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第59話・その背に、逃げ道はなかった
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デスクに向かいながらも、意識の半分は常に、澪の存在に向いていた。
彼女は一応逃げなかった。
朝、自宅のドアを開けたときに顔を見て、それを確認した。
だから今、同じフロアにいてくれることは、ひとまずの安堵だった。
だが——それだけでは、何も解決しない。
右手をかばいながら、片手でキーボードを打つ澪の姿は、見ていて痛々しい。
仕事の進捗も明らかに遅れている。
本人がそれを一番気にしているのもわかっていた。
(助けたい……)
けれど、自分の机を離れるわけにはいかなかった。
出張明けの業務は山積みで、次々に報告と確認が飛び込んでくる。
それに、部長という立場もある。
公私の線を越えるわけにはいかない——少なくとも、表向きには。
(……澪が怪我してるのに、俺は何してんだ)
自分自身に苛立ちが募る。
そんなときだった。
ふと視線を上げると、澪の横に西岡が座っていた。
彼女のPCを代わりに操作し、澪はその横で資料を手に持って指示を出している。
目を伏せて、ほんの少しだけ緩んだその横顔。
——安堵していた。
自分以外の男に、あんな表情を見せている。
(……なんで西岡なんだ)
西岡が悪いわけではない。
むしろ、部署の中でも指導的で信頼のおける社員だとわかっている。
それでも、澪のあの“ほっとした顔”が、
自分に向けられたものではないことが、どうしようもなく腹立たしかった。
(俺じゃなきゃ、ダメだろ)
そう強く思っているはずなのに——
自分以外の誰かに安らいでいる澪の姿が、頭から離れない。
胸の奥で、何かが静かにきしむ。
今はただ、どうしようもない焦燥と苛立ちだけが残った。
澪がパソコンを閉じたとき、時計の針は19時を回っていた。
(……何も、進んでない)
今日一日、処理できたのは急ぎの案件だけ。
本来なら、来週以降に備えて資料の整理や次の準備もしておきたかったのに、指が思うように動かず、それどころではなかった。
(……これが、あと何週間も……)
右手をかばうたびに、溜め息ばかりが増える。
仕事が進まない自分にイライラし、それに苛立つ自分にまた落ち込む。
(どうしよう、これから)
出口のない悩みに頭を抱えながら、澪は机の引き出しにそっと書類をしまった。
来週こそ、もう少しやれるように。
そう思って席を立ったとき——
「結城」
背後から、落ち着いた声がかかった。
その声に思わず肩が跳ねる。
「……はい」
振り返ると、そこには崇雅が立っていた。
スーツの上着は脱いで腕にかけ、ネクタイを緩めている。
表情はいつものように冷静で整っているのに、目の奥だけがどこか鋭く光っていた。
「少し、話そう」
短く、けれど有無を言わせない声だった。
緊張が背筋を走る。
(……逃げられない)
澪はそっと頷き、カバンを持ったまま、崇雅のあとに続いた。
静まり返った会議室の空気を切るように、崇雅の声が響いた。
「今夜は、うちに連れて帰る」
その口調は穏やかでも、否応のない圧があった。
澪は一瞬、言葉を失い、それから慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です。それは……私、ちゃんと帰れますから」
「本当に?」
崇雅の瞳が鋭く光る。
「片手が使えない状態で、ドアの鍵は? 風呂は? 食事の支度は? 着替えは?」
「……っ」
一つひとつ、突き刺さるように突きつけられる現実。
澪は言葉を詰まらせたまま、下を向いた。
「今は平気でも、夜になってから体調が崩れたら?」
「……でも、それは……」
「言ったはずだ。今度は、何かあってからじゃ遅い」
静かな声だった。けれど、その奥にあるものは、怒りでも焦りでもなく、ただ——真剣だった。
「澪を意思を尊重したいと、お前を一人にしたのは、俺の判断ミスだ。もう繰り返さない」
澪は視線を上げられなかった。
それでも、崇雅の言葉が胸に深く届いていく。
「行くぞ」
それだけ言って、崇雅は会議室の扉を開けた。
澪は黙ったまま、数歩遅れてその背を追う。
フロアに戻ると、数人の社員たちがまだ残っていた。
崇雅は無駄な説明をせず、淡々と告げる。
「この後の急ぎの対応は、自宅で処理する。あとは任せた」
「……はい、部長」
社員の一人が頷く。
その視線が澪に一瞬向けられるが、崇雅は何も言わず、そのままジャケットを羽織る。
「行くぞ」
澪にだけ聞こえる声でそう言うと、
彼女の肩に手を添え、そのまま会社をあとにした。
外は雨こそ止んでいたが、湿った空気が残っている。
車のドアを開け、澪を助手席に乗せた後、崇雅は何も言わずハンドルを握った。
エンジン音だけが、夜の静寂を切り裂いていた。
彼女は一応逃げなかった。
朝、自宅のドアを開けたときに顔を見て、それを確認した。
だから今、同じフロアにいてくれることは、ひとまずの安堵だった。
だが——それだけでは、何も解決しない。
右手をかばいながら、片手でキーボードを打つ澪の姿は、見ていて痛々しい。
仕事の進捗も明らかに遅れている。
本人がそれを一番気にしているのもわかっていた。
(助けたい……)
けれど、自分の机を離れるわけにはいかなかった。
出張明けの業務は山積みで、次々に報告と確認が飛び込んでくる。
それに、部長という立場もある。
公私の線を越えるわけにはいかない——少なくとも、表向きには。
(……澪が怪我してるのに、俺は何してんだ)
自分自身に苛立ちが募る。
そんなときだった。
ふと視線を上げると、澪の横に西岡が座っていた。
彼女のPCを代わりに操作し、澪はその横で資料を手に持って指示を出している。
目を伏せて、ほんの少しだけ緩んだその横顔。
——安堵していた。
自分以外の男に、あんな表情を見せている。
(……なんで西岡なんだ)
西岡が悪いわけではない。
むしろ、部署の中でも指導的で信頼のおける社員だとわかっている。
それでも、澪のあの“ほっとした顔”が、
自分に向けられたものではないことが、どうしようもなく腹立たしかった。
(俺じゃなきゃ、ダメだろ)
そう強く思っているはずなのに——
自分以外の誰かに安らいでいる澪の姿が、頭から離れない。
胸の奥で、何かが静かにきしむ。
今はただ、どうしようもない焦燥と苛立ちだけが残った。
澪がパソコンを閉じたとき、時計の針は19時を回っていた。
(……何も、進んでない)
今日一日、処理できたのは急ぎの案件だけ。
本来なら、来週以降に備えて資料の整理や次の準備もしておきたかったのに、指が思うように動かず、それどころではなかった。
(……これが、あと何週間も……)
右手をかばうたびに、溜め息ばかりが増える。
仕事が進まない自分にイライラし、それに苛立つ自分にまた落ち込む。
(どうしよう、これから)
出口のない悩みに頭を抱えながら、澪は机の引き出しにそっと書類をしまった。
来週こそ、もう少しやれるように。
そう思って席を立ったとき——
「結城」
背後から、落ち着いた声がかかった。
その声に思わず肩が跳ねる。
「……はい」
振り返ると、そこには崇雅が立っていた。
スーツの上着は脱いで腕にかけ、ネクタイを緩めている。
表情はいつものように冷静で整っているのに、目の奥だけがどこか鋭く光っていた。
「少し、話そう」
短く、けれど有無を言わせない声だった。
緊張が背筋を走る。
(……逃げられない)
澪はそっと頷き、カバンを持ったまま、崇雅のあとに続いた。
静まり返った会議室の空気を切るように、崇雅の声が響いた。
「今夜は、うちに連れて帰る」
その口調は穏やかでも、否応のない圧があった。
澪は一瞬、言葉を失い、それから慌てて首を振った。
「だ、大丈夫です。それは……私、ちゃんと帰れますから」
「本当に?」
崇雅の瞳が鋭く光る。
「片手が使えない状態で、ドアの鍵は? 風呂は? 食事の支度は? 着替えは?」
「……っ」
一つひとつ、突き刺さるように突きつけられる現実。
澪は言葉を詰まらせたまま、下を向いた。
「今は平気でも、夜になってから体調が崩れたら?」
「……でも、それは……」
「言ったはずだ。今度は、何かあってからじゃ遅い」
静かな声だった。けれど、その奥にあるものは、怒りでも焦りでもなく、ただ——真剣だった。
「澪を意思を尊重したいと、お前を一人にしたのは、俺の判断ミスだ。もう繰り返さない」
澪は視線を上げられなかった。
それでも、崇雅の言葉が胸に深く届いていく。
「行くぞ」
それだけ言って、崇雅は会議室の扉を開けた。
澪は黙ったまま、数歩遅れてその背を追う。
フロアに戻ると、数人の社員たちがまだ残っていた。
崇雅は無駄な説明をせず、淡々と告げる。
「この後の急ぎの対応は、自宅で処理する。あとは任せた」
「……はい、部長」
社員の一人が頷く。
その視線が澪に一瞬向けられるが、崇雅は何も言わず、そのままジャケットを羽織る。
「行くぞ」
澪にだけ聞こえる声でそう言うと、
彼女の肩に手を添え、そのまま会社をあとにした。
外は雨こそ止んでいたが、湿った空気が残っている。
車のドアを開け、澪を助手席に乗せた後、崇雅は何も言わずハンドルを握った。
エンジン音だけが、夜の静寂を切り裂いていた。
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