【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな

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第35話・見抜かれた強がり

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四月も半ば。
年度初めの慌ただしさは少しずつ落ち着いてきた——はずだった。

澪は相変わらず、忙しない日々の中にいた。

新しく任されたE社の案件は、想像以上に動きが速く、
関係各所との調整や書類作成、クライアント対応に追われる毎日。

残業は当たり前。
終電を逃して崇雅に送ってもらう日も、何度かあった。

一方で、崇雅も相変わらず多忙を極めていた。
大型案件をふたつ同時に抱えたまま、
部署全体の進行管理まで引き受けているのだから、当然と言えば当然だ。

(……なのに、ちゃんと時間を作ってくれる)

ふたりで過ごす休日は、週に一度。
崇雅の車で少し郊外まで出かけたり、
街の静かなカフェで遅めのランチを取ったり。

どんなに忙しくても、
“恋人である時間”を大切にしてくれるその姿勢が、澪の支えになっていた。

だからこそ——
平日は全力で走ろうと、自然に思えていた。

(ちゃんと、両立できてる……はず)

恋も、仕事も。
どちらも中途半端にはしたくなくて。

だから気づかないふりをしていた。
少しずつ、身体が重くなっていること。
集中力が散る瞬間が増えていること。

澪は、いつもどおりに振る舞っていた。
——いつもどおりでいたかった。

けれど、それはほんの数日先に、
崩れることになる。


——————

水曜日の朝。
目覚ましの音に手を伸ばした瞬間、澪はすぐに異変に気づいた。

(……熱い。身体、重い……)

喉の奥がひりつくように痛くて、関節も鈍く軋んでいる。
布団の中から起き上がるだけで、頭がぐらりと揺れた。

けれど、ためらっている時間はなかった。

(今日、午前も午後も打ち合わせ……外せない)

先方のスケジュールも調整済み。
自分が進行役を務める資料も、プレゼン内容も、昨日の夜遅くまで整えていた。

今さら「行けません」とは言えない。

澪は洗面台に立ち、ゆっくり顔を洗いながら鏡を見る。
目の下のクマはいつもより濃く、唇の色も少し悪い。

(薬、飲んでいこう)

常備していた市販の風邪薬を飲み、
マスクを着けて出勤の準備をする。

冷えないようにパンツスタイルのスーツに着替え、
寒気がする身体に、少しでも体温を保つようにストールを巻いて、鞄を肩にかけた。


通勤電車の中も、会社に着いてからも、
頭はぼんやりとしたまま。

(今日だけ……今日さえ乗り切れば)

パソコンの起動音、周囲の会話、電話の着信音。
どれも遠くから聞こえるようで、現実感が薄かった。


午前10時、クライアントとの打ち合わせが始まる。
言葉を選んで話すだけでも、額に汗がにじむ。

でも、顔には出さなかった。
いつも通りの声、いつも通りの進行。
“東條の部下”として、恥をかかせたくなかった。
そして澪は思っていた。

(大丈夫。……ちゃんとやれてる)

体調は確実に悪化しているのに、
“今日だけは倒れられない”という意地だけで立っていた。


午前の打ち合わせが終わったのは、11時半を少し回った頃。
澪は一礼してクライアントを見送り、そのままフロアに戻ったが、
自分のデスクに着いた瞬間、ぐらりと視界が傾いだ。

(……大丈夫、薬は効いてる。たぶん)

肩で呼吸を整えながら、画面を開いて午後の資料を確認する。
少しでも目を閉じたら、そのまま落ちてしまいそうで、瞬きを深くするだけでも怖かった。

喉の奥は焼けるように痛く、額には冷たい汗が浮いている。

(午後も……やらなきゃ。私しか、進められない)

午後の打ち合わせは、新規案件の要件確定。
クライアントとの最終調整に入る重要な局面で、自分が全体の流れをつかんでいる。

抜けるわけにはいかない。

そんなとき、聞き慣れた足音が、フロアをゆっくりと横切った。
姿を見なくても、澪にはわかった。

崇雅が、戻ってきたのだ。

澪は、無理やり体を起こしてモニターに視線を向けた。
いつも通りの自分を、保とうとした。

けれど——

「……結城」

その声に、背筋がぴくりと震える。
ゆっくり振り向くと、崇雅が数歩後ろに立っていた。
表情はいつものままなのに、目だけがじっと澪を見ている。

「……来い」

それだけ言って、崇雅は歩き出す。
澪は、無言で立ち上がり、ふらつく足を必死に抑えながらその背を追った。


会議室のドアが閉まる音が、ひどく重く響く。
その瞬間、澪は“隠せていなかった”ことを悟った。

「……薬、飲んできたんです。ちゃんと……だから、大丈夫です」

絞り出すようにそう言ったのは、
体調のことよりも、“迷惑をかけたくない”という一心だった。

けれど崇雅は、しばらく無言のまま澪を見ていた。
その沈黙が、逆に苦しい。

「午後の会議、外せないんです。私しか話せない内容もあるし……それに、部長も……」

「わかってる」

短く、低く返されたその声には、どこか怒りに似たものがにじんでいた。

「わかってるから、余計に言ってる」

「……」

「その状態で乗り切れると思ってるなら——それは、根性じゃなくて、ただの無理だ」

その言葉に、胸がきゅっと痛んだ。
でも、わかってるのは澪も同じだった。

(本当は、座ってるだけでもしんどいのに)

けれど。
崇雅が澪を“この案件のメイン担当”に据えたからこそ、
澪はその期待に応えたくて、踏ん張っている。

だからこそ、崇雅もまた——
本音では休ませたくても、「澪がいないと困る」と思ってしまっている。


午前を終えたばかりの時間、
閉ざされた会議室の空気だけが、いつもよりずっと重たかった。
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