今までなら絶対にしなかったのに)
体が、重い。頭が、ぼんやりする。
心のどこかに、ずっと霧がかかっているような感覚。
焦り、不安、混乱――
どれも言葉にできないまま、ひたすら“平気なふり”でやり過ごしていた。
けれど、その仮面も、そろそろ限界だった。
「結城さん、大丈夫?顔色、あんまり良くないよ」
夕方、隣の席の先輩がそっと声をかけてくる。
「え……あ、大丈夫です。ちょっと寝不足で」
笑顔を返したけれど、声がうわずっていた。
(寝不足もあるけど、それだけじゃない)
退職の意向は伝えた。
でも、何も変わらない日々が続く中で、
“このまま何もなかったことにされるのでは”という不安が募るばかりだった。
(……でも、あの人は)
崇雅は、相変わらず口数が少なくて、何も言ってこない。
なのに、気づけば苦手な仕事から外れていて、重たい業務は他の人へ回っている。
(優しいのか、そうじゃないのか……もう、わからない)
終業時刻間際。
澪が自席で処理をしていると、他部署の社員がふらりと現れた。
「ねぇ、結城さん。○○案件ってそっちで手伝える余裕ある?」
そう言いながら、ファイルを机に置こうとしたその瞬間。
「――その案件、既にこちらで振り分け済みです」
低く、冷ややかな声が背後から響いた。
振り向くと、崇雅が立っていた。
その表情に、いつも以上の鋭さが宿っている。
「余裕があるかどうかは、私が判断します」
相手は一瞬で引き下がり、頭を下げて戻っていった。
澪は、何も言えなかった。
(どうして……)
きっと、また調整されていた。
この件も、私の負担にならないように。
誰よりも忙しいはずの人が、なぜそこまで。
「……ありがとうございます」
小さくそう呟いたが、崇雅は返事をせず、ただ去っていった。
その背中を見つめながら、澪の胸の奥でまた何かが崩れる。
(もう……辞めたい、っていう気持ちが、どこにあるのか、わからない)
心が、ついてこない。
言い出したのは自分なのに。自分で決めたはずなのに。
“逃げたかっただけ”だったのかもしれない。
でも、あの人の態度は、いつも通り無愛想で。
それでも――なぜか“守られている”という安心感だけが、澪の中に残っていた。
退職の意向を伝えてから、2週間が過ぎた。
本来なら、今ごろは次の引き継ぎや手続きが始まっていてもおかしくない。
けれど――何も、始まらない。
人事からの連絡もなければ、崇雅からも何もない。
(…本当に、伝わってるよね?)
自分で言い出しておいて、こんなふうに不安になるのは矛盾している。
でも、なにも起きない“静かさ”は、逆に胸をざわつかせた。
午前の業務中。
内線が鳴って、隣の席の先輩が受話器を取り、すぐ澪の方を見た。
「結城さん、ちょっと確認。あの件、A社じゃなくてB社の調整でよかった?」
「え?……はい、そう聞いてますけど……?」
「だよね。部長が資料差し替えてて、確認って」
先輩は軽く首をかしげながらそう言った。
澪は思わず手を止める。
(やっぱり、部長が……)
ここ数日の調整。
苦手だったクライアントやイレギュラー対応の仕事が、
“偶然”では説明しきれないほど外されている。
それだけで、気持ちが少しだけ軽くなる自分がいた。
だけど、それ以上に――困惑の方が大きかった。
(辞めるって言ったのに。どうして私に、こんなことを……)
昼休み。
社内カフェスペースで、澪はいつものように数人で軽く雑談していた。
「結城ちゃんって、お菓子とか作るの得意なんだっけ?」
「はい。たまに作りますよ」
「バレンタインとか、配る系?」
「いえ、あくまで趣味なんで……」
笑いながら返していると、ふと、視線を感じた。
何気なく振り返ると――少し離れた場所から、崇雅がこっちを見ていた。
目が合った瞬間、すっと視線を逸らされる。
でも、その一瞬が、澪の心に妙な緊張を走らせた。
(……見てた?)
別にやましい会話をしていたわけでもない。
なのに、なぜか“咎められた”ような気がした。
(気のせい……だよね?)
だけど、胸の奥がざわつくのは止められなかった。
午後。
資料室で必要なファイルを探していたとき、誰かの気配を感じて振り返ると、また崇雅がいた。
「……部長」
「今朝の資料、よく確認しておいてくれ」
それだけを言い残して、ファイルを棚に戻して立ち去る。
その声も背中も、いつも通りの無表情。
だけど――昨日と違う、今日だけの“何か”を感じてしまう自分がいた。
(……期待なんて、していないはずだった)
退職の意向は、本気だった。
それでも、崇雅の行動ひとつひとつに、いちいち心が反応してしまう。
(もう、どうしたらいいの……)
気持ちは決まっていたはずなのに。
その決意が、少しずつ崩れていく音が、心のどこかで響いていた。
翌日ー。
(……また、やってしまった)
会議用の資料に、誤字。
しかも、関係者名の漢字を間違えるという、初歩的なミス。
配布前に自分で気づいて修正した。
大きなトラブルにはならなかったけれど、それでも。
(こんな凡ミス、今までなら絶対にしなかったのに)
体が、重い。頭が、ぼんやりする。
心のどこかに、ずっと霧がかかっているような感覚。
焦り、不安、混乱――
どれも言葉にできないまま、ひたすら“平気なふり”でやり過ごしていた。
けれど、その仮面も、そろそろ限界だった。
「結城さん、大丈夫?顔色、あんまり良くないよ」
夕方、隣の席の先輩がそっと声をかけてくる。
「え……あ、大丈夫です。ちょっと寝不足で」
笑顔を返したけれど、声がうわずっていた。
(寝不足もあるけど、それだけじゃない)
退職の意向は伝えた。
でも、何も変わらない日々が続く中で、
“このまま何もなかったことにされるのでは”という不安が募るばかりだった。
(……でも、あの人は)
崇雅は、相変わらず口数が少なくて、何も言ってこない。
なのに、気づけば苦手な仕事から外れていて、重たい業務は他の人へ回っている。
(優しいのか、そうじゃないのか……もう、わからない)
終業時刻間際。
澪が自席で処理をしていると、他部署の社員がふらりと現れた。
「ねぇ、結城さん。○○案件ってそっちで手伝える余裕ある?」
そう言いながら、ファイルを机に置こうとしたその瞬間。
「――その案件、既にこちらで振り分け済みです」
低く、冷ややかな声が背後から響いた。
振り向くと、崇雅が立っていた。
その表情に、いつも以上の鋭さが宿っている。
「余裕があるかどうかは、私が判断します」
相手は一瞬で引き下がり、頭を下げて戻っていった。
澪は、何も言えなかった。
(どうして……)
きっと、また調整されていた。
この件も、私の負担にならないように。
誰よりも忙しいはずの人が、なぜそこまで。
「……ありがとうございます」
小さくそう呟いたが、崇雅は返事をせず、ただ去っていった。
その背中を見つめながら、澪の胸の奥でまた何かが崩れる。
(もう……辞めたい、っていう気持ちが、どこにあるのか、わからない)
心が、ついてこない。
言い出したのは自分なのに。自分で決めたはずなのに。
“逃げたかっただけ”だったのかもしれない。
でも、あの人の態度は、いつも通り無愛想で。
それでも――なぜか“守られている”という安心感だけが、澪の中に残っていた。
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